上映集団ハイロー断片映画祭評

 

 

 

未知のフラグメント-上映集団ハイロ 断片映画祭

 H・K

 

 

 数ある映画館を指す言葉のひとつに“名画座”というものがある。小規模劇場という点において、しばしば“ミニシアター”と混同されることがあるが、一般的には前者が過去の名作を上映するのに対し、後者は大手の映画配給会社を経由しない作品を上映する場所であると定義されている。

 急速な映像技術の発達はIMAXや4DXなどの立体的なスペクタクルを体感可能な最先端の劇場を同時に作り上げたが、そのようなハイテク技術に抵抗を覚える一部の映画観客にとって、名画座は昔ながらの安らぎと温もりを与える。

 <上映集団ハイロ>(以下:ハイロ)の上映会は、そのような下町人情溢れるような個人映画の上映会である。<ハイロ>は70年代以後の日本の実験・個人映画史を紐解くときに必ず目にするグループで、今年で活動開始およそ50年を数える。※1作品毎の短いトーク、そして、実験映画作家・ほしのあきらによる魂のこもった辛口コメント(時にはアーティストネームの改名という悲劇まで!)を浴びせられる特異なスタイルは、自主上映会という形態ならではであろう。

 そんな<ハイロ>が今年の2月に企画したのが「断片映画祭」である。通常、“断片”とは欠片であり、それ自体完成していないものを意味する。完成しない(あるいはしていない)映画?「断片映画祭」というタイトル自体がいささかアンビバレントで大喜利めいているが、出品作家達はいずれも規定である8分以内の作品で、形式面においても内容面においても、映画における“断片”という概念を再考させられるような、映画/映像言語に対する挑戦的な試みを行っていた。ここで総数21作品全てについて記述するのは難しいので、以下、いくつかの作品を主観的に分類してみたい。

 

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 ほかならぬ“私自身”の日常をテーマにした作品にとって、撮影とはどこまでも孤独な行為となる。しかし、作家とカメラの孤独な関係はそれ故に、制作者自身の思考や内面をレンズを通じて“まなざし”として表象させる。

 スマホ撮影による縦長の画面という、いかにも現代的な手段を用いて「そこにあった」日常をプリミティブに記録した、柴田yoo容子『どうにも止まらない北風かざぐるま』。同じくスマホカメラの画質の粗さを逆手に取って新しい夜景の姿を見出した、マエダシゲル『迷い影』。強迫神経症的に落ち着かないカメラワークと円形に切り抜かれたフレーム、そして轟音のハーシュノイズによる圧巻の風景映画、梅宮雅夫『耳石ずれ夏』。これらの作品は「撮影した日常の断片をそのまま日常として提出」するのではなく、撮影を通じて発見された作家自身の日常-内面を編集を通じて相対化させようとする、独自の“まなざし”があった。

 本プログラムのなかには断片と呼べるのか疑わしいものも含まれていたが、それらは個々の作品として完結しつつも、連続して見たときに、一つの時代精神を見て取ることができる。

 例えば、巨大耕作ロボットが活躍する短編アニメーション、岸本真季『戦え!!ハクマイダーフォー』や、RPG制作ゲームを用いて作られた少女趣味的な3Dの学園ドラマ、マリエンバード『酷士館高校風紀委員物語』(作者は予備校の教員)は、「自然災害」や「ブラック校則」といった現代的な社会問題を作家なりの視点でコミカルに風刺している。とりわけ、荒削りな体当たりアクションと無駄に高度な映像効果が映えるZ級SF映画、『Yukishiron Koumori』では、パンデミックという最もタイムリーなテーマを扱っている。本作品を見て、私は「なぜZ級映画において、登場人物は何かと半裸になるのか?」という哲学的な問いについて考えざるを得なかった。

 ほかにも、カオティックなデジタルパターンに合わせて不確定な言葉が語られる高橋佑輔『虚無』、二階調化された植物や水面などの自然の情景を重層的なレイヤーで構成した森洋子『瞑想』などは、いずれも抽象的なイメージの断片によって無意識的な世界への交信を試みている。

 上述した以外にも、形式的な面において特に際立っていた3本の作品がある。白熊吾郎(山田大改め)『ELEBATOR』は、モノレールの車窓から撮影された水平的な運動がフレームの操作により、下降するエレベーターのような垂直的な運動に置き換えられ、カットアップされた不明瞭なアナウンスと相まって独特の不気味さと不安を感じさせる作品である。また、インターネット上のブログや動画共有サイトなどでいやが応でも目にする大量の動画広告をサンプリングして繋げた二階堂方舟『アド』(タイトルは作中にも曲が引用されている有名な“歌い手”とADとのダブルミーニング)、iPadの8ミリカメラアプリとテレシネした8ミリ素材を電子的に加工した拙作『伊豆-社員旅行』は、本プログラムの中でも特に異色的である。

 また、ほしのあきらの作品は唯一の8ミリ上映であった。彼の『断片一』では脱銀処理をしていないネガフィルムのベース面にスクラッチを施したと思われる、鋭利な影のようなイメージが展開される。現像のプロセスで生じる自然発生的な痕跡とは別種の人為的な痕跡は、作者の存在-影を感じさせる。※2

 続く『断片二』では、旧作を分解し、再編集することによって既視感(デジャヴ)を未視感(ジェメヴ)へと転換し、未完の作品に再構成させる試みが見られた。メロドラマともホラーとも取れない文字通りの“断片”となった映画は、その全容を観客の想像に委ねることとなる。※3これを見たとき、私はふと、当時の映画雑誌に掲載された1枚のスチル(その映画とは、かの『アンダルシアの犬』である)からイメージを空想し、未知の映像表現を切り開いた前衛記録映画作家達のストーリーを思い出さずにはおれなかった。

 

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 近年、美術館ではアート系映画の特集や映像作品を中心とした展示が珍しいものではなくなり、同時に若い世代のアーティストによって結成された自主上映団体の活動も目覚ましい。このような状況下で優れた作品を目にする機会が多くなった一方、 “コムズカシイ”理論で武装された作品や、ある種のセクト性を感じさせるグループの活動などを見ると、時に名状し難いような風通しの悪ささえ感じることもある。<ハイロ>の上映会はそのような息苦しさとは対照的な、激動の社会状況のなかで運動が煮えたぎり、表現が噴出していた時代のリアルを想起させる清々しさに満ちている。

 今回『断片映画祭』に出品されていた作品の多くは、決して技術的水準が高いとは言い難い。しかし、個人映画とは作り手達が今まさに探求しようとしている「気まぐれな断片」(ベンヤミン)、未知のフラグメントから成り立っている。長い間、硬い理論や史的意識に縛られない、個々人の自由な発想力、そして個人映画という日本で独自に発展したジャンルを見守り続けた<ハイロ>の今後の活動に益々期待したい。

 

(2022年2月)

 

※1:設立当初の代表は、ほしのあきら。その後、大房潤一となり、現在はマエダシゲルが務める。多彩な顔ぶれの作家が出品しており、一時期、自主映画から出発した園子温や、実験映画作家・芹沢洋一郎の作品などもあった。

※2:影は作家自身の中心的なテーマの一つである。

※3:これと似た作品に、J.X.ウィリアムス(アーティスト名は捏造で、実際にはカナダのファウンド・フッテージ系のグループ)が制作した3時間の長尺映画を18分の断片に分解した『処女の生贄』[原題:The Virgin Sacrifice]という実験映画がある。https://vimeo.com/68016143