ドキドキ四郎♪

 

 

● 反戦映画ではなく稲妻映画な

 『未帰還の友に』福間雄三監督

    (アップリンク吉祥寺)

 

 

【人間は稲妻】である。てことは、オレも、私も、稲妻だったのか!という普遍的衝撃を受け、司会進行に佇んだ『未帰還の友に』。これは【稲妻映画】なのだ。

 

ほしのあきら(敬称略)がアフタートークに呼ばれ、氏から、司会進行を仰せつかった。

 

ヒロインまさこの短パン姿【生脚の衝撃】冷めやらぬ戦時中、太宰治的主人公は、弟子学生を連れ、酒を求め、店の主人を拝み倒し、隠し酒を飲みつづける。すでに【酒は神】であり、奉るほどの貴重品だ。私などの寝酒に一杯など何の感慨もない酒への接し方には大反省を迫られる。しかし、それは、本題ではない。

 

【人間は稲妻】である。稲妻は、大電流を大放電し、樹木などを焦がし倒すのだが、もしかして、オレ、私も稲妻かもしれない、否、かもではなく、きっと稲妻なのだと映画から、啓示を受けた私は、令和日本、現代人である私は、稲妻ではなく、電気で良いのではないだろうかと、少し及び腰になった。【人間は電気】である。これなら取り扱えそうである。

 

稲妻というからには、放電、交流、交感、すなわち【恋】への邁進かと思いきや、この戦争時代、【ブラック企業的国家】のデスマーチに巻き込まれた【未帰還の友=若者】は、恋、交感、交歓の末、恋人を精神的に叩き斬るのである。切り捨てる。おいおい、今時、そんなストイックなことする奴いないぜ!と思うが、この映画の今は、令和日本の今ではなく、昭和ド真ん中、戦争ド直球の【今】である。今は今でも【違う今】であり、しかも、その【違う今】が【今】なのである。今生きてる令和日本の私の【今】が【今は昔】となることは、時間が流れるものである以上、今でありながら昔であることは否めず、対等関係において、すべての【昔は今】である。

 

ほしのあきら曰く【リアルなようでリアルではい】。そう、物語中盤の少し前くらい「新宿ローズ」で行われる芝居と集団踊りが行われる舞台背景として据え置かれた【狂った書き割り】が物語る【真面目に戦争を描いてる】ように見せながら、実は、そんな気は【全然ない】のではないか、【リード≒触り≒キャッチ≒シーンの出だし的トーン】だけ時代的状況に合わせつつ、本来、その現実描写には体重を預けていない。もしかして、この映画は、描かれている具象の中に、描かれていない【余白】が内在しているのではないか!と脳をスルーして身体へと電流し【リアルなようでリアルではい】その映画世界にゆっくりと引き摺られていく。匍匐前進、銃剣による刺殺訓練、ジャングルでの遭難に近い進軍、象徴として提示されても、我々の戦争映画データを凌駕する気は毛頭なく、自分が現代人として蓄えた戦争データで自分で補足せよ!と言わんばかりの進み口は、しかし、太宰治的登場人物の語り口によって、しっかりと土台化され、能で言うところの「月」と言ったんだから、お前が月を見ろよ、と見るものの仕事を奪わない【余白】含みの伝統芸【夢幻能】を思わせる。太宰治没後75年企画映画だから、映像による追撃よりも、【太宰の語り】自体が映画の【骨格≒根本】なのだ。

 

この映画は【面白い、面白くない、よく出来ている、よく出来ていない】という単純なプラスマイナスの計算ではなく【如何にして変で、何が変で、何ゆえに変なのか】という小さい【振動≒違和感≒ズレ】から、掴み直したほうが、映画から受け取った、何らかの【身体≒電気】信号を、より自分に納得可能なものとして受け取り直すことができやすいのではないかと思われた。個人的に今ブームな町田康による町田文学の創作法【毎日書いて、自分の常識を乗り越え、自分の本当に至る、本当の変梃に至る】をそのまま分析法に逆立ちさせれば、その【作品≒映画】の【本質≒魂】を、より正確に産婆できるのではないか。そう、何かが変なのだ。【リアルなようでリアルではい】。しかし、じゃ、この映画にとってのリアルとは何か。【人間は稲妻】である。

 

【人間は電気回路】である。【死んだら何も無くなる】のだ。ちなみに、電気工作物の精度、価値、質は、【絶縁体≒電気を通さないもの】の強度によって決まる。配電所など大電流が扱われる場では【電線≒電導体】を電気的に宙空に浮ばせ、感電、被電、事故を起こさぬように【絶縁体】である碍子などに、50万ボルトなどの大電流を事前に与えて【耐圧試験】などを行う。【電気の良さ】を生活に活かすためには【電気を通さないもの】の下支えが必須となる。恋をしたから、恋を断ち切る【未帰還の友】。真似はしたくないが、否、私が真似する境遇は、今後訪れることはなかろうが、時代や戦争の前提条件から離れて、脱臼させ、その人の普遍的かつ擬似絶対の【純粋選択】として受け取らねば、申し訳が立たない。そう思わされた。だから、戦争を捨象し、自分にも通電する普遍的通路を再度、拾いあげたい、そんな焦りを、司会進行しながら、暗に抱いていた。ひとつの前提において、ひとつの電気回路が抱き、実行した選択を、あえて耐圧試験に合格した【ひとつの選択】として、正しさ、悲しさではなく、ただの【ROCK≒変】として受け容れること。好き過ぎたので、絶縁体することによって、その電気状況を永遠化した。しかし、それは、バーン!と稲妻になった途端に消えて無くなるわけですが、消えたはずなのに、映画として、見た人に伝えられてしまう不思議。

 

安田登によると、能は武士階級の嗜みだったそうで、敗者の怨念を、何か言いたいことを、【シテ≒主役≒霊】に【カラオケ≒舞≒空桶≒木霊】させ、暴れるだけ、暴れさせて、最後は消化する、いわば、ゴジラ劇のようなものらしい。そして、無いものを無いままに脳内現実、拡張現実、ARとして、観客の馬力によって魅せる芸能。つまり、実は映画とは、上映する際に、一番、仕事をしているのは、観客なのである。監督はすでに作り終わり、仕事は完了している。しかし、観客は、現在形で、自分が【映画の今】を全身で再現することになる。ひとりの役者ではなく、映画全体の役者として、映画の語る【もの】を自分の中に再現前化するのだ。

 

現代映画の主人公は、一番多くを物語り、場に立ち会うが、能から、見ると漂白の乞食僧、疲れ果て、座り込んだ場に、突如乱入する【荒ぶる魂】のパフォーマンスを無言にただ受け入れる【ワキ】に過ぎないのかもしれない。言わば、ギリシャ劇のコロスであり、ゴジラ-1.0のCGの代わりを太宰治の【語り】が担っているのだ。

 

戦争映画というジャンルを脱臼させ、普遍性に至る可能性として、この【未帰還の友に】は【余白】が内包されていた。期せずしてか、期してかは、別として、その感じうる、読みうる【余白】が、この映画の可能性だ。

 

● 未帰還の友に

https://mikikan.com

 

 

映像四郎

 

 

 

 

 

 

 



 

 

『abend』 高橋佑輔 Metalmaster Films

 

ガチ圧倒のド怪作!爆音上映に正気が持って行かれる。否、感情の排気量で日常の限界を突き破った月面に不時着させられる。鉄男✖️ポンポ✖️プログラマー✖️デスメタル➗セッション=ド狂気。【アベンド】

 

ヒガシのド狂気に引っ張られて主役が鋳型され、ド熱量で殻割れ、グジャグジャに肉魂が噴出。猛々狂々毒々の火焔人間。すべて、ブッ壊れている。ガチ大傑作。感想を書きたくないくらいに圧倒された!【アベンド】

 

高橋監督の今までの作風とのあまりの違いに、灼熱鉄棒がミゾオチを貫き、自家製のマヨコロッケを鼻から噴出、地獄の快楽が、空と宇宙を繋げる、魂の暴力のその先!ああ、高橋監督は本物の映画監督になったんだ。。鼻先につんと来る多次元バイオレンス。こ、これが映画だ!必見。。【アベンド】

 

 

『キラークイーンBEGINS』  高橋佑輔 Metalmaster Films

 

キラークイーンビギンズを見て、第一印象のSF監督ではなく【触手の質感×美少女に返り血の質感】だけを味わう【質感監督=コアフェチ監督】なのではないかと。軽トラで宇宙の果てを目指す男、雪山でひたすら銃を構える男、キーボードで自分の肉魂を作り変える男、実はワンモチーフで臨界突破の俳句作家だ

 

第8電影さんに、

2024 1/28(日)ブキニョボキ

2/12(月)上映集団ハイロ

5/3(金)断片映画祭3

のチラシを置かせていただきました

ありがとうございます!

 

https://film8th.mystrikingly.com

 

https://camp-fire.jp/projects/view/708500

 

 

『私の文学史』町田康

 

仏陀が菩提樹の下で悟りを開いたように、TV時代劇の再放送と酒で変な本当に至る。悪魔を退ける代わりに常識を退け、真理に至る代わりに変梃に至る。坐禅の代わりに毎日書いて自分の頭蓋を破壊する。面白い。オートマ限定から、マニュアルへ至る魂の限定解除。面白い。

 

 

『ヘル・レイザー』クライヴ・バーカー

 

悪魔の水戸黄門!顔に刺さってる釘が痛そうで、めちゃ気になっていたが、やっぱぶっ飛んだ映画は面白い。

 

 

『キリエのうた』岩井俊二

 

アカペラの響きが凄い。岩井俊二が森鴎外「舞姫」を3.11でやるような路上ライブだけに収まらない大きくて、感情、表情の襞に分けいる脈動作品。ある種、生まれ変わりのような土俗的な軸をいつも美しく現代的に調律する。橋のシーンの痛可愛いさに引き裂かれる。奇跡の瞬間をさりげなく掬い取るのが本当に上手い。やっぱり、こういう映画撮るんだ。それで、作ったら、こうなるんだ。見れてよかった。

 

 

『首』北野武

 

歴史舐めてんのか⁉︎くらいに、万人が万人に対する軽いお笑いによる殺しをしている世界。加瀬亮の狂った迫力と遠藤憲一の説得力が刺さった。スターシップ・トゥルーパーズ並みに、命が蚊レベルで叩き潰されていく世界。そして、人間は雑草レベルで、バンバン生えていく。人間が玉ねぎ同値で、何枚向いても、玉ねぎが出てきて、最後は空になる。見てるときは、ふーん、割と普通に見ていたが、見終わると、トータルに、世界がガガガガと相対化される。歴史物は、割と情が重くて苦手だし、あまり、詳しくないが、ともかく舐めている、というより、より新しいリアリティが提出されている。司馬史観ならぬ、北野私観。あたらしい歴私観の出現。権力が人権のためにある、という建前上のフィクションに対し、剥き出し利害獲得による、国の統一、成立過程は、権力の実相を皮剥きしてくれてるようで、さりげない大地震だ。

 

北野映画はよく見たが、ビートたけしは、ひょうきん族をちびっと見たり、バラエティで、ちこっと見たりで、お笑いのたけしが、何が面白いんだか、自分はまるで、知らなかったが、今回の【首】を見て、【笑いの原理主義者】だと思った。【首】の笑いが面白いかどうかは別にして、圧倒的に【命】を笑っている。否、命を笑う【権力≒天下人≒プレ政権】を笑っている。笑いは相対化であり、権威の貶め。シェイクスピアのころから、王をコケにできるのは道化であったが、真向こうから、頂点を笑いきったビートたけしは、首をかけて、お笑いしてたんだなと、1日経って、じんわり伝わった。殺人の迫力と、死に際の間抜けさの気だるい対比。これは、北野映画というより、【ビートたけし映画】なのだろう。

 

塚本晋也の【ほかげ】と北野武の【首】を同日に見て、権力にゲームされる【命の痛さ】と権力がゲームする【命の軽さ】が鮮やかに対比され、明るいバッドトリップ。

 

 

『ほかげ』塚本晋也

 

何故、塚本映画で子供が主人公なんだ⁉︎ 怖すぎて何も考えられないと思い、事前情報は何も入れず、肉体を持った強力な悪霊が金属の軋みを上げるがごとき戦後の超局地的映画に巻き込まれた。時代劇、戦争映画、どんなジャンル映画?をやっても、必ず、最初から脱ジャンルして塚本映画にする腕力。毎回、嵐が去って良かったねか、嵐の持続を与えられるが、今回、初めて、ほろっときた。今と対局の時代。だけど地続きの時代。そして原点。思わずメガネを忘れてきてしまったのだが、一番前の席だったので、メガネ要らず。塚本カメラの柔らかな揺れに全身を揺さぶられた。

 

趣里や森山未來のギアチェンジのストーン!と切り替わる感じが怖い。俳優や役者ではもはやなく、器な感じ。何か暗い闇に穴が通じてしまって、そこから声ならぬ別の魂が噴出する。

 

 

『ザ・キラー』デビッド・フィンチャー

 

気がついたら映画の時間のなかに足湯していた。映画館では主導権を映画に奪われ他律的な時間を送る。だからこそ、深い呼吸に、自分のリズムを捨てて、徐々に同期していける。配信は、自分の手に再生ボタンが握られているので、どうしても、まだ、してない食器洗いが気になったり、ちょっとした間を共有できずに、物語の筋だけ追おうとしたり、映画とのクラッチングが上手くいかず、ギアの変速字にチェーンが外れてしまうこともある。大根仁さんや、佐藤佐吉さんが、タイムラインで映画館で見ろ!とやたら薦めているので、これは見なきゃあかんと思い、見れて、良かった。この作品が持つ独特な映画時間に肩まで浸かれた。それにしても、殺し屋の殺しアクションだけでなく、綿密かつ、日常生活にも根ざした、Amazonやホームセンターなど、手の届く事務処理感に痺れた。

 

映像四郎

 



 

 

現代劇を纏った原始芸能

『他人と一緒に住むという事』

八木橋努監督

 

ほしのあきら(敬称略)がアフタートークをするというので、ハイロのチラシを持って行った。何故か、流れで、司会進行を八木橋監督から仰せつかった。

 

映画を見た。家のない人が、家がないからこそ、他人の家に上がり込む。夫婦でも家族でもないのに、何らかの【族≒生存場を共有する者】になる。無職おじさん、被災者、芸術家ニート、女王様、同時多発的に家のない人が、発生し、貨幣のように、人様の家、生活、事情の余白に入り込み、流通していく。自動交換されていく。出来事は即物的で分かりやすい。なのに、根源的な部分で何かが圧倒的に分からない。どこからどう割り算しても、腑に落ちない【余り】が出る。言語化不可能性。この映画は、何かを描いたから、面白い、価値があるのではなく、何かを切り捨てているから、何かを描かないから、面白い、価値があるのではないか。または、何らかの部品が構造的に脱落している。だから、見ながら、躓きつづける。分かるけど、どこで、何かがつっかえつづける。一体、それは何なのか。司会進行をしながら、その謎に追われた。そして、映画内人物たちは、回転木馬のようにぐるぐると同じ風景を周りつづけ、土を入れた水槽の蟻たちがガラス板越しに巣穴の迷路をせかせか作りつづけるがことく自分の事情で生活し、ゆっくりと、しかし、確実に変化してゆく。

 

謎の発生源は、八木橋監督の佇まいにあるのではないか。映画上映前の突如闖入させて頂いた打ち合わせの際、八木橋監督の佇まいが、普通の人、普通の役者、普通の俳優、普通の演出家、普通の監督と違い、ニュートラル過ぎた。そのニュートラルさは、能役者や古武術者を思わせる、癖や拘りをことごとく脱臼させ、無意識的身体統御レベルの半端ない深さを感じさせる。彼岸的な湖、無意識的身体統御レベルが半端なく深い。善悪、好悪、都合不都合を超えた、ただ、物として、自然としての在り方、眼差し、凪いだ莫大な水量を感じる。深作欣二がバトロワで、スラムダンクを持ち込み、こういう顔してくれと俳優に言った、ある種の若さや、灰皿を投げる蜷川幸雄やつかこうへい、電柱を引っこ抜く黒澤明とは違う別種の厳しさ。対局。演出ではなく、人ではなく、草深い山奥で藪漕ぎしながら辿り着いた静寂の湖。莫大な水量を抱えながら、白波を立てることもなく、ただ凪いでいる。しかし、湖面は静謐に凪ぎながら微細にうねっている。そんな【人≒者】ではない監督がカメラの後ろに【物≒自然】として、そこにいる。形容詞としての【自然】ではなく、名詞としての【自然】として、そこに【あった】のではないか。【いた】のではなく、あくまでも【あった】のだ。カメラの後ろに監督の代わりに樹がいたら、どう思う?樹齢5000年のガジュマル

つまり、八木橋監督が監督として立つということは、人、観客に対して、芸を表現する、させる、というよりも、自然、物、に対して、奉納させることに等しいスタンスが自動的に成立してしまったのではないのか。カメラの後ろにいるはずの監督に目を向けると代わりに、ゆんわりした洗面器の水がいる。そこには、ダメ出しがなく、しかし、水に少年ジャンプは通用しないから諦める。仕方なく捨てる。そんな厳しさ。場のアンカーポイントとしての中心軸が水ならば、人間は、役者は、運動する変な油として立ち現れる。ただの自然体映画と違う何らかの秘密、よじれ、いい意味でのおかしさ、即ち【変】は、『俺は見た』の俺が、人ではなく、人としての輪郭を脱臼した人ならぬ【者≒物≒自然】だったからではないだろうか。様々な監督と映画の絵柄を見比べていくとマンガの絵柄同様に、絵柄を決めるのは、最終的には表面上の演出ではなく、場における生きた肉柱の【在り方】なのではないかと感じる。映画とは、場と体の関係によって演出されたものなのだ。この映画は、何がどう面白いかではなく、何がどう変なのか、おかしいのか、という問いを立てたほうが、本質に接近できるのではないか。ほしのあきら然り、イメージフォーラム然り、この人たちの評価軸の基本は、暴力的に単純化してしまえば、言語化不可能性を内包しているか否かだ。伝統芸能じゃなくて、原始芸能。観客、人ではなく、自然に対して、芸能を捧げていたらどうなるのか?そんな実験、事件が、八木橋監督の【俺】によって、期せずして、暗礁として、迫り上がってしまった。灰皿投げ監督、演出家の対局にいるのは、平田オリザかもしれない。詳しくは知らない。知っているのは観客に役者が尻を向けて演技することがあるということくらい。しかし、歴史的に見れば、観客に向けて芸をする方が短い。古来、人間は、人間ならぬものに向けて、何かを身体行為において捧げてきた。表現ではなく、奉納してきた。この映画は、別段、役者が明後日の方向を向いているわけではない。だが、表面的な面白さの下で、円周率の小数点以下の数字が無限増殖するがごとく、起こり続けるパソコンで言うところの一般的なエラー。それは、見る側のOSと映画が実装するOSがそもそも、別物だからではないのか。現代劇を纏いながらも、実は、古代芸能語で記述されており、神話表現されている。分かりながらも、実は、分からない、受け取りきれない、こちらの受容体が発し続ける【エラー≒バグ】にこそ、この映画の真骨頂が識閾下に隠されている。つまり、【現代劇を纏った原始芸能】なのだ。

 

 

 

映像四郎

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

2023年2月11日

ハイロフリースペース

 

◆北澤宏昂/作品「(タイトル失念)」

 

【静物】画から【存在】画へ

 

何だったのだろう、あれは。記憶はすでに溶けている。リンゴがテーブルの上に載っている。8ミリ映写機が、カタカタと回りながら、そのぼんやり幻灯的に映し出された静物は静物しつづけている。画だったのか、静物画のように配置された【物】だったのか。そうだ、画ではない。物だった。ずっと見る。何で見てるんだろうと不思議に思う。世界は定義でできている。だが、物は【定義≒言葉】の外にいる。印象派は物自体を描こうとしていたのだろうか。この映像は印象派ではない。確か、影が動いたという話が後から出ていたから、静物画のように配置された現実の【物】をカメラで撮ったのだ。

 

散歩して、砂場の柵の中にあるベンチに座った。目の調整も兼ねて、ぼんやり、私が囲まれた、ただ、ただ、ド現実の建物や乗ったら揺れるはずの小さい馬の遊具、電柱、雲、空、傍に目をやると、公園と網柵で面した一軒家の後ろ姿には、窓にシャッターが下ろされ、上には監視カメラが2台ついている。反対側には、クリーム色に年季の入った釣り堀屋の裏壁には、迷路な内臓の配管が這っている。最初は、風景画のように、ベンチからの眺めを眺めていた。どこか一点、気になる箇所があると目がフォーカスし、たまに、20秒後くらいに、言語化される。普段、あまり運動をしないと、いつの間にか、静物画の文法でしか、風景を見ていないことに気づく。だから、目が疲れるのかもしれない。そして、記憶から、8ミリのリンゴの静物画的ド現実の【物≒ブツ】が浮上し、自分の眺めと、ゆらゆら並置される。現実の中で、視界はどこにでも志向できるが、視界は常に視界のままだ。

 

見ることは、話すことや字を作ることとは違う。だけど、何らかの文法を無意識的に前提している。何で、オレはこの眺めを見ているのだろう。言語認識の努力が、その映圧に負けたとき、意味受容機能はへし折れ、ただ、【物】が出現し、前後左右に海草し、静物画は、生物画へと変容し、視点が動かないからこそ、【脇目】の可能性が逆に浸透してくる。

 

【ド文法】と【ド正面】に【ド向き合い】するとわ脇に逸れられる余白の衝撃が生まれるのではないか。ギチギチの【動的静物】から【見る≒認識システム≒その人の社会的人格≒現実自動生成器】は揺らぎ、囚われに囚われることで、囚われの解毒剤と化するのかもしれない。【思考機械≒言語制作マシン】から【見る肉=居る肉≒歩く肉≒呼吸現象】へとシフトチェンジする。その【動的静物】画は、奇しくも【生物】画へと漏れ出していく。それは【存在】画への直面である。

 

じわじわと微震は続いている。自分は気づかなかったが、影が、ぴゃっと横切るのがいいという話は、そこが、時空間であり、他ならぬ【時】を介在させることができたということなのかもしれない。非映画的なるもの、一般的映画文法と異なる実験映画の面白さは、時として、見る者の身に内在した映画文法を【跨ぎ越させる】ところにあるのかもしれない。解釈不能、消化不能な物は、逆に、地霊のように突然、沸き立ち昇る。

 

映像四郎

 

 

 

 

 

 



 

 

 

◆せんだいメディアテーク

わすれン企画     2022/3/12

 

「星空と路」映画上映会

 

 

●生き直しの街、仙台。その映像✖️美術の中心地「せんだいメディアテーク」。凄いところだなとは昔から思ってましたが、ここまで深く多層的で、個々のココロに寄りそう姿勢が、柔らかく脈づいている場所だとは、気づいていませんでした。仙台、文化深い。深すぎる。こんな場所、なかなか無い。クラクラ来ました。 

 

 

●ある春のための上映会

 —佐藤そのみ監督作品—

①春をかさねて(2019/劇映画/45分)

②あなたの瞳に話せたら(2019/ドキュメンタリー/29分)

 

【佐藤そのみ監督の2作品】

 

【でも、現実は続く】。そうだな、現実つづいてるな。自分たちで、小学校遺跡を残してくれと訴えたが【果たして莫大な予算を掛けて残す意味があるのだろうか】という、この【利己的な反語が偉い!】と痺れます。もちろん、残しておいてほしい。良い子や、世間とは、別に、心が産声をあげた瞬間なのかなと。311の深い井戸を掘り進め、311という井戸から普遍的座標に立ち至った、喪失を抱えているが、自分の感覚で生きる、生き直す、その際、世間の用意した復興はもちろん大切だけど、世間が善意で用意してくれた文脈だけでは、着地できなかったココロの足が、自分の身体的生理を持ち直し、喪失を抱えつつ、それでも、普通な日常の中に佇み、呼吸しつづけていく、個的な【弔い≒復興】が、為された映画で、ああ、今、仙台の現実のカケラに、映画という形ではあっても、逆に濾過された何かに触れることが、多少はできたのではないかと、ありがたく感じました。

 

 

●震災記録を見る、読む、囲む―『飯舘村に帰る』バリアフリー上映の記録―(バリアフリー対応版)(わすれン!/2021/30分)

 

襞を聴く、襞を感じさせる【バリアフリー映画制作】。映像の読み込みと、相手に何を感じさせるのか、しっかりと話し合いをしながらも、単なる民主主義の、なあなあな最大公約数に陥らない、その映画の佇まいから掘り起こす、そして、決めつける、分かりやすい補助線ではなく、面持ちを作り手、作品の持っている筆づかい、息吹を、先に行き過ぎ、遅れ過ぎず、匙加減をしっかりと、しかし、ゆるやかに、画家か、運慶のように積み上げていく姿勢にビビりまくりました。言い淀みを伝えていく凄さ。

 

 

●過去を見直して、今を見つめる(杉本健二/2013/74分)

 

【佐藤そのみ監督のお兄さん主役ドキュ】

 

車の窓から過ぎゆく景色が徐々に神々しく、車音のグウウウウンに包まれるのが心地よく映画内現実、現実以上の現実に引き込まれ、助手席だかの、引き出しが映っているだけのカットすら、世界文学のようで、ウィスキーの酩酊感を醸し出されつつ、ずっと、一緒に旅をしている感覚に陥りました。モニュメントに手を合わせず、ちょっと、ムッとしているお兄さんを尻目に、それでも、丸ごと空気のようにカメラ回し続けるうちに、対象が非対象となり、視点がひとつの現実の中に行く様が、体感として、震災層へと、見ているものを組み込んでいき、いつの間にか、お母さんがカメラを回していたのは、すでに、この映画作品自体が、語弊のあるカテゴライズですが、被災者側へ、肩肘を張ることなく、場を共有する、動物としての人間として、身内として、取り込まれた瞬間なのかなと、あとで思い返すと、脳幹がくにゃんとくねり、不思議な感触に包まれたのは、キツネに摘まれた奇跡が、何かが降っていたのではないかと思われ、全編通して、ただの風景が、昔は、ここに家が連なっていた、鈴鳴っていた、家が失くなって、道が(逆に)、狭くなってしまったなど、前提を喪失した人の前提、ありし日を生きた人と、今、目の前にあるものだけが現在な視聴者、非被災者、画角で切り取るだけで、すでに虚構である、しかし、枠内では、ただただ客観であるはずだけの無機的機械としてのカメラ、制作者が、観察者が入ることによって、現実の観測値が変わる、何かの科学理論のように、ニュースメディアだけでは伝わらないサブメディアとして、生理に寄り添う、非定型な文脈が掬いとられている文脈と、その文脈を成立させる場の深さに、脱帽しました。

 

 

●連作 閖上録 アーカイブシリーズ(3)ダンサー・振付家 —個人の問題を越えて、何か多くの人と語り合っていく—(細谷修平/2012/33分)

 

【振付師のワンカット長回し】も、酩酊感が強く、現実がいつ瓦解するかわからないところに日々成り立っている日常の奇跡性に想いを馳せつつ、感じつつ呼吸している、生き直す、という身体性を伴った視点の耳にうるさくない優しさが、落ち着けました。

 

 

●中世山城遺跡新井田館跡を震災復興中央区に変える過程のごく一部(中谷可奈/2014/21分)

 

【城の遺跡】については、311関連の生態系の豊かさを如実に感じました。今でなく、古代にまで飛んでしまう。そして、今も、いつか、古代になる、だけど、生きている間は、今は今のままで、ずっと、消化しづらい何かは腹に残り続けるが、それでも、日々の営みを絶やさず、行為を重ねていく、ベーシックな健全さを感じました。

 

 

映像四郎

 

 

 

 

 

 



 

  

 

 

 

#大怪獣のあとしまつ 考

 

【わたしたち】は滑っている。そして、これからも【わたしたち】は滑りつづける。

 

え、オレたち、滑ってんのか⁉︎

勝手に一括りにするな!

 

そう、【わたし】は滑っている。この映画に一票入れてしまう人は、きっと、笑いのセンスがおかしいか、古い人なのかもしれない。

 

笑いとは、笑ってはいけないことを笑うことによって、共同体に補助線を引くバランス調整。いわば、共同体の外側から共同体の内語で記述するココロの【禁】線を刺激する暴力にならない暴力。

 

怪獣とは【フクイチ≒放射能ダダ漏れ≒メルトダウン≒核無限拡散】の暗喩。笑ってはいけない禁忌。50万年くらい、ゆるく熱せられたフライパンの上でダンス。映画的な解決は用意されていない。怖いのは、この映画より【滑っている現実】のほうかもしれない。

 

本来、【国禁】映画なのだ。わたしは、染谷のキノコ人間(ネタバレ)で、心の中でクスッと笑ってしまった。鬼ごっこで、鬼に捕まってしまった瞬間である。

 

面白い、面白くないに還元されてしまうだけではない【違和感≒残念感】が根底に伏流丸。日本は、ある意味、健全である。良かった。感電しても、手が離せるし、魔女狩りもない。

 

話はズレにズレて【シン・ゴジラ】と【君の名は。】が公開されたときは、311を引き受けて、日本人の中にある、整理のつかない、不分明なもやもやに、物語の形ではあっても、決着らしきものを与えてるのを見て、凄い勇気あるなと感動。あの時代、大ヒットしたが一歩間違えたら、大顰蹙になるかもしれない暗喩を扱っていた。そこを思い切り、踏み込んで、昇華していたところが偉いなと感じ、あれは、映画というより、映画の形を取った、ひとつの鎮魂の祭りだったのではないかと。掬い取れない余剰ができるのは、覚悟の上で、ひとつの形を与えることで、少しでも、相対化する補助線を与える。完全な形がないのを承知の上で、物語の形にまとめて、心の残骸をデフラグ、デトックスする。もしかすると、気づかないうちに、暴力になりそうな地点もありつつ、忖度、度外しで、ボールをゴール蹴り込むような勢い。日本国民の心に、ふわふわ浮いていた、形のつかない何かを掴みに行っていた。大ヒットは現象は、そんなニーズを鷲掴みにしたのではないかと。普段、人がまばらな私の近所のシネコンが、両映画とも、初日から、満員になっているのを見て、なんじゃこりゃと思い、見終わって、これは、祀りだと感じた。ひとつの事象に補助線を引く勇気を持っていた日本のクリエイターに脱帽。なんて偉い人たちなんだと。それまでは、世界崩壊のディストピア的に背景として扱っている映画はあったが、真正面から扱ったのは、上記二作品がきっと最初だろうと。

 

#大怪獣のあとしまつ は、不謹慎である。笑いが詰まらないというより、ああ、オレ、こういう現実のなかで、こんな感じに生きてることに心当たりがある気もする、というメタ笑いに天才を感じてしまう。岩松了たちの、滑りに滑って、絶対、着地しない寒さの戯画化が怖い。というより、自分は、普通に面白かったので、やばい。中国、ロシア、北朝鮮では、きっと、作った人間も、見た人間も【お山送り】である。

 

#大怪獣のあとしまつ は、絶望のリアルイカゲームの、些細な日常に、にっこり、虚空を穿ち、笑うに笑えないキノコ人間像を、そっと、心の水洗便所に流して忘却させる強靭な日常性に付箋をつけ、たまに、いたたまれない【笑い】に身悶えさせられたことを思い出させるのかもしれない。だけど、わたしは、基本、東京都民であり続けるだろう。

 

笑いの蛇口は、開きっぱなしだ。

 

 

映像四郎

 

 

 

 

 



 

  

 

 

ハイロ断片映画祭

【VS ほしのあきら】

 

 

禅の公案のようだ。

 

態度に力みがあると、

力が入ってる処に

【ぴしり】とくる。

 

態度に浮かれがあると、

浮かれている処に

【ぴしり】とくる。

 

寄り添う映画だねと

言ってくれたり、

【脱臼語】とか、

浮かれて使い出すと、

何が、脱臼語だと、

吐き捨てる。

 

【言葉≒見ること≒指摘】は、

固定したものではなく、

こちらの【態度≒姿勢≒身体】で、

【時処位で変転≒転石≒反応】

するものだ、ということが、

伝わってくる。

 

水鉄砲の銃撃シーンは、

よし、倒れて背中に、

土埃がついてるから、

いいかと、思うと、

映画は人を簡単に殺し過ぎ!

何が水鉄砲だ!と吐き捨てる。

殺しによって、

省かれてしまう、 

ドラマ過程省略の危険性

を指摘する。

 

世間一般の映画祭では、

上映されることも稀で、

反応がそもそも返ってこない。

人の目に触れること自体が、

至難の業だ。

 

実験映画作家として、

賞を総なめ、

ぴあ、イメージフォーラムの

審査員を歴任し、

美大で将来の映画作家たちに、

圧を与え宙空を飛翔させるための

【カタパルト≒射出台】

となってきた氏の

【寸鉄≒檄】は時に温かく、

時に手厳しい。

 

だが、見込みのある場合しか、

厳しくなっていない気もする。

【可能性】があるほど厳しくなる。

 

手厳しい檄は、その人の可能性、

マグマへと送られている。

のかもしれない。

 

【寸鉄≒檄】の根底にあるのは、

【映画愛】だ。

 

※もしかすると、その個人への

愛ではないのかもしれないが。

 

どんな場所に咲く、

どんな植物であれ、

【太陽光≒反応≒遠い星の核爆発】

によって生育していく。

 

ともかく【映画の哲人】が、

じっくり、個人の映画と対峙し、

【反応≒言葉≒態度≒断片映画】

を返してくれるのだ。

 

しかも、そんなに本気で

どうするんだ!?

というくらい、

ただ、ただ、本気です。

 

この世で、一番、痛いのは、

無視、無反応である。

【反応こそが財産】なのだ。

意味がないわけがない。

 

作る側の【作品≒断片映画】も、

見る側の【作品≒断片映画】も、

常に【脳内劇場≒ココロ】で、

立ちあった人間たちの中で、

再演、再加工され続ける。

 

そんな【原石≒断片】を

模索し続ける。

 

それが、ハイロ断片映画祭、

【VS ほしのあきら】

の開催意義だ。

 

 

ハイロ断片映画祭

【VS ほしのあきら】

 

 

 

 

 



 

  

 

 

VS ほしのあきら 

上映集団ハイロ

【断片映画祭】

 

 

【断片映画】は【あなたの中】にある。

 

【自主映画】は、お金を自前で出すだけではない。

 

映画を【自分の手】に取り戻すことだ。

 

人間は日々、自分の【映画≒記憶】を作っている。

 

人間は、誰しも【個人映画製造生物】だ。

 

【受動映画】から【能動映画】へ。

 

あなたの【見た印象≒感想】が【本当の映画】だ。

 

あなたの【脳内映画】が【本当の映画】だ。

 

【見ること】自体が、あなたの【映画づくり】となる。

 

是非、視聴者としての【目≒映画カメラ】を持って、

あなたの【脳内映画≒断片映画≒

ほんたうのあたひの映画】を紡いで欲しい。

 

その【きっかけ≒断片】が、ここにある。

 

 

VS ほしのあきら 

上映集団ハイロ

【断片映画祭】

 

「世界は変わりたいね。映画を通してね。(ほしのあきら談)」

 

 

 

 

 

 



 

  

 

 

【寸鉄vs核抑止力】

 

【批評≒寸鉄】とは、言葉の刃であり、前提として、自分をどれだけ斬るかが試される。なので、武士の元服は切腹から始まるし、革命闘士の合言葉は、「自己批判せよ」だった。だが、その「自己批判せよ」が内ゲバに向かっていけない。戦後から77年、ハイロ誕生から52年、あさま山荘事件から50年、阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件から27年、311から11年。現代日本は敗戦から生まれた新国家。そこで生きる現在系の人々。2022年2月11日の初代・建国記念日。果たして【新たな世界≒新たなレイヤー】は生まれるのであろうか。

 

実を言えば、映画祭自体、トークも含めて、ハイロ自身が映画として判断される。ハイロの映画祭として、社会的価値のある映画祭とは何なのか。作家、視聴者の目を通した単なるディスりを超えた【寸鉄≒檄】を受容し、存続意義を模索する。という二律背反が含まれてもいる。二律背反を解く鍵は、今いるレイヤーを相対化し、別のメタレイヤーに軸足を移し、適切な補助線が引ける【地点≒断片】を模索することだ。目と目、寸鉄と寸鉄の眼差しの火花によって、適切な【生き延び】のメタレイヤーを探る旅。すなわち、【断片≒適切なメタレイヤーを設定する視点≒支点≒小石】を本当に欲しているのは【ハイロ自身】なのだ。この【祭≒断片を探す旅】に、是非、視聴者としての【目≒映画カメラ】を持って、あなたの【脳内映画≒断片映画≒ほんたうのあたひの映画】を紡いで欲しい。ただ、これだけは、言っておきたい。褒められると伸びる子です❤️

 

「世界は変わりたいね。映画を通してね。(ほしのあきら談)」

 

 

 

 

 

 



 

  

 

 

【断片映画祭】考

 

映画は【断片】である。 

映画は【発話】である。

映画は【言語】である。

 

映画は商品だと思っていた。表現の世界は不自由だ。映画は一番高い金を出す人間、または、もっとも能力の高い人間が王様だと思っていた。

 

権力構造の上部にいる人間しか、映画を通しての発言権は持てない。他人のために、他人が集まって、自分の言葉のように、言葉を語ること。何らかの形で、強い人間にしか、許されない表現形態。

 

だが、群れの中では、強弱に関係なく、人々は語り合う。徘徊しているおばあちゃんが、タバコ一本くれない?と語りかけてくる。言葉は開かれている。

 

映画とは金を出して買うもの、商品だと思っていた。入場料を払って買うもの。または、テレビで広告と引き換えに受け取るもの。または、コンビニのシュリンクされビニールを開けることが、映画との出会いだと思っていた。それはそれでよい。

 

しかし、それでは、折角、アメリカに留学したのに、つるんでいる日本の友人の英語がうま過ぎて、恥ずかしいから、YesのYすら発話できない失語症の留学生みたいだ。ハリウッド映画を作れなければ、映画として作る価値はないと思っていた。

 

トランスフォーマーとミニオンズ、ミュータントタートルズだけあれば、この世に映画はもう要らないと思っていた。

 

映画を見ている間は楽しいが、映画館を出て、1分経つと、灰色の重圧雲に押し潰されるようになった。映画は組織が作るもの。ハリウッドが作るもの。自分には作れないということだけが明快に分かる。

 

いつしか、映画鬱を晴らすために映画を見るようになった。映画は刺激としての麻薬になった。シネコンで1000本見れば、ハリウッドが映画を作らせてくれるに違いないと【誤った夢≒幻想】に足を取られていた。あほだ。沼だ。

 

面白いもの、凄いものに、感化されるだけでなく、逆に抑圧されていることに気づかなかった。

 

だが、映画は商品だが商品ではない。

 

【映画は発話】である。私はオギャアと泣く勇気すら無かった。【発話】に必要なのは、自分の許可だけだ。カタコトでも自分の言葉で自分が語ること。赤ちゃんは自分が自分で泣くことを生まれた時から自分で自分に許可している。それが人間の条件かもしれない。【自分で自分に許可を出すこと】が自主映画である。

 

【映画は断片】である。究極、映画は断片の積み重ねでしかない。文法は、英語や日本語より簡単。【断片≒カタコト】を好きに繋げ合わせるだけ。そして、より大きな【断片≒カタコト≒映画≒作品】が出来上がる。

 

【映画は言語】である。カタコトでも、自分が自分で語ること。そうか、私は、発話にすら、他人の許可を待っているだけの犬に過ぎなかったのだ。ハリウッドは待てど暮らせど、自分の前にはやってこなかった。心が小六のままだった。

 

【断片≒感情≒小石】を【発話】し、何かが伝われば、それは【言語】である。また、伝わらないものも【言語】である。その人間に内在しているであろう【回路≒道筋≒論理≒連絡≒順番≒流れ≒生理】が【言語】である。

 

映画は【断片】である。

映画は【発話】である。

映画は【言語】である。

 

今回、断片映画祭には、自分で自分に許可を出したカッコいい人たちの【断片≒映画≒作品】が集まっている。

 

 

 

 

 

 




 

  

 

◆VSほしのあきら「断片映画祭」考  映像四郎

 

上映集団ハイロ代表、シゲル氏の作品は、強烈である。私は、去年、コロナ禍、緊急事態宣言あけの、江古田は、フライングティーポットの融解座にて、彼の作品に出会ったのだが、まず、語弊を惧れずに言えば、私は、彼の作品を、家で独りでDVDなどでは絶対に見れない。映画として、暗闇の中、不特定多数の人々に囲まれ、いわば、逃げ場のない閉鎖空間だからこそ、見切れたのである。見ざるを得ないのだ。だが、その映画体験には、筆舌に尽くし難い解毒作用があった。編集技巧に、一切頼らない、常に人に気を使う、彼の性格からは、まるで、予測不能な、忖度ゼロの、見ること自体がほぼ暴力に近い映画だったのだ。何故、オレは、今、これを見ているのか。呼吸、雑響、喧騒、雑音、太陽光の漏れ、肉、外界、瞼が世界に向けて開閉している。束の間、その開閉が、手指の動きのいないいないばあかもしれないと、感得はできたものの、私は、その解釈を超えた、剥き出しの現象に、ひたすら、解釈を試み、これは、手のひらの内側のしかも極小一部だけで行う、2001年宇宙の旅であると、小計、結論したが、顎が外れるかのように、その解釈もほどけるのだ。結果、私の解釈筋肉は、筋弛緩剤を致死量手前まで忖度抜きに、投与され尽くし、瞳孔ダダ漏れ、世界を見るのではなく、世界が私の中に入ってきたのである。人間は、ここまで、意味作用、解釈機構に、毒されているのか、脳は、世界製造機であったのか、ただ見るなど、日常生活でできるわけもなく、それは、ただ、己の解釈によってしか成り立たぬ、個人映画に過ぎなかったのだ、と。筋肉は、グリコーゲンを燃焼し尽くし、私の解釈機構は麻痺し、脳は咀嚼がゴム紐のように伸び切り、顔面には虚空が開いた。花が咲き、花が散り、そして、何もなくなった。私は、シネコンで掛かる、リドリー・スコットや、ミニオンズ、トランスフォーマーだけが映画だと思っていた。だが、ここには、極私的というより、顕微的を通り越して、原子核は蒸発し、ミクロの決死圏を飛び越え、無と隣接する、いわば、認識機構から解脱した世界に佇んでいた。おれは、負けたのだ。解釈は無限に広がり、しかし、何の反論もなく、ただただ、自然の成り行きとして、私の解釈は全て阻まれた。その負けは、勝負としての負けではない。では、何の負けかといえば、映画の外にも映画が広がっているかもしれない、認識の外にも世界が広がっているかもしれない、その、現象自体の大きさにすでに負けていることに負けたのだ。おれは、小さい解釈笊の猿に過ぎなかった。そこには、隙間があった。暗闇に猿轡された狂人ハンニバルの拘束具レベルに、その上映会、融解座は、私に、マエダシゲル作品の飲み下しを強いた。椎茸。だが、ここでも、死んだはずの、私の人間機構の一部、予測機能は、こう告げた。明らかに、独りで作った映画だ。だが、この映画、超然独断映画現象は、独りだからこそ、独りでは絶対に作れない。何らかの受け手としての場がなければ、これだけ、屹立したものは、絶対に作れない。はずだ。そうでなければ、ただの変態である。私は自分に対する怒りで手が震えていた。予測し、恐怖になぎ倒され、負けることが怖くて、他人の目に、触れる前から負けていた。ここには、原始レベルの8の字様の蝶がヒラヒラ舞う、それをただ、カメラを介して現象する、映画を作るのではなく、映画自体になってしまう、武器人間にも似た、変態現象世界が、どこかに存在しているのだ。そして、私は、ハイロに出会い、昔読んで、押し入れに仕舞い込んでいた、ほしのあきら氏の著書「フィルム・メイキング -個人映画制作入門-」に本人から直筆サインを貰った。もちろん、単に欲しかったのもあるが、ファンです、サインください、という人間を、人は本気では、殴りづらいものである。だから、どうしても、私は、自分の作品を出す前に、サインが欲しかった。技術論以外の映画理論部分には、20年前の、私が引いた黄色いマーカーが、ほぼ、75%に亘り、埋め尽くしていた。これじゃ引く意味ないじゃん。とも思ったが、私の琴線に触れた、いわば、自分にとっての要点を自分で再確認する場合、自線ほど、打ってつけのものはない。1.5m離れていれば、勢いが付くから、殴られると痛いが、70cmまで隣接した席に座れば、手が伸びきらないから、痛くないのだ。手で殴られるより、人間は言葉の方が痛い。だが、その痛みには、自己を相対化し、自分の足元に落ちている小石を拾うことも可能なのだと、行為の振り幅の多様性に気付かされる役得もある。今までの生活の合間に、年に100本前後、映画館映画を観ていた気がするが、昨年のコロナ禍では、勢い余って、緊急事態宣言前の3月などは、まとめ見などして、1ヶ月で、30本見た。合計130本みたのだが、感動し、気が上がり、テンションが上がるのは、映画館を出た、最初の5分間くらいだけで、あとは、暗雲な鬱がズシリとオンブオバケしてくるのである。じゃ、見なきゃいいじゃない、でも、見たいのである。その130本の最中に出会ったのが、マエダシゲル氏のゲシュタルト崩壊作品群である。私は、嫉妬した。他人の目を度外しして、他人の承認とは別枠の、冥王星を不時着させた、ただの地表で日常に潜りこんだ意識前の映像を、これは映画だと言い切り、自己表現する姿に。まさしく、映画の極北であった。太郎と次郎が凍死する世界だ。お前は関取か。己れの解釈技を弾き返され、時に、暖簾に腕押し、悉く、土俵下の腐葉土に沈められ、オレは思った。自分で作り出した見えない世間に自分勝手に潰されていた。オレはカオナシだった。自分で気づかないうちにただの畜者だった。緊急事態宣言下で再度見た千と千尋の神隠しは、面白くて、画も凄いけれど、自分にとって、掴みどころのない作品だった。何故なら物語中盤、最初は可愛らしい謙虚くんなカオナシが肥大化し人を食い凶暴化する。歯止めが利かない。なぜなら、顔=責任がないからだ。これは、サラリーマンとして社会の社畜として顔と名前を奪われた自分に対してのパヤオからの手紙だった。なんて、偉いやつなんだと改めて思う。草は草している。人間は人間している。映画は映画している。ほしのあきらは、ひでえ映画だなと、マエダシゲルに言った。ブッチャーは、コーラ瓶で眉間を割られ、血をドクドク流しながら、そ、そうですかねえ、と、瞬間的静けさの虚の池からおずおずと日本語を放り出した。私には、分かっていた。お前たちは、共犯者だと。ほしのあきらは、自分が詰まらないなら、詰まらないと、慮らずに言うが、実は、決して、無視しない。何故、自分にとって詰まらないのかを滔々と語る。作った本人には、針の筵かもしれない。だが、詰まらないというとき、人は切り捨てる。この人、ほしのあきらは、絶対に切り捨てない。おいおい、もう放っとけよと、内心思う時もあるが、実は、いい映画だったね、ほくほく、喜びの感想を言う時よりも、彼は、映画に関して熱い本質を語り出すことが多い。だから、マエダシゲルが生えてきてしまったのだ。上映集団ハイロに。詰まらないと言いつつ、その詰まらなさを受け止めている。実は、詰まらない時、人は、受け止めないことが多い。言語化しない。できない。熱く語れない。そんな毒熱湯にも似た、受け手がいて、場があり、マエダシゲルのゲシュタルト崩壊作品群は成立しているように見える。テクニカルでヒストリカルなオマージュよりも、オリジナルでユニークなイマージュを重視する風がここにはある。シネコンがマシンガントークのネイティブ、エディ・マーフィだとすれば、ハイロには、三歳児が覚え立てで発語し、固有の身体で軋むことを見届ける映画の原点回帰がある。さまざな自主映画上映会に参加して、思うことは、受け手の必要性、重要性だ。知らぬ間に、作り手は、受け手を想定し、ボールを投げている。モノローグを超えた擬人化された世界を相手にメタローグを凝縮して、いわば、たましいの抽出物、うんこ、毒、要らないもの、だけど、負のエントロピーとして、他者の栄養となる凝縮物として、世界に投げ出している。つまり、変態的なキャッチャーだからこそ、変態を産めるのだ。産んだわけではない。勝手に生えるのだ。アスファルトに咲くタンポポのように。私は、凄くない自分を、凄くないから、発語しない、失語症の三歳児になるのではなく、凄いか凄くないかは別として、肉体が気泡のごとく、浮かんだ音色を発語する小四たりえたいと願った。まず、自分の身の丈を知ることから始めよう。そのために、断片映画祭が、ここにある。

 

#VSほしのあきら

#上映集団ハイロ

#断片映画祭

 

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【ハイロ断片映画祭】お知らせ

8分(以内)の本気映画(映像)!!

●8分以内で、自分が勝手に「映画と宣言したもの」なら、何でも上映します。

●上映開催日 2020年 2月11日(祝日) 〇12:00~19:30(途中15:30~16:00まで30分の休憩があります)

●「映画と宣言」した作品、断片は、事前にギガファイル便にて「MP4」にてお送り下さい。

●送り先: 816hairo1970@gmail.com

①作品名②作者名③作品(断片)時間④フォーマット⑤200字以内の作品(断片)コメント⑥200字以内の作者プロフィール⑦作品(作者でも可)写真一点をお送り下さい。

●参加料金は当日会場にてお支払い、振り込みのいずれかでお支払いできます。

当日会場にて、2000円+ドリンク代となります。

お振込先:郵貯銀行 店名 ゼロイチハチ(0一八) 店番 018 

記号 10110 番号 31677351 普通 3167735 マエダ シゲル

※お振込みされた場合でもご来場の際、別途ドリンク代(注文)を頂きます。ご了承ください。

●一次締め切り:1月17日(月)  二次締め切り:1月31日(月)となります。●観戦料は1000円+ドリンク代です。

 

上映集団ハイロ代表

マエダ・シゲル

 

 

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◆ブリュノ・デュモン「ジャンヌ」

 

映画文法自体を独自に作り出す、我が道な監督作品。独特な時間。歴史から溢れた、沖縄の街角のような青虫レベルでゆっくり動く時間が流れている。時間に包まれる。突如、クラッシュする日常に劇的音楽が稲妻する。ジャンヌが子供過ぎて、鎧が重そうで、鎧に抱かれてるようで、可愛すぎて、変な牧歌的リアリティ。都市だけが空間ではなく、非線形なアナログ自然道、勾配、砂と植物、空、地形に、ペンギン村的な人間関係が錯綜しつつ神話的。ぶっちゃけ、眠くなるが、それでも見た価値はあった。見なかったら、きっと、喉に引っかかった魚の小骨になってしまうだろう。DVDでは、私は視聴不能。ぬまーと、まとわりつく、独自な空気。ぶっ飛んだ音楽センスで切り裂く。引き画で、小さく動く人物、日常から突然、奇跡空間に入る妙なリアリティ、コンセントに刺さっていない扇風機が回り始めるような日常と地続きな変な奇跡感、なんじゃろ、と、心にまとわる。

 

https://youtu.be/2CZj3yrC-S4

 

#映画ジャンヌ

#ジャンヌ

#ブリュノ・デュモン

 

 

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◆園子温「エッシャー通りの赤いポスト」

 

園子温が路上に還ってきた。映画による武力革命。映画を武力革命。映画のための武力革命。人間、壊れると映画を超える。女優たちの溢れんばかりの白肉桃がやっぱ溢れ尽くし。ぐしゃぐしゃ役が割れ人間が割れ魂が割れ、卵の黄身はぐちゃぐちゃに弾け飛ぶ。部分躍動熱湯世界映画。

 

#みたかった園子温

#エッシャー通りの赤いポスト

 

魂のゲロゲリゲリラ和えのスクランブルエッグが大気圏をヘルニアしている。

 

#みたかった園子温

#エッシャー通りの赤いポスト

 

生きた肉が全力で弾けている。生命電気にビリビリ感電する。映画に包まれ、免疫が侵食される。く、狂っている。最強、最高、魂の彼岸。精神メルトダウン。しっかし、これだけ、エキストラ追いながら、全員生きてて、巨大心棒貫通は凄い。泥試合最高。脳内麻薬全開トリップ。剥き出し。電撃。

 

#みたかった園子温

#エッシャー通りの赤いポスト

 

虚構は現実を超えねばならない。相対化された現実に肉体が戻ってきた時、新しい見立てが現れる。

 

#みたかった園子温

#エッシャー通りの赤いポスト

 

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◆松野友喜人「全身犯罪者」

 

松野友喜人監督&全主演、この人は、村上虹郎と共演できる人だ。ラース・フォン・トリアーVS松野。本当に狂ってる鬼畜監督はどっちだ⁉︎バトルで決着が着かず夜も眠れず困っている。三億円犯人がヘルメット目深に被って歩いてくる、その佇まいだけで目頭がツンとする。佇まいが伝達してくる、これが映画なんだ。連続殺人鬼映画が自分は好きだったんだと気づいた。映画を他映画と比較して偏差値内に序列するのは間違いかもと思うが、私が割と好きな「藁の楯(三池崇史)」や「キャラクター(永井聡)」の、突き放した狂い度ではこの映画は突き抜けている。映画内現実を超えて、ぬめぬめと、足場のない、奈落が無重力で口を開ける。落ちる訳でもなく浮いているのに生温かい暗闇に包摂される。サイコパス描写で、ここまで、突き抜けている監督は、今のところ、日本にはいない。海外戦になると、ラース・フォン・トリアー、これはやばいだろ、と思った「ハウス・ジャック・ビルト」。子供をハンティングするところで、胸が潰れ、身銭を切ってなかったら、ヨーロッパの客に倣って、自分も席を立ちたかった。だが、オレは1900円を大事にした。結果、最後まで見て、本当に良かった。こんな救いのない絶対悪を描けるなんて、どこまで、ゆーろぴあん監督の精神は頑丈なんだろうと思った。底が抜けていた。オレには、ロジックは、まるで読み込めなかったが、「全身犯罪者」を見て、「ジャック」はきっと、どこかがロジカルな映画だったのだろうと思う。「全身犯罪者」は、雲だった。フワフワ、浮いていた。監督本人が、シネコンジャック前夜に、全然怖くないっす、ギャグっすみたいなことを書いていたが、うそやん、めっちゃ怖いやんと思った。私の世界映画No.1は、直近8年ほど「武器人間」で、周りの人に勧めると、めっちゃ笑ったと言われるのだが、私には、「武器人間」を笑う胆力がない。心底怖いのだ。そして、別の意味で匹敵する「全身犯罪者」。最初に出てくる肉うんこの頭についていたものの謎が、上映32時間後くらいにハタ!と分かり、不気味さが増した。そう、笑いと怖さは紙一重とゆうか、本質の根を同じくしている。上映時間は20分だが持ち帰った「全身犯罪者」は1時間50分の映画重量を持ち、他の映画体験や現実断片と混淆しながら更に彩りを増している。一番好きなキャラは30人殺しだが、構えの速さ、綺麗すぎず、ガサツなブレのある力強い形が傷だらけの天使のショーケンを彷彿とさせ、訓練した訳ではない前のめりの殺意が、胸を熱くさせる。私は記憶力が悪いので、見た映画は、大体忘れてしまい、筋も結末も残らない。よくて、残るのは具象的抽象物として重力を増した2.3枚のカットだけだ。どうやら私にとってのよい映画は「殺し方≒肉体的行為≒動き≒所作」の「新しさ≒オリジナリティ≒独自性≒どのような思考回路を自前の肉体に動き発芽させたのか」と「カット繋ぎのカッコよさ」。この2点大体絞られている。だから、折角の謎解きや、どんでん返しの驚きや熱湯クライマックスが忘却されていることも多い。だが、大体に置いて、「殺し方」と「カット繋ぎ」に光る物のある映画は、基本要素がクリアされているので、時空間の凝縮された濃密な画が2.3枚記憶に残っていれば、充分なのかもしれない。「バレット・バレエ(塚本晋也)」で一番残っている、暴力若者を撃退するために自作改造銃を使う際、トドメを刺さないために太腿を撃つが火力が少なく爆竹程度に焦がして何じゃこりゃと逆に殴り倒されてしまう。撃ってるのに撃ってない。命拾いさせてやってるのに、そもそも殺せない。ダサカッコよさに痺れる。こんな感じの、ちょっとしたズレだけが残る。おそらく、30人殺しの銃の構え方と、2回以上くらい出てくる叩くシーンは、世間の一般的所作より、0.05秒は早い。それだけで、私の海馬に突き刺さる。「バレット・バレエ」の2番目は、クライマックス、殺し屋を逆に追い詰め、後頭部に銃口を押し付け、弾切れで殴り倒される。今度は殺す気だったのに弾さえ出ない。なんか、かっちょいいとは思っていたが、今、記憶をほじくり返し、字にしてみると、この映画は、不発をテーマにしている。で、初めて、冒頭の鈴木京香が赤ちゃんがほしいのに、できないから自殺するの意味が分かったのだ。銃はあるけど「不発≒精子の空撃ち」な男がどう生きるか。発射しよう、発射しよう、と足掻いても、結局、不発に終わり、不発だからこそ、逆に、社会的にも生物的に生き延びた。そして、最後、主演の男女は逆方向に全力疾走し、生の喜びに満ち溢れ、解放される。不発、それでも肯定して生きていく。と、初めて、「理解」し直せた(4カット覚えてたが)。名作には後からはまるパズルピースが残されている。で、「全身犯罪者」にも、後から嵌められる、ラストピースが残されており、見たときではなく、見終わった後、私の脳の中で完成されるようになっている。だから、時限装置的に、人間の脳の中で、自分で回路を完結させるから、肉装置に対しての実装度が強まるのだ。映画が凄いに尽きるし、そこにフォーカスすべきなのだろうが、以前、芸達者と言われていた気のする、松山◯ンイチよりも、多重人格俳優なのに、すべてのレイヤー体重が載っている。臭い言い方をすると、魂が籠っている。演じているというより、佇まいが、その人間、そのものなのだ。打ち上げなどで、少々、お話しさせていただいところ、あまりにも、謙虚で、素が中立。謙虚だからといって、図に乗ったりすると、絶対、30人殺しに殺される、マッハな灰皿で頭を割られるなど、内心勝手にびびっていたのだが、いい役者さんは、えてして、普通の時は、すごく普通なのかもしれない。「ケンとカズ」のカトウシンスケが舞台挨拶で登壇したときは、余りのニュートラルな好青年ぶりが信用できず、油断させて、観客全員、左頬殴りつけて、ぶっ倒す気なんじゃないか、とソワソワしていたし、私は、本当の役者が何者なのか、よく知らない。「全身犯罪者」で、女子高生がパンツ丸出しで、上から落ちてくるのだが、一瞬、◯◯◯しそうになり、いかん、おれ、生物として、間違ってはいけない、これは男だ、監督だと、内なる声で絶叫し、奈落への墜落を何とか踏み留めた。あとから、なんか黒かったんすけど、あれ見せパンすか、前貼りすか、と聞くと、いえ、◯◯です。と、何の悪びれも恥じらいもなく、ニュートラルな柔らかい表情で答える。しかし、そこには0秒で起動する肉食の豹が内臓されているのではないかと気が気ではない。ニュートラルな0起点だけでなく、恥も外聞も忖度もかなぐり捨てた全身犯罪者、犯罪はおかさないけど、をトレースできる振り幅。女子高生、そう、女子高生、全パン墜落が、素顔と30人殺しやカツ丼殴られちゃんを繋ぐ0起点たり得ているのではないだろうかと思われる。人は分からないものを自分なりに理解したい生き物なのだ、あらためて思った。そしてそれは、私の個人の感想の域を勿論、永遠に出ることはない。現実は開かれている。もちろん、松野監督も、全身犯罪者も、解釈の袖を振り払って、自律し、ただ、それだけで存在している。ただ、感想として持ち帰った、自分の映画として、長いこと、体内に生き続けることになるのだろうと思う。俳優か、映画か、いつか、近日、正規のルートで、お目見えすることになるんだろうが、個人的な賭けとしては、俳優に500円賭ける。

 

#シネコンジャック 

#全身犯罪者 

#松野友喜人  

 

人は分からないものを自分なりに理解したい生き物なのだ、あらためて思った。そしてそれは、私の個人の感想の域を勿論、永遠に出ることはない。現実は開かれている。もちろん、松野監督も、全身犯罪者も、解釈の袖を振り払って、自律し、ただ、それだけで存在している。

 

#シネコンジャック 

#全身犯罪者 

#松野友喜人  

 

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●2021年2月6日(土) 7日(日)  第51回ハイロ・シネマフェスト感想●

 

 

「血流の旅人」 佐藤正美

 

世界の感情が伝わってくる。言葉の意味ではなく、生きた感情が現実に【膜って】いる。犬を撫でている。撫でているだけなのに飽きない。つまり、撫でているだけではない。口に手を入れ、腹を撫で、否、毛の中を探索し、秋草に囲まれたスパゲティ状の丘陵を探索する日曜日の小人が遊ぶように犬の毛の中、毛の下をまさぐり、可愛くて堪らない、愛のスキンシップである。ここで生きていることが、生自体が、世界が可愛くて堪らない。海、兄を葬る旨のテロップ、子供たち、ビニールをひっぺがすように、果物の皮を剥ぐがごとく、綺麗に解体されていくウサギ、はにかむ隣人、おちゃめな子供たち、墓、現実の空間に滑らかに存在して、カメラや、撮影よりも、人として、そこに居る、そこに在る、という当たり前が当たり前として、前提されているから、カメラが撮っている、カメラに撮られている、ではなく、見ている、見られている、居る、居られている、在る、在られている、その場にいる、一緒にいる。で、壁もガラスもなく、あるとしたら、膜か、水か、空気であり、柔らかい肉のような現実に、ぐにゃぐにゃ、抱き包まれて往きながらも、本当は一緒にいるはずだった兄を中心として目指している。居ない、在らない、不在へと、透明度は高いが、美しすぎて引っ張り込まれそうで怖い、そんな海の底へと沈んでいく。不在の兄が、生との真逆である「死≒墓石≒世界の隠された中心」として渦を巻いている。字幕なしで、外国語の映像を見る、50分というのは、自分には、有りそうで無かったが、15年前に外国映画を1回だけ字幕なしで見たけど、その映画以上に、言葉って、意味が分からなくても、通じるんだなと気づく。外国語の意味は伝わらなくても、感情が伝わってくる。冒頭に近い部分での、犬とのじゃれあいと、残酷さをあまり感じない、綺麗に手際よくビニールの玩具のように解体されていくウサギが、「≒(大体同じ)」で結ばれる世界は、完全に「=(おんなじ)」ではないから、どちらかが軽くなったり、重くなったりで、比重が変わり、バランスが崩れ、振り子運動が起こる。ぐらぐらと不器用にズレて、回転し、振動し、運動していく。そんな世界の原理が垣間見える。そんな気にさせられる。ただのドキュメンタリーに見えつつ、雷のように非常にドラマチック。現実に【生理】するドラマツルギーが【掬い撮られ】ている。

 

 

「もう一度逢いたくて」 繁田健治 

 

心が誤爆される。誤読を誘発する強靭で狂人な誤毒に満ちた純情ピュア―な世界観が唸っている。それでも、平然と佇んでいる。学生服を着込む繁田監督自身が主人公の【よしずみくん】、そして、セーラー服を着込む【あけみちゃん】。ここで、すでに、この青春コスプレを着込むだけでマジックが起こる。繁田×よしずみは、あくまでも肯定的な意味での、残念な痛々しさに拍車がかかり可愛らしさへと昇華しようにもしきれない、見てはいけないもの、禁忌による吸引力が非常に強い、周りの磁場を狂わせる、ブラックホールなキャラだが、あけみちゃんは、40年ほど時を駆け、若返って見えてしまうという、恐るべきセーラー服効果を発揮し、時を駆ける少女、アナログなCGなし版が、現在化しており、素面で外から見ると、磁場が、、、【時空間が歪んでいる】ようにしか見えない。しかし、本質的に【真っ直ぐ過ぎるくらいな真っ直ぐ】を原動力とする特異な世界観は、見るものを古い洗濯機に突っ込み、容赦なく蓋を閉め、スタートボタンが勝手に押され、ガタゴト、あぶぶ、洗い、溺れさせるだけの致死レベルの放射能で溢れ返っている。淋しいと好きは違う、などアフォリズムが素敵で、上映終了後、何の予備知識もないまま、繁田監督に、死んだ彼女に幾つになっても会いに行けるって、凄い純愛映画ですね、しかも、幽霊が歳を取るって、新しくないすか? と何故か疑問系で投げかけると、いや、死んでないっすよ、これ、過去じゃなくて、現在の話です、と、いきなり地雷を踏んだ。マジすか。幽霊じゃなかったのか。異人の夏じゃないのか。過去の恋と現在の愛が、捩れて生み出す無限ループによるSF純愛活劇じゃなかったのか。とゆうか、これは、私の認識リミッターが作動し、心を瓦解から防御し、視界を歪ませ、勝手にあけみちゃんを、過去化、SF化、ファンタジー化、死者化していたのか。化、化、化、的、的、的、と、同じような言い回しばかりの、雑な感想ですんません、と思いつつ、【繰り返される永遠のあけみちゃん】との遭遇は、時間差で、衝撃が飛来させ、現在、心療的に、体内で連鎖爆裂している。そして、監督自ら、主人公のよしずみくんを、演じていることも、しばらくして、もしかして、もしかしてと、本人に確認して、漸く分かった。ジャッキー・チェンや塚本晋也のように、自分が主人公として、演じてしまっていいんだ、開き直った自由さにも心を打たれつつ、私の誤認は、繁田監督の、あまりにも群を抜きすぎた世界観の強靭さ、そして、幾つになってもセーラー服を来たあけみちゃんと、学生服を着たよしずみくんが甘酸っぱい恋をしている、青春ブチかましている、という映画内現実に、自分が競り負けていたことによって起こった事実否認だったのだろう。セーラー服は、青春マシンである。若返らずに若返っている。CGなしで、青春時代に戻った、否、CGなしで青春そのものを現在形で生き続ける、この映画に、周回遅れの、絶賛の拍手を送りたい。

 

 

「消滅耐火性の愛‐DISIR」 加藤照康

 

ブッチギリ。日付の入った鉄道動画、ブッ飛んだ寓話的かつ箴言的会話文言、城址で刀を振り回す男、そして上映後の、ZOOMによる監督挨拶で、半顔だけ映す演出、全てにおいて、ブッチギリである。世界の果てに小石を遠投する強肩の持ち主、そして、その作品、強引に不協和音をひとつの時系列にまとめることで、見た者の胃袋の中、時間差で爆発する何かを内包している。スタッフの間から、新作なのに、少し見ただけで、加藤さんの作品だって分かるって、凄いよね、と声が挙がっていた。それくらい見えない加藤印が刻印された、個性的で素敵な作品なのだった。よくわからないけど、確かに面白い。世間など一切関係なく、鋭く尖り過ぎている。矢尻状の石である。

 

 

「懐音ビュアー」 梅宮雅夫

 

現在が懐かしさに染まる。【爆心地】を中心に始まる【過去巡り】が、映像の渦を、すり鉢上に巻き下りながら、その塵や地理、風景、人、記憶、記録と共に自分も巻き込まれ回転し、遠心分離され、上澄みとなり、透明にメタ化され、歴史的意識とゆうか、ああ、こうゆう、連なりが重低音で響く世界に元からいたのかな、と再認識が行われる。ハイロに参加して、上映作品から感じさせられるのは、映像とは何だろう、という問いの横たわりだ。情報総体としての人間の記憶に、濾過された歴史的再記憶を、記憶させること。意識の部分的再意識化で上書きする形での、現実の発生源である根元から、アクセスし直す。映像づくりとは、そんな形での、社会参加であるのかもしれない。いい意味での、記憶の再製造なのだ。歴史は本でも石碑でもない。過去は懐かしい音なのだ。そこで、起こるのは、過去から現在への眼差しの反転で、過去に洗われると、現在が懐かしくなる。現在がセピア色なのだ。【懐かしい未来=どなたかのキャッチコピー】に巻き込まれる。

 

 

「ムービートラップシアター2」 伊藤憲二

 

歌の収録。かの伝説的名作「こおろぎ橋殺人事件」の主題歌の録音風景なのだろうか。ボーカルの女の子とスタッフが喋くりながら、「こおろぎ橋殺人事件」の泥臭さが払拭され、都会的なセンスで、ん、ソフトクリームのような白いもこもこの靴下、これは、あ、ルーズソックスかと、すでに、記憶は混迷を極め、カンフー映画ブームという、ある種の時代が刻印された、二人のチャイナドレス美女VSカンフー青年の戦いへと突如シフトしつつ、その突如シフトは、弾みをつけ、加速し、カボチャ星人たちが仕事を始めている、その前は、自主映画の作り方を実写で見せるノウハウ映画が入り込み、お人好し男監督と、ゴリ押し女監督の差が対比され、カボチャ星人へとワープ、突如シフトするのだが、この振り幅の広いバラエティ豊かなゴッタ煮が、この監督の面白さなのだ。まさくしく、野原を散歩していると、草が結んであって、足を取られて転んでしまう、そんな、罠に満ち満ちた作品。クリマスチキンの入ったオセチだ。

 

 

「透明な終末‐ダイジェスト‐」 森 幸光

 

重低音の音楽が深い霧のように立ち込めパンチのあるリズムに知らぬ間に人間の輪郭が融解してしまいそうな背徳感に満ちた道ならぬ魅力に満ちた映像に潜水してしまう。水深は70センチなのに、起き上がる気になれないのは、チャミスルのように飲みやすいが、飲み続けると、前後不覚な危ないアルコール飲料としての麻薬性を実装しているからだろう。zoomに、部分ボカシを入れられてしまう濃厚に上品な雰囲気のあるTHEエロ。廃屋、廃工場で、世界の終わりを過ごすであろう。男女、そして、三角関係、しっとりした暴力を予感させる退廃的で美しい引き画、嗚呼、完成版が楽しみです、としか言いようがない。

 

 

「月が溢れる」 神山 曻

 

銃を出そうとすると親分が止める。銃を出そうとすると親分が止める。銃を出そうとすると親分が止める。この「間の将棋」が、無駄に喋らない緊張感の中で、言葉で語らない物語、すなわち、映画を進行させていく。全篇に漂う銀色感が濃厚な説得力を醸し出すのは、別作、「風に遭う」からキャストも踏襲され、録音が成功するだけで、これだけ、完成度がブチ抜きで上がるのか、と目眩を覚えるほどだ。語らずに語るじわじわする空気感が、染み出している。完成度がずば抜けて上がって、しかも、銀色な光り方が、すでに、新ジャンルを醸し出している。何かが新しい。

 

 

「はいからかけら」 柴田容子

 

視点が流転する。地球を見る、見られている。夕景の空、オレンジ色の雲、飛行機が遠く斜線を描く。ぼやける雨粒、風、水溜まりに樹の葉が映り、海鳴りが、認識の枠を洗い、不穏な沸騰、ホーンが地響く、そして、時響き、時割れして、水槽の魚、海鳴る、蝋燭の炎、人間の子供、指先、巨と微、切り替わりによる流れ、潮騒に、ロックが被さる。葉の揺れ、音声のインジケーター、振動、鼓動、万物が踊る、今にも振り切れそうだ。そう、万物が振り切れる。枝が目に踊らされ、踊っている。生態学的ロック。生態は、転がる石の連なりであり、視界は肉体を伴う時割れの断片である。

 

 

「あなたに逢いたくて」 白康澤宏

 

男女の心中。カメラが見ている、カメラが神の地点にいる、カメラがなければ、死なないで済んだのか、命を食う、血を吸う神獣だ。黙って、佇んでいるだけだ。しかし、視線は、人を踊らせる。ブツとしてのカメラは象徴としての「偽≒擬」かもしれず、擬似客観としての脳内カメラが、臓物の志向性を供物として食らう。人生をバーベキュー化し、男女は世界へと供犠される。

 

 

「のんこのしゃあ」 マエダ・シゲル

 

暗闇の中に白い煙がたゆたう、足が黄色いシューズを履き歩いている、電車の中レンズを構えた男が窓越しにカメラと自分を踏まえた車内を捉える、夜の車道と行きかう車のノイズ、煙、歩く靴、車、月、雑景。日常をただ日常的に切り取るだけでは、これだけ「認識≒映像」を脱線できない。真似できないザラザラ感に満ち溢れている。本当の世界は、ここまでザラつき、ザワついている。

 

 

「再生」 木村和代

 

雲、合間の青空、鳥の羽ばたきがリアルで、現実から飛び出してきたように見える映像が、半円形広場、ユーロな空気感のなかで、対象を追うレンズに回転しながら絡め取られる爽快感。そして、、

 

 

「復活」 木村和代

 

植物が揺れている。揺れている、揺れている。あ、BGMとシンクロしている。植物が踊っている。風に揺られて、音楽に乗り、踊っている。その草と音楽の同期、気づきの脳内アハ体験による快感が湧きあがったところで、植物のダンスから、さまざな景色を経由し、飛行場のリアルがリアルを超えてリアルしている。電子音楽に載せた、ん、これ、飛行場のカットは、そうだ、前日に見た「再生」だ。「再生」のほうじゃないのか、「再生」の方かもしれんと、思いながら、何故か、きっと、再生の冒頭の鳥が、「復活」の「ダンサー」の休符へと接続し、木村和代作品にしては珍しく、人物が登場し、踊る、へと繋がっている。私の頭の中では、何故か、昔のカセットテープから伸びた磁気テープが8の字を描いて無限ループし、入れ子構造しながら、像の入れ替えが言わば、自動再生、自動生成される。つまり、再生は単なる同じものの再生ではなく、差異を含み込んでn次元へのずらしこみが行われる。復活も、また、別の異物を含み込み、なんらかの消化吸収が行われた上で自動増幅されていく。1ヶ月で人体の細胞は全て入れ替わる的に、だけど、わたしはわたし的な、「THE ターンオーバー」な映像である。脳内映像を再再生、再再現、再復活している。そして、辿り着いてしまった。どこか。n町n丁目n番地。世界と同期している。世界が同期する。映像を編集する前に、音楽を作っているそうだ。だけど、単なる音楽ビデオにはならず、映像が現実として、現実にこぼれてくる。

 

 

「ひび」 チーム・アナドルナ

 

同じものを見ていても、見えるものが違うのだ。龍神雷神図屏風が幻視される。中世がジャギっている。絵巻物は、シーケンシャルだが、この、網膜の引っ掻き傷による、アニメの裏側には、ああ、見る人によって見るものが違う。見える魔物が違う。きっと牛さんがモウモウ宣う牧歌的な牧場のソフトクリームアイスなどは浮かばない。自分の内臓に潜む魔物的なものと対面させられるロールシャッハだ。同じものを見ていても、見えるものが違うのだ。金色の雲と黒の地がチカチカと動きつつ、タイトルは、ヒビ、だが、視覚の引っかき傷のように、空気が動き出し、見えない、聞こえない雷が鳴り光り、雷神が雲に乗り動き出す。毛糸と金属部品のジャギジャギの毛虫が実在と非在を繰り返し、引っ掻き傷が、網膜を飛蚊症する。世の中も、現実も、本当は、コマの積み重なった、微分化された自然なるものが作り出したアニメでできているのではないのか、と錯覚させ、火、水、土、古来の三元素が視神経を往復しつつ、量子力学的な、現実のスカートめくりならぬ、パンツめくりで、奥へと入り込み、この世の舞台裏は、映像の舞台裏で、信号がジャギジャギに雨っており、それは、金属のようで植物で、電波のようで水で、肉で、人で、意識で、視界であり、やはり、感想を言語化、否、受け取った肉の呟きを泡として.クラムボンのようにぷかぷか語ってみると、人間とは映像である。そして、視界とは、ひびてあり、映像とはひびである。所詮、ひび、だけど、ひびを十全に、ひびしている。ひび、ひびするのだ。日々、響、微々、ヒビ、、、量子が踊る。映画の革命とは、映画の文法から、どう脱文法化するということなのかも。映画を見ることで映画の外側に出ようとする目玉を内側にぐるりと反転させる映像。

 

 

「殺す 前篇」 渋谷樹翔

 

殺人的寸止め。スタジオケイヴさんのビヨンド5の、実上映で、その時点での、完成版を全て見ていたので、寸止め感が半端なかった。ここからが見処炸裂なのにマジかよと、急ブレーキにびびった。殺す、なのに、殺さないで前編が終わる、この放置プレイは、深い深い奈落へと、私を突き落とした。確かに、前編で殺してしまったら、後編が要らなくなってしまうこと、請け合いだが、苦しい。殺人的寸止めである。それだけ、殺す、ということは、倫理的、法的に、どんなに禁止されていようとも、人間にとり、背徳的な楽しさがあるのだ。子供のころ、虫を大量殺戮しない子供はいない。古来、小部族内で【殺す】は最高の問題解決であり、エンタメであった。麻薬のようなカタルシス。だから、【殺す】は、見る者への期待を煽りまくり、炙り続けるのだ。いわば、タイトル勝ち。作戦勝ち。【殺す】というタイトルで、殺さないで終わると、早く殺してくれ、早く殺してくれ、私は殺さないでいいから、誰か別人を殺して見せてくれと、野蛮と我儘が炸裂した挙句の果てに、涙、涎、鼻汁が、ぐじゅぐじゅに混じったヤバいスパゲティみたない顔で、懇願してしまいそうだ。語弊はあるが、映画は、【殺す】ために存在しているのではないだろうか。【殺す】は、人間に途轍もない瞬間的快楽と麻薬的非日常を無料で進呈してしまう。それに対して、どんなに非日常が打ち上げ花火しても、必ず着地させてしまう日常、万有引力、地球で重力。我々は、日常の大海に浸かり込んでいる。そんな中、映画は、【殺す】という思考実験により、人間内から【圧を逃す】ことができる。実際にやってしまうことと、考えることは違う。行動と思考は違う。短絡させないヒューズ、電圧降下回路を差し挟む。危ないものが、理性を扶助するのだ。だって、渋谷監督が、ツイッターで、オレは、この映画を作ることで、実際に人を殺さないで済んだみたいなこと言ってたし、てことは、虚構だけど、本質は、ドキュメンタリーだし、そんな本質に、ドキュメンタリーが入っている、作り物だけど、ぶっちゃけ、ただの本物っすみたいな物語が、人の心を打つのだろう。軸に真実が棲息しているから。テレビドラマと映画の一番の大きな違いは、倫理規定からの逸脱に、スポンサーからの、歯止めが、かかりづらいというか、やばいもの、蓋をされた危ないもの、邪悪さのアルコール度数が、発泡酒ではなく、ウィスキーが原液のままで高すぎることであろう。映画は【殺す】ためにある。殺さないために【殺す】のだ。持続可能生活を送るために。とゆう、根底的な熱砂を内包した作品だった。頭の中でだけ、人を殺すことを覚えたとき、人間は人間になるのかもしれない。あまりに、逃げのない、そのものな、強いタイトルなので、殺すって何だろうと、映画内容以外にも考えさせられた。人間は映画の中で人を殺すことで、人を殺さないで済んでいる。かも。

 

映像四郎

 

 

 

 

 

 



 

 

●2020/12/13(日)ハイロ上映会●

 

「後影が聞こえる」 ほしのあきら

カメラが猫の動きと一致している。カメラが猫を追っているのではない。カメラと猫が一致しているのだ。なので、カメラの動きに指揮されて、猫が動いている錯覚に陥る。スマホで、画面をぴゃっぴゃっ、上下左右に動かしている感じで、現実の動きが視覚化され、瞬間、現実から、逆に、見る者の目玉をのぞき込まれているような奇妙な反転を錯覚する。「先生、先生(本当は別の人名)」と呼ぶ声が聞こえるとともに、風景が切り替わっていく。その切り替わり方が、スマホが踏襲されているかの一致感があり、今度は、アナログなエレベータのごとく。地表ごとずり上がり、上下左右斜めに動く。だが、スマホのようにスマートではなく、ガタイの良い鬼のようなケモノが後ろ仕掛けの、全身全霊で動かしている。そして、地霊、地層、視覚的歴史が、ズゴズゴ地鳴りを時鳴って、せり上がってくる。堆積層の旅が終わると、締めはやはり猫の出迎えで、生理、体軸が何らかのWIFIで同期した動きで、再度、別次元の時空の歪みの旅へと誘われる。猫がぐにゅうんとした時空の粘土ダイブへの案内役になっている。

 

「山中温泉こおろぎ橋殺人事件 最終話」伊藤憲二

映画怪獣G子ちゃんが、番外的人気を静かに博しながら、この映画、MAがしっかり施されて、音声がしっかり聞こえていたら、80年代自主映画の、伝説的大傑作だなと思う。時折見える斬新なカット、時折見えるB級映画好きには堪らないであろう、荒くれものな設定。胆力がある。大規模である。ともかく、人間〇〇で、大長編が大団円を迎え、次は、映画怪獣G子ちゃんを見たい。

 

「DEKA2」島村元康

白黒のザラつく高速だかの道路の視界映像は、映像のレコードで、アナログな擦れがあり、デカの視点設定だが、本当は、犯人なんじゃないのかと思えてくる。しかも、人間ではなく、「ブレードランナー」のレプリカントが、目玉代わりの車載カメラで、感情なく、記録している。磁気ハードディスクがゴリゴリ回転するがごとく、世界的電磁記憶を刻印していく。景色はリズムを伴うデザインとして、河川化し、無限の流体は、デジタルが無限へと至り、継ぎ目のないアナログ的実在へと至る。映像の嗜好品であり、中毒性がある。2時間34分の大作を作る意義は、全ての人類が負っている。

 

映像四郎

 

 

 

 

 

 



 

 

●2020/10/4(日)ハイロ上映会●

 

 

 

「閉じた目」 ほしのあきら

 

世界が雑響する。耳が佇んでいる。見ているのに目を瞑っている。地下水にふたつの足が浸かっている。映像として映っているのではなく、映像から受けた体感である。地表から地底へ、地底へ、地底へ、深く、深く、深く、洞窟して、光が動いている、網膜の瞬きか。森と風の音が、車と都市の音が、人間の生きる音が、記憶違いか、洞窟に、世界の音が雑響している。現在の日常生活から、記憶装置としての抽象化された化石と視聴覚が同一化し、潜っていく、世界の裏側に、瞼の裏側に、網膜の裏側に、脳幹の裏側に、記憶の裏側に、自分の裏側に、ここはどこだ。どこだ、が、誰だ、に繋がり、自己は脱臼、脱色し、抽象的に存在が解きほぐれ、水に、宙空に、非重力する。目で見る目の映画なのに、耳の映画であり、耳を仲介して、見える映像とは、別の映画を感じさせ、見せられる。つまり、目を閉じて、脳に直接、音が耳してくる。日本語がほつれ、唸り、鎮まり、流れ、水して、風して、光して、猫したり、犬する。そうか、見るとは、世界への「接続≒同一化」であり、見ているのに目は瞑られている。目を持つ存在は、目を閉じたとき、人間を脱して世界になる。見るを見て、目は目をはじめ、見るを見はじめ、世界は雑響するのだ。

 

 

「風に遭う」 神山曻

 

私の前を歩かないでください、私の前を歩かないでください、黒い大きめでスピーカーくらいの箱を数個縦積みしてカートで引っ張って歩く男、川縁の道で、人は彼と共に世界の迷子となる。Vシネ風ハードボイルド、警察、ヤクザ、殺す者、殺される者の世界設定でありながら、突如裂け目の中に現れる現代詩的な光景。照明ではなく、雲から覗く太陽光線のように、レーザーは何かを自然に断ち切り、重力の解除された位相で、見ている心はフォーマットのカーテンレールから滑り落ちる。農作業をしている男から始まる、この物語は、当初、農作業映画かと錯覚した。しかし、遠くに、亡霊のような黒いカカシ人間が不気味に立っている。農夫が撃たれて死ぬ。娯楽作品である。赤い旗が風でどよめく。この風のどよめきが、思えば作品を通貫している。画角、画作りが、既存フォーマット「6」に対して、非フォーマット「1」の割合で歌舞伎、日本アニメ、漫画的コマの間でアクションを意図的に省きながら、デフォルメされ止まった画の中で、どよめきが生きつづけ、輪郭線は鉛筆で何重にも連なるエッチングとなり、網膜に残った像は、揺らめいている。風に遭い、存在が打ち震える。このどよめきは、地球に生まれ落ちた生物の本質である。顔が画面半分を覆って登場する警察署長、バチバチ火花を散らし数瞬挿入される配管的赤い内臓、レザボア・ドックスなみの対決から、敢えて肩透かしで、見ている者の頰杖を打ち払う銃弾とは別の認識状の衝撃、リズムの裏打ち、出演陣の年齢がほぼ72歳を主軸に構成されており、比較する相手がいないことから、年齢という先入観、役割演技が突如解除され、ただ人である、という前提が新たに引かれ直す瞬間がある、語弊はあるが、親族内での長老という役割を脱ぎ捨て、ただの人間として存在を生き直しているのだ。だから、年齢を排した肉体で俳句をする、連歌、句会がここに成立している。そして、経年的役割から解除された出演者は、逆に足裏の重量感が増し、ペタリと足が地球についていて、子供の頃に遊んだ超合金のロボのようにずしりとした感触を信号しつつ、虚空に浮く漬物石のように抽象的人間本質も匂わせている。個々のアンサンブルのもと、作品は、スイッチバックでジグザグに反転しながら進み、山を登っていく。

 

 

「your eyes」 tama-style

 

新雪のように新鮮な存在が、頬冷える林檎の燃える視線で、否、春の雪原を渡るバニラな風の如く、何の悪びれもなく、野生の雪の中で、ド真ん中している。赤だ、ウサギ目の妖精、否、小学生である。逃げがない。見られている。見ている、こちらが見られている。だから、逆にドギマギする。そうだ。映画の登場人物たちは、視線が外れているから安心して、金魚鉢の外から金魚たちを覗きこんでいられるのだ。覗きこまれたら、逆にこちらが金魚化する。だから、見る、見られる比重がシーソー化し、重心の揺れ動きが、緊張感として吸引力、磁力となり、雪で太陽光の乱反射、否、映像が、記憶が、乱反射し、受けたイメージをお土産として、時間の経った、私の日常の中で熟成し、熟睡し、雪が降り、雪の中を歩き、そうだ、私も、秋田にいたことがある。小五から中一の、思春期一歩手前の完全子供時代に。新雪が好きだ。あのギュッギュッ踏み締める感触が甦る。空撮、赤い女の子が雪の中を動き、停車場は透き通った空気で肺の細胞を洗い流して、人間関係の変化か、人間の変化が実装され、雪の美しさを真っ直ぐ、ただ真っ白に届けてくれる。「your eyes」、あ、そうか、タイトルにある、目だ、雪の中で、赤い目をした野生のウサギと目が遭ってしまったドッキリ感にある。見られるとは、見ている目を見ることであり、無限の合わせ鏡のごとく、「見る≒私」が増殖していく。その増殖自体が、「映画≒人間≒意識」となり、見る人間は取り込まれる。人は「あなたの目」の中で生きるのだ。

 

 

「宇宙の深淵より愛を込めて」 森幸光

 

宇宙は愛で踊っている。踊りと一緒にカメラもゆるやかに回って画面がトルコアイスのように伸びやかで素敵な決めカットに至る。それまで、ロシアン帽、口髭、人を信用しない虚な目の自称宇宙人の怪しい男が取調室の窓を覗くと目が合う、遠くに座っている、取り調べの女刑事が銃を撃つ、日本刀で斬る、肩乗せカメラのディレクターが乱入する、黒い粘性の油を口から吐き死んでいく、そして、踊っている、取調室の強化ガラス窓を挟んで、自称宇宙人の犯人と女刑事がキョトンと踊りに巻きこまれている、ところどころ、黒地に白抜きで入る文字により、コロナの秘密が分かると謳われつつ、宇宙、愛、変態、殺戮、深淵と、像がぶつかり合い、飛び去り、何度も噴霧化し、森ワールドが充満している。予告篇的な繋ぎの、まさしく予告篇なのだが、映像詩的な抄としてひとまとまりの作品として捉えられる。伸びやかな踊りを捉えるカメラワークの気持ちよさと、カメラワークの中で、さらに伸びやかに踊る、一度死んでいるはずの元ディレクターの柔らかな弾力的な踊りに、宇宙の深淵から噴霧する愛の具象化を感じる。宇宙は愛で踊っている。

 

 

「DREAMER DREAMER DREAMER DREAMER」 島村元康

 

まばたき。瞬間の愛おしさを気づかせてくれる。かそけき、何かの大切さが囁きかけてくる。駅、階段、人々、雑踏、重なり合う瞬間がリバーヴする。空気が、ぎゅっぎゅっする。リバーヴ、リバーヴ、リバーヴ、瞬間と瞬間がぶつかり合い、また瞬間を作り出していく。映像のリズムと音楽のリズムが弾力を持ち、気持ちよく、繋がりあう。雨が水でなく、弾力のある微細な玉となる。柑橘系の香りがする。何故、島村監督は美女じゃないのだろう、と訝ってしまうほど、美しい女性が、常に映像の裏にたゆたっている【感じ≒瞬間】がする。ウズマキマキオ作品では、魂の篭った摂氏百万度の炎えるガチコメディアンでありながら、森幸光作品では、怪しい性格俳優ぶりを発揮し、振り幅の広い怪男優なのであるが、その実、素顔は真っ当な好青年でありつつ、監督映像は透き通った柑橘系女子的美しくリバーヴ。そう、美女子。オシャレーヌである。俳優ぶりは完全男子だが、監督作品は真逆に美女子、女性的感性が鋭く柔らかく、展開される。他作品でも、灰色の雨に煙る夜のマンションをじっくりと音楽とともに見せ、後半、かそけき、稲光が、あ、と思わせる、このかそけき、素敵さを、夜店の金魚屋で、フが水に負けて破れないように柔らかく繊細に水と同化して掬い上げるところが、島村作品なのだ。雨、傘、人の重なり合い、「詩≒詞≒まばたき」としての映像が、音楽という列車に乗り合わせ、瞬間、ああ、瞬間だ、そう、瞬間のリバーヴだ、瞬間の大切さを、美しく小さな奇跡を垣間見せてくれる。

 

 

「山中温泉こおろぎ橋殺人事件 第3話/第4話」 伊藤憲二

 

ブッチギリ巨弾。温泉である。自主映画の大作。メタ空間で温泉が噴出している。謎の怪光線で、エックス線によるネガ反転、ビカビカして当てられた登場人物が死に至る、アレックス・コックス「レポマン」のようなブッチギリの演出により、遂に来るところまで来た、頂上決戦である、という名シーンが二箇所あり、思わず自分の目線が迷い、三半規管が揺らぎ、Zoomで視聴している梅宮さんの表情を盗み見てしまったのだが、ほくそ笑んでいる、笑いを噛み殺している、笑いの噴出を必死に堪えている、大受けしている、やはりそうか、「これ≒ブッチギリ」が、この突如ギヤの入った怒涛の展開が、自主映画の醍醐味なのだ。ここでスパートかけていいのか、ペース配分はどうなる、そんなマラソン上の理屈などおかまいなしに、やりたいことをブチ込んでくる。この噴出感が美しい。そして、展開される愛。本当のこと言って、私キレイ? 怪光線により死にゆく女と、生き続ける男の間に突如架けられた愛の吊り橋は、揺れ動く、揺れ動く、揺れ動く、愛だ、愛の時間だ、突然、温泉水のように噴出する愛の時間、これが「こおろぎ橋≒噴出温泉」だ。そして、すれ違い、ほどけゆく、女と男、死と生、ドイツ軍の機密兵器かもしれない怪光線の謎は深まるばかりで、今日も、突然のタイミングで山は光っている。次回最終回、一体どんな荒技が待ち受けているのか、ドキドキである。

 

 

「のんこのしゃあー夜を歩くー」 マエダ・シゲル

 

デザインではない、オシャレではない、だが、まざまざと【衝動】がある。語弊はあるが、世界と【SEX≒魂のやりとり】している。原子核を愛している。カメラを介して、現実と現実の「境目≒狭間≒ニッチ≒断片」とコンタクトしている。無骨で、愚直で、真摯である。真っ直ぐすぎるほど、映像を直視し、直視し過ぎて抽象に至る。その視点、視線、レーザーは、地球を一周し、自分の後頭部の肉を貫き、痛みを伴って真裏から眼球と再リンクする。現代美術の芸術ビデオではなく、デザイナーの抽象ビデオではなく、実験ビデオでもなく、明らかに、否、この作品の正体は一切掴めないが、衝動ビデオ、世界ビデオ、宇宙ビデオ、手のひらが宇宙と紙一重で繋がっている、どうしても、【映像自体】が好きで好きでたまらないのだ。映像の謎に肉薄したいのだ。だから、映像の裏側に次元をめくって、入り込んでいってしまう、そのカメラの切っ先にいるのは、視聴者である私で、私の目は、作者の目の帆先に取り付けられ、風を受け、波に晒され、高度を恐れ、粒子に紛れるほど微分し、人間の姿形、観念、常識、社会、世間、すなわち、人間の「リアル≒現実」とは「フィクション≒虚構」であるという、色即是空な分水嶺を幽体離脱したメタ視点から、公転軌道へ投げ出され、CGでもないのに、アナログなカメラ捌きで、肉体的に抽象に肉薄してしまう。容赦ない、握力と迫力に隣接させられる。その衝動に見ているものも巻き込まれ、渦化し、「分からないことそのもの≒衝動≒何故か生きている≒映像自体」になる。割り切れない映像なのに粒子をことごとく分割し原子核を愛している。おそらく、この作家の真似をして同じものを撮っても同じものはできない。衝動は真似できないからだ。この映像の醍醐味は、独自の衝動、粒子の荒い毒に当たることだ。

 

 

映像四郎

 

 

 

 

 

 



 

 

2020/8月ハイロ・フリースペース&ハイロ・フリートーク オンライン イン APIA40で上映した作品の感想批評です。

映像四郎

 

 

 

●ほしのあきら「憑影」

 

人間とは映像である。見ていると外界を見ている自分が自分の身の肉に背中から沈み込んでいき、視神経と脳のつなぎ目の発火点へ、バチバチと火花を起こしながら同調し、網膜に映っている映像は、外界でありながら心象風景も融かし込んでいて、リフレイン、リフレイン、しかし、バージョンは逐次更新されつつ、現実の中、完全に同一な原子配列が存在しないのと同様、映像内現実も流れの中にあり、人間とは何か、映像とは何か、という問いが言葉の配列を越えて、作品内現実として、ゴリゴリ、石臼の回転として機能し、規格化した体内の目を砕き、道端の石ころと近似の臨在感を持って、こちらを覗き込んでくる。見るものは、原始的意識、子供、生まれたての赤ちゃんへと、外界を認識しはじめる、最初の体験、人間の起動へと連れ戻され、大人となった自分に再度、認識の立ち現れ、ヨロヨロ、ユラユラ、重力を振り切り、初めて補助輪なしで自転車に乗れた小学1年生の夕方、夏の蜃気楼的な意識の萌芽を体験させられる。人間とは映像である。さまざまな定義が存在するが、この作品は、そのように語っているように、私には思われ、途轍もない圧に見舞われ、電気的な圧、痺れを伴う問い、透明な夏の蝉が、言語的な網、私の手をすり脱けて、樹にとまりつつ、存在を筒抜けながら、ずっとずっと、鳴り続ける、鳴き続ける。だから、どこかで原爆級の線香花火が、閃光する。取り込むのではなく、発するのだ。そんな逆転現象が。

 

 

●森  幸光 「ストレンジな愛を」 (ネタバレあり)

 

愛は電撃である。ぶっち切れるからこそ、通じ合えることもある。電流爆破【正直≒本性】デスマッチ。出色なのは、【〇〇〇〇〇占い】だ。私は、このアナログ、かつ、無さそうで、有りそうな、いい加減の極致でありながら、非常に効き目のありそうなオリジナル過ぎる【〇〇〇〇〇占い】に衝撃を受けた。そして、この【〇〇〇〇〇占い】を介して、初対面のふざけた男に、女がぶっち切れてしまうのだが、逆に、心が通じ合ってしまう。ここがROCKであり、転がる石であり、この作品の魅力である。(1)ふざける (2)ぶっち切れる (3)通じ合う。「正・反・合≒弁証法」ではなく、「非・非・合→マイナス×マイナス=プラス≒掛け算」。ここに男女のロマンがあるわけだが、よく考えると、(1)ふざける、は間違いである。何故なら、ふざけているように見える男は、外側から、そのように見えるだけで、「内心ガチマジ≒ぶっち切っている≒単純にそう思ってるだけ≒ド正直な変人」なのだから、あり得ないくらい誠実かつ真摯な男、即ち、真の紳士なのである。その紳士さは、南方熊楠レベル。狂っている。脳が火を噴いている。だから、正しくは、(1)ぶっち切っている(2)ぶっち切れる (3)通じ合う。つまり、精神の花火による愛の発生、ストレンジな愛であり、屋上の鳥カゴから世界を眺める二人は、一線を超えた危険人物同士でありつつ、社会に対し、鉄カゴによって牢獄的に逆防衛されることで適応し、鉄カゴ内をお互いの愛の巣とするのだ。あ、これって、もしかして、中川信雄監督「うつせみ」の真逆かもしれない。主題の本質の根は同じで、現れ、座標、方向性が真逆なだけかもしれない。ということは、ストレンジな愛を見つけてしまった二人は、鉄カゴの中を愛の巣とし続けるのか、鉄カゴを草カゴに作り変えて社会に歩み寄るのか、一瞬心が触れ合ったことを良しとして清算し無かったことにして次に行くのか、さまざまな選択肢が浮かぶのであるが、選択肢うんぬんは私の感想、妄想、気の迷いに過ぎず、ただ言えること、愛は電撃である。

 

※個人の感想であり、効能効果を保証するものではありません。

 

 

● 加藤照康 「愛 against i」

 

脱・地球映画。文法がSFしている。新しい惑星の、新しい文法による、新しいSFを、地球を素材に行なっている。詩情あふるる内面の朗読、青天の霹靂でヒーローの戦い、画角を打ち壊して乱入するアイドルDJライブ、新橋の渋ビルのようで実は広島、反転する天地、謎の鉄製ぐじゃぐじゃ怪獣との死闘。散乱した、決してひと括りにできない、突出した、トゲのある、脂でぬるぬる滑る、絶対に融け合おうとしない要素たち。寸断された論理と、破壊された視界、そして、脱ぎ捨てられる、ぬるま湯な常識、袈裟斬り真っ二つな私の身体。デッサンは乱れ、像の結ばない虚脱した全力疾走。否、虚脱などしていない。常に、何かが漲っている。測定不能な放射能が、キラキラ、不可視に乱反射し、見えない巨象がこの映画の上を、大事そうに、大群で行進している。かっこ良さと、かっこ悪さが、歪んだ遠近法のなかで、ぶつかり合いつつも、干渉せず平穏無事に棲息する強靭な多様性、そして生存力。全力で全肯定させていただくと、バロウズの技法、カットアップを多用した、新しい惑星の、新しい文法による、新しいSFを、地球を素材に行なっている。世界の底は常に抜けていて、鍋蓋も外れている。そして、私の目は、疎外されているのに、含まれている。この世界に。ビル群を背負った都会的風景が、どこか遠い次元の別惑星の風景にみえてくる。そして、風も吹く。意識も文法も拒絶されているのに、いつのまにか、この星の空気に馴染み出す。ここはどこだ、私は迷子になれる。

 

 

●中川信雄 「うつせみ」(ネタバレあり)

 

比喩が生きる。蝉の脱皮のアップの執拗なねめ廻しを経て、人間が「脱皮≒メタ化」する。元の自分と2.5次元へと移行し、抽象化された自分、そして、かりそめの仲間たち。しっかりした物語の枠に収まりながらも、映像の原理論的地点に降り立ち、往きて還りし物語さながらに、魔界へ行って還ってくるのだが、還ってきたと思わせつつ、躓く、コケる、流される。一体彼は、どこへ流されてしまうのか。うつせみ、空蝉、蝉の抜け殻、魂を前提した魂の抜けた身体、心身二元論。帰還に失敗する男の物語。物語は古来、子孫に残す「教訓≒寓話≒生存へのヒント」であったとされる見方もある。で、あるならば、この作者の主題は、あえて、描かれず、欠落し、消失している、着地に失敗しないための結節点へと、反語的に、生存の焦点を合わさせること。対現実内への本質的関わり方が鍵を握り、その解答欄は空白のままで、どんな答えを書くか、行為するかは、見たものに委ねられる。そんな映像工作物だと思われる。ともかく、強力な比喩エンジンを搭載した作家。比喩の回転力が強いスクリュードライバー。

 

 

●伊藤憲二 「山中温泉こおろぎ橋殺人事件」

 

映画自体が「発酵≒発光」している。そして、一線を超えた、映画への愛がある。さらに、主演女優に特異な華がある、中学生少女、うら若き美女、おばちゃん、地球防衛隊、およそ、4つの顔を持つ、華のある怪女優が脳裏に焼き付く。クッキーにはなれないが、饅頭や羊羹ではなく、これは苺大福である。瞼を閉じてもキャラが再生できるのは、役者にとって大切な才能である。黙って寄り絵になるだけで、表情が読み取れず、不可解な何かを視覚に巻き起こすのだ。ある種の不協和音。そこを発火点に、濃厚な土着閉鎖型、村落共同体型、横溝正史で、松本清張で、火曜サスペンスなオマージュに包まれた、80年代地域密着型の大規模自主映画が炸裂する。ハロウィンのオレンジ・カボチャが悪役宇宙人として立ちはだかる地方SFの予告篇が心の梯子を外しつつ、舞台となる温泉郷での、謎の怪光線による殺人事件へと雪崩れ込んでいく。難点は、音が少々聞きづらいところで、だかしかし、言い方は悪いかもしれないが、Z級映画に目のない人種にとっては、約40年ほどの時を経て発掘された逸品である。出汁が効いている。風味が出始めている。ギラギラ、シュウシュウ、湯気を吐きながら、未確認エネルギーが「発酵≒発光」している。

 

※本当に4つの顔があったかは不明、もしかすると、1つか、2つくらいかもしれない、記憶の中で勝手にキャラが分裂しているかもしれない。

 

 

●YOO  「しとしとプレドニゾロン夢」

 

生命とは信号である。私の中で、鳥だけが、【ちゅんちゅん】している。生命は温かく柔らかい石である。肉がぐるぐる、動きとして詰まっている。可能性のゼンマイ。ゴロッとして身の詰まった触り心地が私の掌に転送されてくる。3カットだろうか、鳥が出てくるのは。記憶は曖昧だ。しかし、私にとって、その3カットは、永遠の長さに感じられつつ、終わってみると束の間で、それは、記録ではなく記憶であり、記憶は生もの、生チョコのようなもので、粘性をもち、何度でも、舌の上で、甘味と粘り気とカカオを実在させる。永遠の【ちゅんちゅん】が、有機的に刻まれるのだ。天然の蓄音機に、生命のレコーディングだ。映像作品は、モールス信号であり、ロールシャッハテストでもある。見る、見られるが行われた途端に、DNAからRNAへの転写が完了するように、映画館から観客個人の脳内映画館へと複写され、変形、換骨、生成、再新され、食べ物のように、消化、吸収、生態系の生命の流れに乗る。信号の循環である。映像作品とは、生命信号の循環である。そんなことが、【ちゅんちゅん】の裏側の生態系に垣間見える。

 

 

●島村元康 「BUS」

 

想起装置である。透き通る、海、山、路にバスがきらびやかに反転して融け合って走る。人造人間が合成されそうな美しい水泡がブクブクして生命を開く。未来的な活字が、ローマ字読みの日本語で私に語りかける。記憶は生ものである。媒介物。イタコ。刻々と変形していくマーブル状に渦を巻く時間の中に、ゆっくりと脳幹が廻されてゆく。キノウバスニノッタ、ジブンハドコニイクノカ。それは、未来に行くのではなく、過去へ向かう旅ではないのか。到着するのは旅先ではなく、過去のどこかの地層だ。何かが生きたまま、そんな堆積層から発掘されてしまうのが、映像という記憶変造装置の極みかもしれない。年下の妹的かわいい女の子がクリクリした目で自分を見上げている。イタコ、媒介物としての暗示装置。梃子の視点、支点、宇宙の外にある三角木馬は、鋼鉄の抽象的なバールで私の頭蓋を優しくこじあけレモンを搾る。獲れたて、私の生脳は美味しいのだろうか。危うく幸せな彼岸へのバスツアー。美しい思い出は死と隣り合わせだ。イザナギはイザナミの洞窟から無事帰還できるのか。ああ、分かった、このバスは、深夜バスではない。深層バスである。語源通り、全ての人のための乗り合い自動車。記憶のテキーラだ。

 

 

●木村和代 「Ascension Dream」 

 

目は手である。見ることは触ること。視覚は触覚だ。見続けることで視点が目線になる。目線が肉化し、触覚となる。湿った窓ガラスの温度が伝わり始める。冷たい振動が、離陸か、着陸か、見るものに共振させる。動く額縁、否、額縁の中には、「画≒静止」が入っているのではない、「現実≒日常≒世界≒動き」が入っているのだ。金魚となって、金魚鉢から外界を覗く、しかも、その金魚鉢は、外界とある種のねじれた回路を経つつも、しっかりと世界と繋がっており、内でありながら外なのだ。前回の作品、飛行機内から見る風景、車内からの風景が、記憶から蘇る。画角内画角による、画角の虚構化、無限の合わせ鏡効果により、現実はより現実らしく、しかし、現実はより強度を増すことで、逆に童話的に離陸していく。飛行場の風で唸る「草・草・草・原・原・原」を子供の頭をグシャグシャに撫でるように、掌で「視覚≒触覚」させる。そして、手が、指が、フォークとなり、スパゲッティ・ミートソースを、オレンジ色にグルグル巻きにしながら、子供のように触知する。物事を単純化するのは余り宜しくないかもしれないが、私の理解のために、あえて単純なラベリングをしてみると、動画のソール・ライターか。だが、人物は出てこない。人間は風景に溶かし込まれているのか、無化されている。風景内存在としての肉眼。そして、あくまでも【私が感じ摂った〇〇〇】という額縁において、人生枠内の日常風景を大切にしている。日常風景が動きを伴った、抽象デザインと化されつつも光景は肉感を失わない。風景も生き物なのだ。

 

マエダ・シゲル 「のんこのしゃあ」   

 

ゲシュタルトが崩壊する。もちろん、誉め言葉だ。極近景を突き抜け、像が像を成さない地点まで【目≒カメラ≒感度計】が侵入し、ゼエゼエ、ゴリゴリ、呼吸している。普通の風景から始まり、ゆっくりと、普通の風景が分解され、電子ノイズとなり、粒子化され、ここでしかありえない、ここではないどこかへ連れて行かれる。ここどこ?ぼくだれ?である。ザラザラの極彩色な映像砂漠、色のついた砂嵐の中に身を置き、ただ、ただ、翻弄されるのだ。【音✖️光≒像】が巨大な【象≒パオーン】の原子核と戯れている。そもそも、象である必要性もなく、種を突き抜け、象の皮膚をも通り越した分子レベルまで、【微細ロケット≒眼細胞】は噴出され、存在の裏側に踊る何らかの単位と、引っ掻きあい、撫で回し、蹴転がし、舐め回わしあっている。【世界≒存在≒映像】と犬同士のように戯れている。だが、犬には牙があり、噛み合うと血も出るし、ぶつかれば骨格自体も軋むのだ。そして、能で言う序破急なのか、【ワキ≒観客≒漂泊の乞食の僧】が【ある特異点≒善悪の彼岸≒この世の端っこ】において【怪物≒怪獣≒悪霊≒怨念≒人間でない何か≒カオスの縁≒抽象存在≒思考と生理の狭間】と出遭い、狂った舞に巻き込まれ、【眼≒心≒内と外の結節点】が、この世ならぬものの【本質≒核】に接することで、【軍事設備のような遠心分離装置≒認識の洗濯機≒スーパーカミオカンデ】に掛かり【漂白≒ゼロ化】され、日常へと不時着するのだ。ただの抽象映像に見えて、実はストーリーがある。具象✖️抽象✖️具象。具象の中に潜む【抽象≒存在➗非存在】を、卵の殻を割った黄身のようにグニュリと出して、村人にインパクトを与えたあと、【鬼≒ナマハゲ≒ジェイソン≒プレデター≒宇宙人≒荒ぶる神々】は去っていくのである。【能≒演劇】とは古来、【神の愚痴を聞く≒神への奉納】芸能であった。ともかく、何だか凄くヤバイものと出遭い、そのヤバイものが去っていくのだ。すなわち、マエダ・シゲル作品、語弊はあるが、非存在の存在に関する露出狂である。映画が本来の儀式的役割を取り戻す、マージナルな抽象実験映画である。マエダ・シゲル作品とは、融解座も含めて、この直近2、3か月で計5回、遭遇している。見るものではなく、体験するものなのだ。否、体験するというよりも、本当に遭遇に近い。未知との遭遇へのオマージュではないが、【宇宙人≒または熊】と出遭ってしまった衝撃に類似する。光量、音量ともに映像密度が許容値を超えてしまうと、私がどこで、ここが誰だか忘れてしまい、人間がリセットされてしまうのである。ただし、大音量と大画面、逃げ場を失った軟禁状態、即ち、宇宙人に捕獲されて、認識のキャトルミューティレーションを受ける感じでの視聴がお勧め。配信では心が折れてしまう可能性もある。見終わった後に、巨大なヘチマで全身をゴシゴシ洗浄されたような爽快感がある。世界の区分けが破壊され、再度、脳による区分け化が起る。つまり、【ゲシュタルトが崩壊≒認識枠組み解除≒色即是空化】することによる精神の【再起動感≒再フォーマット感】が稀少なのだ。

 

                                                               

映像四郎