新生意気坐

【ハイロ艦長ほしのあきら】による映画寸評

 

新生意気坐   ほしのあきら

 

 かって池袋に文芸坐という名画座がありました。好きな映画館だったのですが、だいぶ前に閉館しました。土地が転売されてパチンコ屋に‥‥よくある話です。ところが支配人を初めとした従業員の方々が、なんとか映画館の火を消さないで欲しいと新たな所有者に願い出て、三階に映画館が作られました。「新文芸坐」です。今もたくさんの映画好きが訪れる新文芸坐の「新」の意味はそこにあり、それを知っている者も少なくなっていますが、彼らは今も定期的に通っています。

 生意気坐は、文芸坐で映写技師をやっていたマエダ・シゲル氏が作ったハイロの名コーナーの名称です。47年続くハイロの自由応募の基本ラインから外れて、独断で選んだ作家の上映とトークのコーナーでした。

 その名前を何とか活かしたいという思いと、自分が見た映画のことを語りたいという思いが重なって、新生意気坐を始めようと思っています。

 2017年3月で仕事を辞めて、映画館に足を運んでます。八ヶ月で112本見ました。その八割は名画座です。「もう一度見たい!映画」と「見損なってたんだ!映画」と、「えっ?知らないぞ映画」が八割なんです。

 そこには今見出せない何かがあるんです。アートだなんて誰も言わないけれど、映画が消耗品になる前の意地と誇りがあるんです。忘れてはいけない気持ちがあるんです。

 もちろん全てが良いとは言えません。「これはひどい!映画」も含めて名画座はふるさとです。

 自分の独断で○をつけた映画について書いていこうと思います。今のところ、書き手は私ほしのあきら、スナミマコト、マエダ・シゲルですが、どなたが書いても構いません。いや、誰でも書いて下さい。

 

 書かれる映画の条件は

 •  昭和元年(1925年)から平成元年(1988年)までに日本で公開された世界の映画

 •  データ〔題名、あとは自由ですが、できれば制作年、できれば制作会社あるいは配給会社、できれば監督や気になるスタッフ、できれば主演や気になる役者、できれば作品時間、できれば見た場所と見た年月〕

 •  写真もイラストも載せらます。写真はjpgだと処理が楽なので助かります。

 •  文字数自由

 •  文体不問

 

掲載希望の方は以下のアドレスにお送り下さい。できればワードデータで送ってもらえると良いです。(ここで大事なお知らせ。私ほしのあきらはデジタルはメールとワードと写真貼付くらいしかできないので、難しいことは要求しないで下さい。)

 

dodonga2-5-5@hotmail.co.jp ほしのあきら

 

 

 


 

 

 

 

 

新生意気坐19 令和3年10月〜12月 ほしのあきら

 

 

(自分の語り方で見た映画と向かい合いたい。その映画の向かい合い方で切り口が他と違ってくれば良い。いつも同じ口調ではない。

‥‥そんなことを考えていたのだが、この頃どうも話が面白くない。語らなくても良いことを語っている感じがある。

もともと文章はそんなに上手くないと、「フィルム・メイキング」を著した時に分かったのだが、それでも書こうと!それが長年見られなかった名画座映画へのお詫びの印、映画を好きで見続けた自分の証、映画を作り自主映画を語ってきた自分の行き先‥‥それが少々疲れ気味。

69歳の4月から始めた旅だから、74歳の3月(私3月30日で74歳です)で一区切りつけて、別の自分探しに出ようかなどと思った正月。

とりあえず青色吐息で年末分を歩きます。

あつ、もうひとつとりあえず!△はやめる!!))

 

見たぞリスト(斜体は新作、○×は評価ですから)

「遊びのレンズ」(2020)、×「夕焼け富士」、◎「娘十六ジャズ祭り」、××「静かなり暁の戦場」、○「友だちのうちはどこ?」、×「その人は遠く」、○「モンキービジネス」、×××「白い恐怖」

×「桜桃の味」、○「風が吹くまま」、××「砂漠の花園」、◎「指導物語」、×××「安魂」(2021)、△「ハイロフリースペース」、○「無頼の谷」、○「ヨーロッパ一九五一年」、×「かあちゃんと11人の子ども」、○「夜の女たち」、×「深夜の告白」、×「赤坂の姉妹 夜の肌」、×××「犯され志願」、◎「赤い髪の女」、○「美少女プロレス 失神10秒前」、◎「泥の河」、××「港へ来た男」

の24本と1企画

 

 

『遊びのレンズ』佐伯龍蔵  令和2年 ビオキッズ実行委員会

  (2021/10/5シネマ・ロサ)

 子どもたちの親が集まって作ったということで、嫁の義理で朝早くに池袋まで見に行った。客はまばら。始まるとすぐに若い夫婦を演じる役者が、くさい芝居。これでクソまじめに説教やら真面目なメッセージ聞かされたらたまらない。昼は奮発してしゃぶしゃぶランチ(映画館のそばに月亭という料理屋の別館があり、そこの豚しゃぶランチ1000円はおすすめ!!)喰って帰ろなどと思っていたのだが、どんどんどんどん引込まれていってしまった。

 夫婦が出会うプレーパークなる場所も、そこにたむろする(失礼!でもそう見えるんだから)子どもも親も、本物で実に輝いている。どこの公園にもある「木登り禁止」とか「ボール投げ禁止」とか、そんな規制が無いのがプレーパークで、そこに集う人々の普段着姿が確かに見える。しかもこちらがプレーパークにいるような錯覚が起きるうるささ、騒がしさ、そのエネルギーに押さえつけられそうになる。

 あつ!プレーパークって何度も言ったことがある梅が丘公園の中だ!!そうか、そういう場所だったのだ!

 ついには気取った役者もどろんこ状態に。うーんと‥‥ドラマとかドキュメンタリーとかそんなこと超えて、これはまさしく映画の運動だ!

 それにしてもカメラが畏敬の対象でなくなり、平気で向かい合える「もの」になったことを改めて実感した。「ナヌーク」から「教室の中の子どもたち」がカメラと対象の距離を如何に縮めるかに心を痛め悩んだ末に映像の力を手に入れたことに比べて、今の映画の軽さはどうすれば力になり得るのかと言う命題をいとも簡単(では無いだろうけど)にクリアしてみせた素人集団。カメラの後にいるのはお父さんやお母さん。カメラの前にいるのもお母さんやお父さん。ナヌークや教室の子どもたちと同様に〈いつものこと〉をやっているぼくや私たち。そこらへんの役者なんて巻き込んじゃうんだぜ!

 素人集団の力が下手なドラマや気取った技術を超えた奇跡の1本!見に来て良かった。豚しゃぶランチがうまいっぜ!

 

 

×『夕焼け富士』中川信夫 昭和27年 新東宝

 (2021/10/8シネマヴェーラ渋谷)

 シネマヴェーラって自分のとこでライブラリーしてるんだろう。それにしても凄い量だよなぁ。他では見ない名作ではない映画たち。それだけであり難い。

 アラカンはアラカンだった。特に鋭い中川信夫はいなかった。ただ、伊藤雄之助の悪役が他に無いキャラクター。こんな奴とは関わりたくない。子ども時代に見たら、絶対嫌いになって、他の映画の彼を信じなかっただろう。

 

 

◎『娘十六ジャズ祭り』井上梅次 昭和29年 新東宝

 (2021/10/8シネマヴェーラ渋谷)

 何でこの映画を見ようと思ったんだろう?どうせ小生意気な十六歳の雪村いづみを二枚目高島忠夫や片山明彦が優しく守り、古川緑波、フランキー堺、清水金一、丹下キヨ子たち喜劇人たちが盛り上げる。そんな見え透いた映画は遠慮しておくだろうに。

 で、その通りの流れなんだけれど、雪村いづみが素直でしっかりした演技で見せてくれる。二枚目たちは必要以上にしゃしゃり出てはこない。古川緑波はさすが元名弁士。じっくりと名台詞を噛みしめるように語る。フランキー堺はカッコいいドラマー。シミキンや丹下おばさんは良いおつまみ。

 現実味の無いお話が目指すはユートピア!がブレずに流れ、思わず涙がグッとこみ上げたりして。最後の最後に歌う「遥かなる山の呼び声」にしっかりと聞き入る素直な星野少年がいたのだ。

 何で見ようと思ったんだろう?「夕焼け富士」のついでに見てみるか、だったんだけれど‥‥呼ばれたんだなぁ映画の神様に。ウン、いい流れです。

 

 

××『静かなり暁の戦場』小森白 昭和34年 新東宝

 (2021/10/12シネマヴェーラ渋谷)

 芸術祭参加作品ってのはよそゆきで気取った映画になる傾向がある。だいたい怪演天地茂が本気で良い兵隊演じてインドと日本の架け橋になるなんて、面白くなるはずが無い。捕虜になったインド兵たちの歌声は良かったけど。

 

 

○「友だちのうちはどこ?」アッバス・キアロスタミ 1987年イラン

 (2021/10/12ユーロスペース)

 初めて見たキアロスタミは「オリーブの林をぬけて」。ジグザグ道三部作の完結編と呼ばれるところから入ってしまった私は、一作目を見たい、見なくちゃと思いながら、いつしか忘れていたところへの特集に勇んだものの、なかなか見に行かれず、また「そして人生はつづく」は見逃した。いいや、また出会うさね。

 ジグザク道や迷路を行ったり来たりの少年のハラハラドキドキは言葉にしても面白いし、映像の面白さが詰まっている。しかもラストで友だちの代わりに宿題をやった少年に拍手、拍手。こんな壮快でドラマチックなエンディングは久し振りだった。

 

 

×『その人は遠く』堀池清 昭和38年 日活 (2021/10/12神保町シネマ)

 好きでもない男と結婚する芦川いづみは、切なさを隠して明るく振る舞う。そんな男の元へ返ることを決めた彼女が、恋する受験生山内賢に列車の窓から指でOKサインを、そしてそれをピン!と弾いて手を降り笑う姿はかっこいいと心に焼き付く。

 設定はたいしたこと無いけど、話彼女を取り巻く一癖も二癖もある叔父や叔母の設定がユニークで展開が一癖あって面白い。残る。

 なのに演出が平凡極まりない。少しも画面に緊張が走らない。手抜きにしか見えなくて、あーもったいない。もっと画面作りに苦労しなきゃ。工夫しなきゃ。これじゃあアッタリ前だと思えよ。

 

 

○『モンキービジネス』ハワード・ホークス 1952年 米

   (2021/10/29シネマヴェーラ渋谷)

 馬鹿馬鹿しくて乗れた。アニメでやったらたいしたこと無い話をチンパンジーと赤ちゃんとケイリー・グランドとジンジャー・ロジャースが真面目にやるのが楽しい。編集の嘘と演技の嘘。それだけで見せる。CGなんてリアルに近くて気持ち悪いと、つくづく思う。簡単な嘘を、役者もスタッフも楽しくやってるだろう勢いが楽しめる。清純マリリン・モンローの秘書のリアクションが可愛い。でも戦後間もないアメリカって、もう少し反省した方が良いんじゃなかったのかな?こういう映画で楽しんでしまったのが、今のアメリカの悲劇に繫がっている‥‥ってうがち過ぎでもない気がする。

 

 

×××『白い恐怖』アルフレッド・ヒッチコック 1945年 米

      (2021/10/29シネマヴェーラ渋谷)

 きょうはこっちが大本命。ひねくれヒッチコックでしょ、美人で演技派のイングリッド・バーグマンでしょ、サルバトール・ダリの美術でしょ、テルミンの音でしょ、それが記憶喪失の男を囲んでるんだもん。絶対だと。

 ダリの美術は記憶の中の世界だけかい!深層心理学で分析された理屈におんぶに抱っこかい!それで問題解決?もう少しほじくれよ‥‥戦後すぐに心をこんなに簡単に解きほぐして映画にしてるのが、今のアメリカの悲劇に繫がっている‥‥ってうがち過ぎでもない気がするってまた同じこと言ってしまった。

 

 

×『桜桃の味』アッバス・キアロスタミ 1997年 イラン

   (2021/11/1ユーロスペース)

 人生訓を語り過ぎ。もっと普通で良い。出だしからぐいぐい引っ張る長回しのなんてことの無い風景。何も起こらないようで静かにうねっていく人と風土。

それだけで良い。退屈な時間の積み重ねだけで良い。見続けてくれればそれで良かった。

 

 

○「風が吹くまま」アッバス・キアロスタミ 1999年 イラン

    (2021/11/1ユーロスペース)

 小さな村にやってきたテレビクルーが、村人たちとの他にあんまり見られない交流を繰り返す話。撮影はほとんどはかどってはいない、と言うより撮影してるのかいないのか‥‥まぁそんなことはどうでも良いような風景論が展開する。異端が侵入してきてもまるで自分たちの営みに飲み込んでしまう村人が魅力的で、都会人は自分たちの居場所を失っていく様が小気味良い。

 死へと流れる時間の存在は、エロチックだと言うことを改めて実感させてくれる。哲学=自己表現を見た。

 (しかしなぁ、キアロスタミ連続2本は疲れる。多分彼の時間に浸り切れていない自分がいるんだろうなぁ‥‥)

 

 

××『砂漠の花園』リチャード・ボレスラウスキー 1936年 米

    (2021/11/5シネマヴェーラ渋谷)

 マレーネ・ディートリッヒの美しさは、あんまり好みではない。それでもスタイルの美しさには見惚れるけれど、修道尼は美脚を活かす設定とは言えないから余計に引きずり込まれなかった。アルジェリアの砂漠はもっと本気でロケして欲しかった。すぐ後ろに都会の匂いがして仕方がない。男は新たな人生を求めて砂漠にいったんだから、もっと別の価値観と出会って欲しい。まさにタイトル通りで平凡な展開に退屈はしないけれど、それだけ。愛に生きるんだから信仰なんか蹴っ飛ばして欲しい。設定の面白さが生きてない脚本と演出か。

 

 

◎「指導物語」熊谷久虎 昭和16年 東宝 (2021/11/7ラピュタ阿佐ケ谷)

 以前見損なった。いやぁ実に良い映画を見せてもらった。戦地で軍用列車を運転する為に訓練を受ける青年兵士と指導する老機関誌のドラマ。明らかに当時の国策映画。だが、人の交わりが素直に感激できる。今はどこか薄れている指導される人と指導する人の距離が美しい。そこに極まる。

 当時の鉄道省が全面協力。それだけカメラが凄い。えっ!祖。そんなところから撮ってるんですか?!私が少しの間師と仰いだ宮島義勇さんが羨ましいポジションで鬼のように撮る、撮る、撮る。C58型蒸気機関車のダイナミックな迫力。これがもう一人の主役だ。

 やっぱり映画は画面だよなぁ!大根藤田進が朴訥実直な好青年に変わる。原節子の初々しさが輝く。丸山定夫の老け役が違和感ない。全編手を抜かない流れは国策だから、かも知れない。だが、力を発揮するのは個人だ。個人同士のセッションだ。良い映画を見せてもらったことの感謝で。終わってから知らない老人(俺も老人だ!)と話をしてしまったことも気持ち良かった。

 

 

×××「安魂日向寺太郎 令和3年 パル企画   (2021/11/9角川試写室)

 期待して行った。監督とも話した。固い。日大で教えている。固い。日向寺監督はこれで良い。こんなスタイルで映画を作れば良いと学生たちが思ったら、未来はない。後輩にもっと映画の未知な表現力を。

 

 

 

 ★ 無駄話(その10)フリースペース11月14日  ほしのあきら

 (前回の繰り返しから)相変わらずハイロは面白い。

 もっと何とかならんのか!なるだろその映画!俺の映画見ろよすげぇだろ!うーんそういう語り方があったのか、なるほど!の連続で51年間。ワンパターンにならずに刺激をもらい続けての51年間。そんないい加減な気楽さが続いている原因だろう。

 自主映画とは長く付き合っている。妻以上に長い。よく妻はこんな奴を見捨てないでいてくれる。だがしかし、ずっと人には理解されなかったりする。

旧友と再会した時、自主映画を続けていると話したら“へ―8ミリじゃないよな”と言われ、でもへ以前と“8ミリだよ”‥‥そこで彼は言葉を失っていた。悪いことをした。

 私も辛かった。8ミリって軽く思われていることに腹が立っていたのだ。でもそこで話をやめるべきではなかった。やめたのは、お互いがいやな思いをしたくなかったからだ。8ミリと聞いてどう思ったか、議論をすべきだった。議論できる話題があることは貴重だ。

 今思うに、そんな話題を提供できる自分の存在も貴重だ。全てが自分に跳ね返ってくるのだから。そこに暫くは気づけなかったのが歯がゆい。

 その後、作る映画も言葉も妥協しないでいる。ハイロでの今の私の鬼のキャラクターは、そんな流れから生まれた。

 ある覚悟が無かったら、人に疑問を生んでもらえない。他人からの好感触ばかり狙えば、下手な商売映画とおんなじになる。なり下がる。

 多くと反対をいく奴がいなきゃ退屈だ。

    その集大成が

 

2月11日(祝)12時〜19時

これまでのハイロ・シネマ・フェストに変わる新企画

「ハイロ断片映画祭」だ!

 

 やりたいことは手抜きしない。それがエンターティメント。自主映画の道はエンターティメント。

 そんな方向で続けるしか無いハイロであり、フリー・スペースであります。

 

 最近の自主映画は安定しちゃってる。ああこういう感じで展開するのかなって予想できる。その予想を覆してくれないものが多い。劇場映画がセオリー通りだから、劇場映画のアンチに位置する自主映画が、もっと立ち位置を見極めなきゃ「映画」が面白くならない。「映画」の地平はそんなに狭いはずがない。

 想定内のことばかりやって立って、時代は動かない。コロナなんかに振り回されておたおたしてる時代だからこそ、もっともっとスピード感が欲しい。

 映画の時間をもっと考える。デジタルになってから映画は長い。見せないことが見せている空間を際立たせるんだから、もっと見せなくていい。

 映画の画面をもっと考える。機械が何とかしてくれる範囲が広くなって画面が軽い。またドローンかよ!もう飽きていいはずだ。

 どんな時間でも、どんな画面でも魅了できるのは映画と取っ組み合ってる力だ。

 多分、断片映画祭としてプロデュースの宙太郎君が求めているのはそんなところにあると思っている。だから乗った。私は悪役になり切りますから。

 

 

 

○『無頼の谷』フリッツ・ラング 1952年 米

    (2021/11/16シネマヴェーラ渋谷)

 尊敬するラングはアメリカに渡っていた。ナチスの弾圧から逃れる為だ。しかしアメリカはアメリカ。ラングが西部劇!そんな驚き。でもやっぱりカラッとしてない西部劇。ノワール西部劇。

 男勝りのマレーネ・ディートリッヒのオーラは、やっぱり美しいけどグッとこない。ヴァイオレンスは申し分ないし、お話も深いし哀しい。ディートリッヒに惚れられれば、もっともっと感情移入できて泣ける映画だったろう。残念!というか、ごめんなさいディートリッヒ。

 

 

○「ヨーロッパ一九五一年」ロベルト・ロッセリーニ 1952年 米  (2021/11/16シネマヴェーラ渋谷)

 ロッセリーニもアメリカにいたんですな。イングリッド・バーグマンは色気を感じないけど知性的な風貌で、その演技力には惹きつけられます。

 私が3歳の頃の日本もそうだったのだろうけど、多分それ以上に復興が進まないイタリア。工場やスラム街の貧しさを見てしまったバーグマン夫人はその貧しさの真っ只中に入っていこうとして、周りから狂人扱いされてしまうという、どこかで似たような話を知ってるような話です。清貧バーグマン夫人は清貧故に妥協しないからハラハラしてしまいます。精神病院に入れられてしまうバーグマン夫人が窓の外に見たものは、救いです。魂の救いがそこにあったのです。そんなラストは嘘くさいとどこかで思いながらも、やっぱりグッと来るのです。真面目な映画を真面目に作った人の勝利です。

 ただ、そこには「戦火のかなた」のリアリズムは、ありませんでした。残念。

 

 

×『かあちゃんと11人の子ども』五所平之助 昭和41年 松竹 

 (2021/11/16国立映画アーカイブ)

 実話の映画化だけど、配役がまぁ凄い。旦那が渥美清。その弟が竹脇無我。子どもたちが久我美子、十朱幸代、内藤武敏、倍賞千恵子、藤岡弘、田村正和、近藤洋介、工藤堅太郎、佐藤英夫、作文コンクールで賞を取る末娘が左時枝

これだけ豪華に顔揃えられたら、いくら実話でもリアリティがない、無さ過ぎ。

 戦争中に苦労して11人を育てるのが回想形式で描かれて、立派に育った子どもたちが顔揃えて集まってんだから、「二十四の瞳」のようなさわやかさも過ぎゆく時への愛おしさも、ない。大好きな左幸子にも「女中っ子」のような包容力も「飢餓海峡」のような健気さも、何と言ってもあのいじらしさが、ない。

 

 

○『夜の女たち』溝口健二 昭和23年 松竹京都

 (2021/11/19神保町シネマ)

 街娼として生きるしかない田中絹代、密輸商人の情婦田中絹代、生き別れた妹と再会する田中絹代、そのどれもがしっくりこない田中絹代。うーん・・・演技に見えてしまうんだよなぁ・・・

 彼女を取り巻く風景とそこに生きる女たちの息づかいは伝わってくるんだけど・・・うーん、田中絹代が美しくないんだよなぁ・・・髪の形も衣裳もメイクも、わざとらしく見えてしまうんだよなぁ・・・

 もしかしたら、これは私が生まれた年の考証通りなのかもしれないけれど、大好きな田中絹代がなぁ・・・

 良い映画だったんだけどなぁ。

 

 

×『深夜の告白』中川信夫 昭和24年 新東宝  (2021/12/1神保町シネマ)

 どうもこのところ中川監督にはがっかりさせられている。戦争の影をひきずる男は、この時期では浮き彫りに出来なかったのだろうか。嘘くさく軽い。時代の政には出来ないこともあるが、時代が呼び起こす渦もある。当時1歳の私には何も思い出せないが、母が語り、父が帰ってこなかった戦争はもっと重かった。

 

 

×『赤坂の姉妹 夜の肌』川島雄三 昭和35年 東京映画

    (2021/12/7神保町シネマ)

 「幕末太陽伝」の三年後の川島雄三。淡島千景に新珠三千代の営む赤坂のバー。曲者伊藤雄之助の大物政治家。このお膳立てから見えてくるのは役者たちの魅力、だけ。日本の政治ものはドロドロしたところを掘り下げる、だけ。

 彼らの声が迫ってこないのは背景から生活感が消えているからだろうか。「椿三十郎」の政治の方がよっぽど面白い。

 

 

×××『犯され志願』中原俊 昭和57年 にっかつ

    (2021/12/7シネマヴェーラ渋谷)

 日活倒産直前の悪あがきロマン・ポルノ!悪あがきの時期は監督スタッフがやけになって傑作を残す。ロマン・ポルノも例外ではない。しかしその時代は長い、長過ぎた。10年・・・まだやってるロマンポルノ・・・これは中期の作品か。多分中原俊は新進気鋭だったろう。撮影は前田米造さん!「・・・言葉で語られることのない焦燥や孤独を繊細に・・・」の宣伝文句に見るっきゃ無い!!と無理矢理予定を変えて見に行った。

 行ったのでした。・・・だから、その焦燥や孤独はどっから来るんだよ!部屋の中でボーッとしてるのを前田さんがいくら繊細に撮ったって、彼女の奥があぶり出されなけりゃ、そうか一人暮らしは寂しいのか、にしかならんのだよ!70年代にはまだ時代のしらけが空気の中で混乱してた。80年代には個々の問題に特化した背景を、描かなくって良いから空気に乗せろよ中原君と有明さん!ともかく最後まで見たぞ。

 

 

◎『赤い髪の女』柛代辰巳 昭和54年 にっかつ

    (2021/12/10シネマヴェーラ渋谷)

 (本当は[赤]は赤を二つ並べて書くんだけど、ごめんなさい)うーん、凄い。すごすぎる。

 赤い髪の宮下順子と、流れのトラック運転手石橋蓮司がほんの束の間、ただ絡んでいるだけ。それだけを無駄な感情表現も説明描写も省きに省いて70分ちょっとでまとめた力にあっけにとられた。

 彼女が失ってきたものは、新しく炊飯器を買ったり洗濯機に固執したり、それだけで分かる。彼が失ってきたものは、彼女に対する理不尽な行為で分かる。これを[哀しい]と言うのだろう。胸が深く締めつけられる。

 相棒の阿藤海(快)が犯した高校生亜湖と雨のバス停で抱き合う姿が深く突き刺さる。何でこんなに飢えているんだ、飢えなければならないんだ、俺は何をしているんだ、お前は‥‥

 中上健次の原作も優れて哀しいのだけれど、文字表現では表せない、より純粋な世界が現れた。

 憂歌団の音楽と前田米造さんとのコラボが生んだ映像の力。そうだよ、これがロマン・ポルノの悪あがきの力だ!

 

 

○『美少女プロレス 失神10秒前』那須博之 昭和59年 にっかつ

 (2021/12/14シネマヴェーラ渋谷)

 単に山本奈津子ファンだったので見に行きましたハイ。退屈覚悟で行ったんだけど、これが面白かったんですよ!荒唐無稽な話の展開はアニメならいけるけど実写では難しいと思うんだけど、山本奈津子と小田かおるがプロレス技をきちんとこなしてるのが映像の勝ち!になってるんです。受け身はちゃんと取っている。ドロップ・キックは様になってるし、トップロープに昇るし、ジャイアント・スイングも本気と必死が伝わって話を引っ張るんだから、きちんと見なきゃ失礼ですよね。

 まぁセックス・シーンなんか姉さん宮下順子なんかに比べたら足元にも及ばないし、前田米造名人とは雲泥のカメラだけれど、ともかく照れずにダレずに見せる気迫は、ありました。気持ち良く拍手できました。

 さようなら山本奈津子さん、と言える出会いでした。

 

 

◎『泥の河』小栗康平 昭和56年 木村プロ

 (2021/12/14国立映画アーカイブ)

 うん。傑作と言われてきたものにしては珍しく傑作だった。私が8歳の頃の大阪。ボロボロの安食堂を営む一家と船上生活(それも母親は娼婦)一家の互いに行き来する心の有り様をリアルに見つめ続ける。

 私も貧しかったけれど、こんなに豊かな生活はしていなかったと思う。転校してきて友だちのいない子に声をかけたり、朝鮮人と揶揄された子と遊んだり、理由は分からないけれどそんな子どもだった私には、もっとあの時に入り込んであげれば良かったんだろうなぁと‥‥後悔が静かに浮かんでくる。

 他の子の親と言うのは神秘的だった。いつも子どもとは壁を隔てて生活する母親加賀まりこは触れられない存在に映っただろう。自分の親田村高弘と藤田弓子(絶品!)の暖かさを充分に感じただろう少年は、その幸せを後でしみじみ感じただろう。船上生活の兄弟、なかでも姉(抜群の存在感!)は幸せに生きたのだろうか。何も言わず、何も残さず去っていくオンボロ船をどこまでも追いかけて声をかける少年。返事がなくて良かったのだろうけれど、顔を見るくらいはあって欲しかったが‥‥いあやいや、別れなんだから。お互いの心に残ってくれたら‥‥願うばかり。

 こんなデビューをすれば、小栗監督のその後の苦労は手に取るように分かる。

 

 

××『港へ来た男』本多猪四郎 昭和27年 東宝

 (2021/12/25国立映画アーカイブ)

 クリスマスに見る映画じゃなかったね。捕鯨船の荒くれ船長志村喬と大卒航海士三船の確執と友情が楽しいけど、三船が誰もが嫌がる舟の船長になり、サスペンスが高まる・・・設定なんだけどね。この乗組員たちのへそ曲がり&ひねくれ&悪ぶりなんかがぜーんぶすっ飛んで、どうやって三船船長と男意気の捕鯨船になっていったのか・・・分かりません。これじゃあダメでしょう本多監督。

クジラ漁の実写は貴重だし、迫力あるんだよね。円谷英二の特撮もさすがなんだよね。でもゴジラじゃないんだから、人間描いてくんないと。あーあ。

 


 

 

 

 

 

 

新生意気坐18  令和3年 7月〜9月   ほしのあきら

 

(私が生まれた昭和 23 年=1948 年から10代最後の 42 年=1967 年間での映画を中心に見ていこうか....と決めたは決めたが、そう上手くはいかないが、 鑑賞を絞る目安にはなる。それと逆に新作も少しだが見ているのだから、これも書けるだけ書く方が、後々には繫がるだろうと思えてきた。だから、ようするに、見たものは全部書くぞ!ということになってきた。....書くことのしんどさの逆療法。)

 

見たぞリスト

×「カルメン純情す」、「ハイロフリースペース」、△「83歳のやさしいスパイ」、○「幕末太陽伝」、△「血煙り高田馬場」○「ゴジラ VS コング」(2021)、 △「アウシュビッツ・レポート」(2020)、×「名も無い歌」(2020)、○「優しい殺人者」、×「弁天小僧」、○「12人の怒れる男」、◎『カナルタ』(2020)、 △ 影の車」、?「フリークス」、○「生きてる死骸」、△「キャットピープル」、○「裸のキッス」、×「古都」、△「最後の人」、×「最も危険な遊戯」、△「ハイロフリースペース」

の19本と2企画

 

 

×『カルメン純情す』木下恵介  昭和27年  松竹大船

  (2021/7/2神保町シネマ)

 前作「カルメン故郷に帰る」のあの新しい時代感覚と懐かしさの入り交じった、時代も映画も新しい地平へと動くという予感が、空回りしている。

 新しさが白々しく表面を撫でていく。彼女たちの背景が前作以上ではないからだろうか。4歳の頃の風景と心情のたたずまいは断片的ではあるが、関係の積み重ねの始まりとして在る。ここには人の関係の集積ではなく、こうなっていきたいとかこうなっていくだろうとか、多文化が共生していくのがこれからの日本だというような、拠り所の持てない風景と心情ばかりだ。つまりそれは、70年経つといかにも「旧い」のだ。

  何処か虚しさが溢れていた。

 

   

★ 無駄話(その9)  フリースペース7月11日  ほしのあきら

 ハイロは「シネマ・フェスト」以外に上映会を続けている。今はフェストは年1回で、それ以外に年4回定期的に「フリースペース」を催している。

 フリースペースはもともとメンバー個々の企画コーナーを上映してする上映会の一部として、ハイロ本来の無審査無差別上映するコーナーだったが、メン バーの企画が頭打ちになり、いつしか独立した上映会になった。じゃあ、フェ ストとどう違うのか?そこが問われているのだが、明確な答え(形式の違い)は出ていない。....ことは前回書いた。

 作品を選ばないと言うコンセプトだから、当然模索の51年だ。そんな中、今フリースペースは外的条件がきっかけで貌が大きく変わってきている。

 コロナで人を集められない。それで中止ではアングラ魂が許さない。だから来たい人は会場に来て、来たくない人は配信で。作品について話したい人はZoom で話すという貌になった。

 会場のアピア40にはパソコンが数台、よく分からないコードがいっぱい。カメラも数台。私には何が何やらさっぱり分からず....分かりやすいのは8ミリ映写機。8ミリは会場のスクリーンに映し、それをカメラで再撮影、画質が悪くなる?そう言う画質として受け止めれば良いだけの話。高画質が良い映画 じゃないなんて自明でしょ、という屁理屈。でもね。8ミリで出品するのは私と私らチーム・アナドルナだけ。「8ミリがある。8ミリが見られる」って売りにすりゃ良いのに。会場でも YouTube でも見られるよ。ズームで作品について 勝手に話せるよも売り物なのに。そう言うのがからっきし下手なハイロ。

 作品上映する。私と代表マエダ・シゲル氏がその作品について語る。マエダ氏は大体当たり障り無く語る忖度おじさん。次にまた出品してもらいたいから。 私はほぼ私の映像論、私の自主映画論に基づいて語る辛辣派。次にもっと凄い作家になって凄い作品を見せてもらいたいから。

その辺りが賛否両論を呼ぶらしい。賛否両論結構上等。そいつが無きゃあ世の中進まねえぜ。

 やってることは改良の余地は至る所にあるけれど、他に無い面白さがある(からやってるんだけどね)のに人はあんまり集まらない。まあ、世の中これで良いのか?意識が高まらなきゃ人は来ないよね。日本人は平和にボケてるからね。続けるしか無いハイロであり、フリー・スペースであります。

 

 

△『83歳のやさしいスパイ』マイテ・アルベルティ   2020年 チリ   (2021/7/16 新宿シネマカリテ)

 女性がハラスメントされているのではないかと依頼。老人ホームへ潜入するスパイに応募して選ばれた老人がホームの人々と触れ合い心の交流をする話.. と言うけどドキュメンタリー。主人公は映画だと知らないで隠し撮りされているという驚く映画。優しさに満ちた隠し撮りの映画。

 依頼は結局“アンタ施設に預けっぱなしにしないで、ちゃんと顔見せに行けよ!”ということで。それよりも老いの孤独、心に空いた隙間、それに負けまいとする精一杯の前向きさ。何とか楽観的にあろうとするけなげさと泣いて話せる人の大切さ。そういう生が詰まった映画。

 唯一無二の映画。こういう映画を企画して製作できる人たちは幸せだ。また やりたい!そう思っているだろうと羨ましい映画。

 

 

○『幕末太陽伝』川島雄三   昭和32年  日活   (2021/7/28神保町シネマ)

 小学生のとき母と一緒に見た。意味も筋もほとんど分からなかった。主人公 (フランキー堺)がやたらと動き回って侍(石原裕次郎だとは知らなかった) が小便するカットが脳裏に焼き付いていた。遊郭なんてチンプンカンプンだけ ど、女性たちの卑猥さとエネルギッシュな姿(左幸子と南田洋子だとは)にドキドキした。古典落語の「居残り左平次」をベースに下ことなど露知らず、石原裕次郎も小林旭もちょんまげの似合わないお兄さん達だなぁと、つまりいろんな部分が60年以上もこびりついているのは、川島監督の世界に対するデッサンの力とブラックな見方だろう。あらためて、敬服。

 

 

△『決闘高田の馬場』マキノ雅弘(当時は正博)  昭和27年  日活京都 

  (2021/7/28 神保町シネマ)

 厳密に言うと、昭和 12 年に作られた「血煙高田の馬場」を51分に短縮して再公開されたそうな。

 この頃の日活はまだ撮影所が大映の所有で新作の製作ができなかった故に、こういう形態で配給をしていたらしい。もっと言うと、昭和 27 年版は44分で、51分版は第一回東京国際映画祭の協賛イベントで「ぴあ」が上映した際の長 さだと・・・まあ、今こうして見ているのが全てなのだから、どうでも良いって言えばどうでも良いんだけど。

 日活復活のアピールの為にリバイバル上映するからマキノ監督頼む!・・・でも単なるリバイバルじゃつまらないから、新しいバージョンにしよう・・・再編集自体は楽しいから良いんだけど、以前より長いのは一度捨てた画面をまた使うってことで、それはプライドが許さない・・・だけどちょっと短かった かなあ・・・第一回の国際映画祭でのイベントだからもう少し長くしよう!・・・

 自分が監督だったら、そんな気持ちだろうか。映画の長さって“まぁこんなもんだろう”でしかないし、構造上そういったいい加減さが面白い。映画館で一巻抜いて上映しても観客が勝手につなげて見てくれるし、巻の上映順序間違えても、斬新な構成だと褒められることもある。・・・まぁ監督が納得するかどうかはまったく別だけど、上映は映写技師の胸先ひとつだし、映画館の環境で印象は変わる。上映された作品は観客のもので、作者なんてドコにも無いのが映画だ。

 でも小説や音楽でそういうことはあるんだろうか。音楽はその時の編曲で時間軸が変わることはある。小説は?多分無いだろう。でも昔「リーダーズ・ダイジェスト」という、長編小説をダイジェストにした雑誌があった・・・当然何らかの金銭が動いての話ではあるだろうが、その辺りの作家の立ち位置は面白い。頑に NO!という作家もいたんんだろう。映画の権利は会社。製作の権利はプロデューサー。やりたくなくてもやれと言われたらやるんだろう。

 かって黒澤明作品を遂にテレビ初放送!!テレビは放映時間が決まっているからどの作品もその時間枠に合わせて短縮していた。画面やシーンをカットしていた。黒澤監督はそれを良しとせずに、全ての画面の頭と尻のコマを削っていったと聞き、当時はさすが!と思ったけど、そのコマは結局削れたんだよな、と今では思う。・・・やっぱり映画の画面は厳密では無いんだと、そのいい加減さが好きだ。

 ともかく、長くはできないその長さの違いが生む世界の違いを知りたいとも思うし、何を根拠に短くしたり増やしたりしたのか、マキノさんの心根を想像すると面白い。

 

 

○『ゴジラVSコング』 アダム・ウィンガード  2021年  アメリカ

  (2021/8/3 南町田109)

 ゴジラもコングも両者ともその名前に傷つくこと無く、最後はやっぱりコングのかっこよさで締めると言う。ただ、香港はとんでもなく悲惨な都市に成り果てる。リアル香港が大変な状況だけに、そこは考えてないのかよハリウッド! という後味の悪さは、あるものの面白かった。

 (良くも悪くも)嘘っぽさが見えずによく出来てる。特撮世界のちょっと可愛らしい嘘の世界が見られなくなって久しいがバーチャルと寓話の違いが、生まれてくる想像力の違いだということが改めて見えた。「シン・ゴジラ」をハリウッドがどう評価したのか(しないのか)、その答えだろう。

 やっぱりゴジラは動かなくて良い。もっと堂々として動かず騒がずのゴジラが好きだ。

 アンタと初めて会った時、その恐さに映画館でずっと下を向いていた。兄の “もういないよ”の声に騙されてアップのアンタを見てしまった夜、トイレに行かれず漏らしてしまったことをお前は知らないだろ。

 それでも「続ゴジラ」からずっと見続けて、ついでに「ラドン」の人間のエゴにに怒り大泣きしたり、あのいかにも嘘の世界の想像力に酔いしれて・・・

それがまさか十年後に“シェー!”をやるとは!・・・それからしばらく会う のはやめたんだぜ。アンタは動き過ぎたんだ。

 これが最後のゴジラだと宣伝にそそのかされて娘と見に行ったアンタは、動かなかった。下半身デブであんまり動かせない短い腕で、ココッ!と言う時だけ放射能光線(あってる?)を吐く。「泣かぬ笑わぬロンリー・ゴジラ」はかっこ良かった。アメリカンゴジラも少しづつかっこ良くなってはいるけど、あれはやっぱり爬虫類だ。また会いたいぜ動かないゴジラ。

 (これだけリアルも求めてるのに、コングの島が骸骨島というのが良いなぁ)

 

 

△『アウシュヴィッツ・レポート』ペテル・ベブヤク   2020 年

  スロヴァキア、チェコ、ドイツ (2021/8/12 新宿武蔵野館)

 日本で広島と長崎の原爆を素材にした映画は悪い評価を受けない。ヨーロッパではナチスの残虐行為を素材にした映画は悪い評価を受けない。だけど、その意味に少し違うところはある。ナチスの行為は未だ知られていないことが少なくなく、知らない人(知りたくない人)もそれなりにいることだと。だから原爆映画は長年8月に公開されていたが、ナチス映画はいつでもドコでも現れる。またか!と思いながら、見てしまう。

 強制収容所を脱走した二人のレポートによって12万人のユダヤ人の命が救われたという実話を元にした映画がけれど、その実態を知っている者にとっては今更と思うのだが、今作られるということは、その意味があるのだろう。最初は信じてもらえないレポート、そこにハラハラしない。そこから信じられていく過程をこそもっと知りたい。収容所内の残虐な行為も以前の他の映画とは違う視点で見せられないと「映画」として受け取ってしまう。(その意味で「サウルの息子」ネメシュ・ラースロー2015 年ハンガリーは必見!!!)

 いや、それは危険な見方なのかもしれない。何故今ナチス映画なのか?を真面目に考えていないのかもしれない。ナチス映画は戦後すぐから作られてきたがアウシュヴィッツ映画は 1960 年代に入ってからなのだから。

 

 

×『名も無い歌』メリーナ・レオン  2019 年   ペルー

  (2021/8/12 ユーロスペ ース)

 (今日は妻との映画はしごの日。昔は休日によくやった日だが、最近は映画の趣味がズレてきて余り無い日。正直ちょっと嬉しい日。)

  これも実話を元にしている。実話を元にすると映画の説得力が増すようだが、実話にもたれ掛かると映画としての魅力は弱くなる、こともある。

 気の毒で見ていられないほどの話なのだが、画面に魅力が無い。生まれたばかりの赤ん坊を奪い去られた夫婦が泣き叫んでいるだけで、二人の絆とか相克が見えない。事情を聞いた新聞記者の力強さとか無力感とかが漂ってこない。

 今どきモノクロ、スタンダードで女流監督のデビュー作と、押しの要素に溢れていたのに・・・妻との久し振りの映画はしごの日なのに・・・

 

 

○『優しき殺人者』ハリー・ホーナー   1952年  アメリカ

  (2021/8/13 シネマヴェーラ渋谷)

 昨日の口直しじゃないけど、ユーロの一階上で。お気に入りのアイダ・ルピノが今回は平凡な美しい戦争未亡人。しかし相手役の掃除人ロバート・ライアンが表面は真面目で静かな狂気を少しづつ見せていく。どこが狂っているのか?どこか狂ってる!その静かな流れが恐ろしい・・・過ぎる。

 彼の狂気の理由を明かされると、そこで安心してしまう我々。黒澤清君なら絶対しないだろう。だがロバート・ライアンは最後まで哀しい。哀しいさまが怖さを増していく。それはアイダ・ルピノの追いつめれれていく恐怖が美しいから。80分無い長さの中で充分に人の哀しさを味わえた。

 

 

×『弁天小僧』伊藤大輔    昭和33年   大映東京

  (2021/8/17 国立映画アーカイブ)

 市川雷蔵と伊藤大輔だよ!弁天小僧だよ!見なきゃダメでしょ!

 長いことそう思っていました。ごめんなさい。退屈でした。何度も席を立とうとしました。そういう時は決して眠気が襲ってくることは無いのです。歌舞伎でよく知られていることをなぞる監督ではないことは重々承知しているつもりです。でも自分を強姦した弁天小僧菊之助に惚れてしまうという心の動きが見えないのですから、サスペンスも哀愁もへったくれでした。

 忘れませう。

 

 

○『12人の怒れる男』シドニー・ルメット   1957年  アメリカ

  (2021/8/22  つるまい名画座)

 「つるまい名画座」は映画館ではありません。二ヶ月に一度私の管理している南町田会館で地域の老人クラブ主催で古い(皆さんと私の青春か)映画を鑑賞して私が解説するという集いの名称です。

 法廷場面の無い法廷劇。密室映画のはしりとして有名。なんせラブロマンスは無いわ、カーアクションは無いわ、ただただ12人のおっさんたちが汗ダラダラ流しながら話すだけという恐ろしく地味な映画。最後の最後で法廷前の階段の、それもロング・ショットが出て来た時の開放感は、まさに13人目の男になった気分。正義とは何か?とか、偏見の恐ろしさとか、この映画に関して語られているけど、誰かが強い意見をいうとそれに同調していく我々がいる。 最後に少年は有罪から無罪へと逆転するけど、それが正しい決定かどうかなんて分からない。新たな強い意見に同調しただけなんじゃないかと、そう考えるとこれは不条理劇なのだろう。

  それにしても、これほど飽きを感じさせない密室劇はあんまり無い。

 

 

◎『カナルタ』太田光海   令和3年   (2021/8/25  美学校試写室)

 マンチェスター大学大の博士課程の卒業制作だというドキュメンタリー。若いストレートな眼差しと映像の成り立ちに対する地味な試みの連続がこれまでに見たことが無い映像の流れを感じさせてくれる。

 アマゾンの熱帯雨林に暮らす初老の男は森の中で薬草を探す。これは薬草ではないかと感じた草木を持ち帰って試してみる。「薬」は彼の生活の中には無い。しかし、それが彼の部族の生活の主流ではない。ここでも若い人は現代の多くの流れに追従した生活を求めている。「薬」に頼らず自分たちの生活を信じて生きようとする生き方は少数になっている。カメラに向かって彼らはそれを主張している。

 これほどカメラを信じて生き方をさらけ出す姿は、哀しくもあるが力強くもある。やらせとかそうで無いとかを超えて、生き様が浮かび上がり、R・フラハティの「ナヌーク」が脳裏に浮かぶ。

  続編は要らない。彼らが彼ららしく生きることを信じて元気をもらえた。

 

 

△『影の車』野村芳太郎    昭和45年   松竹大船

  (2021/8/27  国立映画アーカイ ブ)

 傑作「砂の器」をこの後に手がける松本清張原作、川又昂撮影、加藤剛主演のチームに岩下志麻が絡むんだから期待は膨らみますよ。撮影場所は開発前の 藤が丘、青葉台、つくし野近辺と見た。ここに17年後にすむんだから、今見た私は嬉し過ぎます。

 岩下志麻がすごいです。あんな美人がこんなあられもない姿をさらけ出すんだから、いやぁ映画のレンズと女優魂って凄いよね。だってそこまでやらなくたってお客さんは文句いわないだけの美人なんだから。

 そこにばっかり眼が入って、子どもの眼差しが加藤不倫男の過去をあぶり出していくという、肝心な話はあんまり入ってきませんでした。

 でもまぁ、母とおじさんの密通を目撃する少年とか、中年になってその時の自分の犯罪性を思い出すとかと「天城越え」に似てるなぁ、そうか清張かと言う印象は持ったから・・・持ったから何だ?「天城越え」は10年以上後の映画だぞ・・・この映画を先に見ていたとして「天城越え」は「影の車」の二番煎じだと思っただろうか・・・きっと、そうは思わないような気がする。

  やっぱり岩下志麻のセックスシーンだけが凄かった映画ですね。

 

 

?『フリークス』トッド・ブラウニング   1932 年   アメリカ

  (2021/8/28 シネ マヴェーラ渋谷)

 シネマヴェーラは直接買い付けた海賊版(16 ミリ版と VHS 版)を多数持っている、それを上手に使いこなしていることが他の名画座と違う力になっている。海賊版と言ってもアメリカで市販されているもので研究用に収集している所は他にもある。それを営利で・・・という批判を聞いたことがあるが、何をちいせぇことを言ってるんだお兄さん。其れで蔵が建ってるわけじゃなし・・・

 なのだけれど、「フリークス」やっぱりズタズタ!何が訴訟になったのか、どこがイギリスで30年間上映禁止になったのか、ここからはまるで伝わらず想像で見るしかない。トッド・ブラウニングが何を見せたかったのかは映画の外 の言説に頼るしか無い。

 ただ、最後の嵐の夜のシーンの迫力に、生半可にやってるんじゃない!という力は感じた。・・・「肝心な所が全て見られない映画」として見たら、また別の気持ちが湧き上がってくるのかの知れない、いやきっとそうだ、と考えながら次の映画に向かった。

 

 

○『生きてる死骸』チャールズ・ヴィダー 1941 年

  (2021/8/28 シネマヴェ ーラ渋谷)

 最近のご贔屓アイダ・ルピノ。自分は子どもの頃から主役の美女よりも脇役のちょっと色気のある準美女(失礼な言い方ゴメン)に興味があった。飲み屋の女給とか女スリとか主役の為の奮闘する友人とか妹とか、どこかそんな役周りを引き受けるちょっと哀しい存在。岩下志麻より原千佐子の方が魅かれるのだ。アイダ・ルピノは、しかしどんな役でもその熱演が見事。特に少々癖のある役柄が嵌まる。

 女主人の秘書が自分の頭のオカシイ二人の姉を勝手に屋敷に住まわせてから、 どんどん歯車が狂っていく様にハラハラしてしまう。鳥の死骸はともかく、貝殻や葉っぱまでが不気味に見えてくるのは姉二人より、彼女たちを何とかしようとするルピノの存在感から伝わってくる。

 これ、岩下志麻が演じたら強烈過ぎて彼女一人の映画になってしまうだろう。 女4人の哀しい協奏曲になったのはちょっと地味な美人アイダ・ルピノだからなのだ。

 

 

×『キャット・ピープル』ジャック・ターナー  1942年  米国

  (2021/8/29 シネマヴェーラ渋谷)

 猫族の末裔が興奮すると豹になって人を襲うという。で、その通りの流れの映画で、描写の恐さはあるけれども・・・うーんと・・・そういう映画だった。

 

 

◎『裸のキッス』サミュエル・フラー   1964年   米国

  (2021/8/29 シネマヴ ェーラ渋谷)

 カメラに向かって暴力されているのは男です。カメラが切り替わると暴力の主は女です・・・だったとは。しかも勢い余って女のカツラが取れると丸坊主! いやぁ、このイントロに圧倒的な力は、エンドマークまで響き渡ります。

 ヒモから逃れた元売春婦ケリーが、小さな町で自分の生き方を探して体験するエピソードのこれが辛く切ないんですよ。天使のような表情のケリーと自分を抑えるケリーと抑え切れないケリー。その背景にイントロのシーンが付いて回るのは、事実を知った町の人々も同じ。でも、見ている私と彼らの心の在処は違ってしまうからのサスペンス。これがラストまで貫かれるんだから、改めてのイントロの凄さなんです。

 重ね合わせたいのは「女渡世人 おたの申します」(昭和 46 年 山下耕作)の上州小政(藤純子)の辛さと束の間の幸福感。だがケリーには小政のような理解してくれる愛(菅原文太と三益愛子)が見つからない・・・町から追い出されるのは仕方が無いんだろうなぁと思うラストに・・・ドンデンが。形としてはアメリカ映画お定まりのドンデン何だけど、いや違うね。体験としての涙が溢れてしまうんです。ここでイントロの彼女の、けじめ付けるぞの気持ちにやっとつながった気持ちが見えて、涙があふれるんです。

 さわやかな心持ちで二人の孫に会いに向かいました。(これで「恐ろしい映画」特集も最後。「フリークス」と順番が逆でなくて良かった・・・)

 

 

×『古都』中村登   昭和38年   松竹京都

  (2021/8/31ラピュタ阿佐ケ谷)

 またまた岩下志麻。今度は生き別れの双子の役。何不自由の無いお嬢さんと貧しい村娘。成島東一郎さんのカメラはきれいだし、岩下志麻はもちろんきれいだし(村娘の方が好き)助演の長門裕之は上手いし、でも相手役の吉田輝雄が単に気取っていて愛を感じない。弟の早川保もイマイチ。川端康成の原作の繊細さとか大きさとか、何とかして欲しかった。・・・とすれば済むんだけど、 いや、いかにも文芸大作のこういうきれいきれいにまとまる映画が好きじゃな いんだろうな。

 

 

△『最後の人』F・W・ムルナウ  1924 年  独

  (2021/9/8 シネマヴェーラ渋谷)

 ムルナウ作品は長いことこの1本だけしか見ていなかった。二十代の私は字幕での説明が極端に少なく、映像だけの映像表現に挑んでいる映画として感銘を受けた。カメラポジションだったり構図の求め方だったり、移動撮影での見せ方だったり、多くのことを学んで拙書「フィルム・メイキング」にも数行書かせてもらった。

 ムルナウ出会いの映画が他のムルナウ映画を見ていくうちに、もっと試みの映画があり、筋立ても演技も映像表現の一部だというムルナウ世界を知り、今回はストーリーと名優の演技の大きさが目についてしまった。

 しかしムルナウの映像表現の筋道をたどって求めて行こうとする姿勢は確かに見えたし、忘れてはいけない姿勢だとあらためて確かめました。

 

 

×『最も危険な遊戯』村川透   昭和53年  東映セントラル

  (2021/9/10神保町シアター)

 30歳のほしのあきらは、自分の映画とハイロの活動と麻雀に忙しく、余り「商業映画」を見に行かなかった。宣伝や噂で凄い映画だと思い続けた映画の 1本。そういうのって、かって好きだった人に会うような気後れが出てきて、すぐに見には行かれない。この作品も見るぞ!と思ってから何回目だろうか、やっと実行したぜ。

 冒頭から麻雀でぼろ負けする松田優作がカッコいい。廃墟でのドンパチは全て扉の向こうで動きと音だけ。さすがにカッコいい。

 でも、そこまで。ずっと幻の映画にしとけば良かった。

 

 

★無駄話(その10)   フリースペース9月12日    ほしのあきら

相変わらずハイロは面白い。もっと何とかならんのか!なるだろその映画! 俺の映画見ろよすげぇだろ!うーんそういう語り方があったのか!の連続 で51年間。ワンパターンにならずに刺激をもらい続けての51年間。一体 いつやめられるんだろう?いやいや“やーめた”と言ってしまえば全てが終 わる。そんないい加減な気楽さが続いている原因だろう。

そうして、自主映画とは長く付き合っている。妻以上に長い。よく妻はこんな奴を見捨てないでいてくれる。が、人には理解されなかったりする。 30年前に旧友と再会した時自主映画を続けていると話したら“へ―8ミリじゃないよな”で、“8ミリだよ”そこで彼は言葉を失っていた。悪いことをした。

しかし私も辛かった。8ミリって軽く思われていることに腹が立っていた。でもそこで話をやめるべきではなかった。やめたのは、お互いがいやな思いをしたくなかったからだ。8ミリと聞いてどう思ったか、議論をすべきだった。議論できる話題があることは貴重だ。

そんな話題を提供できる自分の存在も貴重だ。全てが自分に跳ね返ってくる のだから。そこに暫くは気づけなかった。

その後、作る映画も言葉も妥協しないでいる。ハイロでの私のキャラクターは、そんな流れから生まれた。

ある覚悟が無かったら、人に疑問を生んでもらえない。他人からの好感触ばかり狙えば、下手な商売映画とおんなじになる。なり下がる。 多くと反対をいく奴がいなきゃ退屈だ。

その集大成が

 

来年  2 月 11 日 (祝)  12時〜19時

 これまでのハイロ・シネマ・フェストに変わる新企画

 「ハイロ断片映画祭」だ !

やりたいことは手抜きしない。それがエンターティメント。自主映画の道はエンターティメント。

そんな方向で続けるしか無いハイロであり、フリー・スペースであります。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新生意気坐17 令和3年4月〜6月 ほしのあきら

 

(私が生まれた昭和23年=1948年から42年=1967年間での映画を中心に見ていこうか‥‥と決めたは決めたが、プログラムはそう上手くはいかない。でも鑑賞を絞る目安にはなる。それと逆に新作も少しだが見ているのだから、これも書けるだけ書く方が、後々には繫がるだろうと思えてきた。だから、ようするに、見たものは全部書くぞ!ということになってきた。‥‥書くことのしんどさの逆療法になってきた。)

 

見たぞリスト

△「夫婦善哉」、○「花のれん」、△「ハイロ特別企画 鬼と乙女」、

×「私のベレット」、×「KYOTO MY MOTHERS PLACE」、◎「天城越え」×「悠久よりの愛」(2021)、○「おとうと」、○「青春残酷物語」、○「波影」、△「夜よりも深い闇」、△「夜のストレンジャー」○「私の名前はジュリア」、○「文化生活1週間」、◎「キートンの探偵額入門」、○△「戦火のランナー」(2021)、△「田舎刑事 時よ止まれ」、△「エノケンの頑張り戦術」、△「岡本忠成作品集」、△「田舎刑事 まぼろしの特攻隊」、×××「名探偵アジャパー氏」、△「ジャンク・ヘッド」(2021)、×××「ロボット修理人の愛AI」(2021)、△「田舎司祭の日記」、◎「ハイロ特別企画 鬼と乙女2」、◎「月夜の傘」、×「女の中にいる他人」、○「いとみち」(2021)、△「こころ」、○「日本の青春」、×××「風の視線」

の30本と2企画

 

『夫婦善哉』豊田四郎 昭和30年 東宝(2021/4/2阿佐ケ谷ラピュタ)

 豊田四郎と言う監督をどこかで敬遠していた。文学を原作とした女性映画、感じるズルい匂い。「夫婦善哉」は傑作と聞き続けてきたが、どうもダメ男が主人公の映画は、当てはまるところが多々あって嫌いで、それを森繁や森雅之が演じればぴったり嵌まる匂いに敬遠。

 しかし、淡島千景ファンになったのだから、ここは覚悟して見なければアカンやろ、と言う匂いで、意を決して。

 案の定の設定と展開。何でこんな男の為に!と言うのがこの歳になってもついてくる。善哉食べるのもピンと来ないまま。男と女の機微が分からない。ダメ母親と息子と言うのは肩入れできる。そうだ!ダメ女に尽くす男という映画を探そう。

 

『花のれん』豊田四郎 1昭和34年 宝塚(2021/4/7阿佐ケ谷ラピュタ)

 おんなじ豊田&森繁&淡島千景だが、これは好きになれた。NHKの朝の連ドラで知っていた内容だが、もちろんあんなマンガチックではない。森繁があっけなく死んだ後の(これも良かったのかも知れない)、たくましく生きる女が秘めた美しさと哀しさを見せる淡島千景がじつに深い。

 豊田四郎と言う人は、さすがに女を見る目が深い‥‥というか多分に女優の演技に妥協をしないのだろう。言って見れば女を際立たせる為の男は脇役、そこに徹していたのだろう。また淡島千景を好きになった。

 吉本興業の初期のスーパースター花菱アチャコが花菱アチャコ役ではなく淡島に尽くす役柄で出演していたのが興味深かった。

 

 

『私のベレット』大島渚 昭和39年 日本映画監督協会プロダクション(2021/4/12シネマヴェーラ渋谷)

 大島さんは昭和34年に監督デヴュー。36年には松竹を退社している。“大島君、映画館から出てくる人々はみんなニコニコして出てくる。ところが君の映画を見たお客はみんなしかめっ面をして出てくる”と松竹の重役に言われた大島さんは“私は皆んながしかめっ面をして出てくる映画を作っているんです”と返して、松竹を退社したと言う話を妹さんの瑛子さんに聞いたことがある。

 日本映画監督協会が資金欲しさに「いすゞベレット」のPR映画を作ったのだろう。脚本監修に小津安二郎、企画監修が山本嘉次郎、千葉泰樹、五所平之助、牛島虚彦、松林宗恵、中平康、野村芳太郎、関川秀雄、滝沢英輔などなど凄い顔を揃えている。監督は何故大島さんだったのか?

 社会性に眼を向け続け、権力に対峙し続け、同じような映画は作らない決意と自分だけの方法論を求めた大島さんだから、もちろんハッピーで甘ったるい映画なんて作るはずが無い。当然3話のオムニバスのどれを取っても社会のひずみが見えるアン・ハッピーエンド。そんなことは監督協会だっていすゞだって分かっていただろうに!!制作資金の為に銀行に融資を頼んでも断られる創造社(瑛子さんの話)に、協力する為に監督協会が一肌脱いだ?説得力の為に協会の幹部監督たちが名前を連ねた?

 分からないが、それでも大島さんは妥協しないで映画を作った!面白い作品ではないが、そんな裏読みが「社会」を感じる。この後、日本はいすゞとともに高度成長期に入っていく。

 

 

『KYOTO MY MOTHER’S PLACE』大島渚 昭和66年 英

(2021/4/12シネマヴェーラ渋谷)

 イギリスBBCって凄い会社だね。いろんな分野で、その分野の端っこを探している。

 しかしこの映画を見ていると大島さんは決してへそ曲がりではなく、素直で純粋に世界を見たい、見ようとしてきた人だと、改めて思う。

 何のてらいも無く京都を描く。見ているこちらが恥ずかしくなるぐらい京都をイギリス人に紹介する。亡きお母さんの人生をさりげなく語り、そこに「古都」の因習に縛られた女性が浮かび上がる。それはあくまで淡々と語られ、日本はそうだったんだなとイギリス人も理解するだろう。

 面白い映画ではないが、それでもやっぱり大島さんは京都が好きだったんだろうと真面目に受け取りました。

 

 

『天城越え』三村晴彦 昭和58年 松竹=霧プロ

(2021/4/13国立映画アーカイヴ)

 再見なれど、またもや打ちのめされ、しばらくは席から立てなかった!!多分次に見ても同じだろう!

 渡哲也を軸とした現在と過去の時間の連鎖は「砂の器」と同じく小説よりも説得力のある流れ。徐々に分かってくることものは激しく哀しい寄り添った生の塊。そして田中裕子のエロス。あの小さめな一重まぶたは、「おしん」以上。

頭からかぶった手ぬぐいの端を銜えた裸足の女。馴れ馴れしく話しかける年上の女。触れてはいけないものに触れた少年の残酷で弱々しい眼差しは、確かに共有できる!あぁそうなんだよなぁ‥‥。

 三村晴彦は極論すればこの1本だ。それで良い。こんな映画を作れたのはきわめて希な幸福だと思う。

 

 

『悠久よりの愛―脱ダム時代』金子サトシ 令和3年 日活

 (2021/4/16西国分寺いずみホール)

 曾てPFFで審査員をやっていた。他の人は選ばない作品にスポットを当てる、をテーマにやっていたら「鬼の審査員」とか「変態映画の父」とか呼ばれた。その時に個人映画を作って入選した大学生が、その後テレビのアシスタントをしながら何本かのドキュメンタリーを自主制作している。その最新作。

 ダム計画を阻止した気仙沼や京都、闘争中の石木ダム、ダム撤去を実現した荒瀬ダム等を取材しダム問題を考えるという映画。日本の至る所にダムはあり、観光地になっているダムも少なくはないが、本当にそんなに必要なのか?水害がダムによって起きることもある。ダムで沈んでいく土地の住人たちは場所も気持ちもバラバラになっていく。

 こういう地味だが自分の存在と映画をひとつにしている人との再会はことのほか嬉しい。それも私が誰でも傑作!と呼ばれそうな映画を避けてきたことに由来するのだから、自分を褒めてやりたい気持ちにもなる。

 作品としてはつまらなかった。言葉で言えることを映像にしているだけで、インタビューを受ける人々の生の声、生の仕草が語りかけてこない。聞き手が聞きたいことに答えるだけで進むのは、作り手が段取りを撮れれば良しと言う態度なのだろう。遠慮か。

 それでも作る意味はある。それが次を呼ぶのは確かだ。

 

 

『おとうと』市川崑 昭和35年 大映東京(2021/4/20神保町シネマ)

 高校時代に名画座の予告編を見て、その色彩の美しさと画面の切れのかっこよさにしびれ、翌週本編を恐る恐る見て、そして市川崑の名前が刻まれた。

 撮影が名人宮川一夫だということも、父が森雅之で義母が田中絹代だと言うことも分からず、ただ岸恵子が男言葉を使うことにしびれ(もちろん水木洋子の脚本だと言うことも分からず)、こんな姉が欲しいと2回見たものだ。

 日本家屋の襖と言うのは西洋のドアとは違う出入りの妙がある。エルンスト・リビッチ映画の巧みなドアの使い方にも感心するが、やはりドアとは違い気配がある。気配を含めた出入りの芝居は意表と納得とがあり、山中貞雄の「丹下左膳」に通じる滑稽な緊張感が親子喧嘩のある種の微笑ましさを運んでくれる。芝居には無い、やっぱり映画のフレームマジックが最近目にしないのは画面が固くなっているのか、もっといい加減で良い。その方がドラマが際立つのに。と、改めて市川崑を刻んだ。

 

 

『青春残酷物語』大島渚 昭和35年 松竹

 (2021/4/21シネマヴェーラ渋谷)

 遂に見てしまった青春残酷物語。ずっと見るのが恐かった青春残酷物語。「世界残酷物語」なんて恐くない。「死霊のはらわた」なんて恐くない。「怪談かさねが淵」なんて恐くない。だって青春が残酷だなんて恐過ぎだろ!

 川津祐介が上半身裸で立ち、桑野みゆきがシャツで体を隠し所在無さげに横たわっているポスターの青春が残酷な物語‥‥中学生の衝撃的な出会い。“ガキは見るんじゃ無い!”“ボンボンはあっちへ行ってろ!”そんなポスターの青春残酷物語だった。

 大体、大島さんの映画はポスターと題名で近寄れなかった。リアルタイムで見た(やっと!)のは「日本春歌孝」から。それまでは“見たいんだけど‥‥うーん止めとこう”映画の旗手だった。そのきっかけをやっと!51年ぶりに見たのだ。

 日活太陽族映画とは違う。暗い。貧しい。かっこ良くない。時代に肉薄している。色褪せずに若者が生きている。もがきが切ない。

 青春の時に見ていたら、確かに何かが変わっていた気がする。だからと言って後悔してるんじゃない。確かに何かを確信した気がする青春残酷物語だったんだから。

 

 

『波影』豊田四郎 昭和40年 東京映画

(2021/4/23阿佐ケ谷ラピュタ)

 「はえい」ではなく「なみかげ」と読むそうな。確かに「はえい」だとメロドラマっぽくて合わない。ここにはともかく娼婦若尾文子に胸が締めつけられる。乙羽信子・沢村貞子・浪花千栄子たちがよってたかって若尾文子を引き立てるもんだから、明るく笑う彼女の生に見え隠れするもの悲しさが流れ流れて、あぁ、これは「なみかげ」だと。水上文学特有の暗さや辛さがあまり感じられなかったのは、この女優陣と名人岡崎宏三と豊田監督のコラボレーション故か。

 山茶花究(考えてみれば鋭い名前)も大辻司郎も三島雅夫まで(失礼!)脇役たちが出しゃばらずに的を得ていて良い。一人深刻で苦しみ続ける中村賀津夫だけが肩に力が入って浮いてしまう。娼家の娘大空真弓は、まあ可愛ければ誰でも良かっただろう。

 

 

『夜よりも深い闇』ジョセフ・H・ルイス 1946年 アメリカ(2021/4/29シネマヴェーラ渋谷)

  あの「拳銃魔」の監督!、A級映画監督への昇進を拒んだB級監督!夜より深い闇とは何だ!

 だから、あんまり期待すると良さが見えなくなるって反省したろ?犯人が犯人を追っている刑事自身だったってことは、驚きだろ?二重人格なんてありきたりの用語で片付けちゃダメなんだよ。名刑事が疲れて田舎で養生しようとして若い娘に直ぐ惚れたって、疲れてたんだから良いんだよ。

 長回しはさすがだった。

 

 

『夜のストレンジャー』アンソニー・マン 1945年 アメリカ(2021/5/4シネマヴェーラ渋谷)

 軍人だったときの文通相手の女性を訪ねる主人公。娘が帰るまで滞在してくれと母。何か隠していそうな使用人。村に赴任してきた美人女医と主人公は不信を募らせていく‥‥という設定だけど、10分ほどで話が分かってしまい、その通りにしかなっていかない。こんなときの登場人物たちは滑稽だったり、母親などは哀れだったり。いや、狂気のメロドラマって作るのも見るのも難しいものだ。

 

 

『私の名前はジュリア・ロス』ジョセフ・H・ルイス 1946年 アメリカ(2021/5/4シネマヴェーラ渋谷)

 衝撃を受けた「拳銃魔」や、がっかりした「夜よりも深い闇」よりも前の作品。うん、普通に面白かった。普通に面白い作品を作る監督は、普通にツマラナイ作品も作る。もしかしたら(当時の)ハリウッドはエリート意識の塊で“何だこんなに普通に面白く作れる奴がB級にもいるんだ。だったらA級で撮らせようか”みたいなことだったのかも。だったら“ふざけんな!”っていう骨太はB級にはいるだろう。その一人がジョセフ・H・ルイスだったのかも知れない。そう考えるとますますジョセフ・H・ルイスは好きになる。

 それにしても「拳銃魔」の突然の長回しの凄さとそこからの大胆な画面構成は他に無い魅力。決して「普通」なんかじゃない。あの時何かが舞い降りたんだろう。だってその後の「ビック・コンボ」は普通に面白い作品だったから。

 閃いたことに従って、作品の流れに何かが宿って‥‥それは監督一人のパワーではなく、スタッフ・キャスト・ロケ地・天候etcが偶然に重なって降りてきたことに従った勇気かも知れない。そして、そして、それをなぞらず目の前のことに従って映画を作ったのだとしたら‥‥やっぱりジョセフ・H・ルイスは優れて骨の太い監督だったのかも知れない。

 

『文化生活1週間』、『キートンの探偵額入門』バスター・キートン (2021/5/5ジャック&ベティ)

 尊敬するキートンの大好きな2本という鉄板を〈子どもの日〉に招待された。しかも妻と一緒に思い出の黄金町で。

 黄金町はかっては怪しい町、昼間っからふらふら酔っぱらいが歩いている、カメラを持って歩いたら直ぐ襲われる、薬の売人の巣窟、映画青年の我々にはそんな風評で溢れた町。長男が生まれたばかりの頃、何でも屋利他狩りの妻がアニメーションのセル画制作の下請けをやりたいと、黄金町に行くというので、慌てて一緒に行ってから45年ほど経つ。

 妻はそれが黄金町だとはまるで覚えておらず、旧い横浜の街並を珍しそうの面白そうに見物しながらジャック&ベティへ。

 今回は柳下美枝さんの即興ピアノ伴奏付きだから、妻は大喜び。終了後に柳下さんとも話、ついでにお土産(名古屋のお菓子)をもらって、とても良い〈子どもの日〉となった。

 主催の新野さんは〈喜劇映画研究会〉をほぼ一人で続けている。彼を通してサイレント・コメディ(だけではないが)を知った人も少なくはない。是非続けて欲しい。

 

 

『戦火のランナー』ビル・ギャラガー 2020年 米国

 (2021/5/12渋谷美学校)

 内戦激しいスーダンの貧村で8歳のグオル少年の両親は彼を村から逃がした。戦場で武装勢力から走って逃げる。

 「28人の家族が殺され、2度誘拐され奴隷になった。」というキャッチ・コピーがもの凄いドキュメンタリーに襟を正して見に行った。

 マラソンに卓越した才能を開花させて2012年のロンドン五輪出場資格を得たものの、世界で一番新しい国南スーダンにはオリンピック委員会が無く代表する国がないと言う現実。そこにIOCが個人参加選手として彼を認めたと言う、その話はニュースで知っていた。

 その後のレース途中で倒れたエピソードも含めて感動しないわけが無い題材‥‥なのに。

 過去の映像が圧倒的に少ない。アニメーションで再現するしか無かった。構成、テーマから言って、過去に割ける時間が限られているのは分かるが‥‥言葉以上の力が流れてこない。方法論として、これしかなかっただろうか?そんな残念な気分でしかなかった。

 

 

『田舎刑事 時よ止まれ』橋本信也 昭和52年 テレパック=ANB

 (2021/5/25シネマヴェーラ渋谷)

 (因にプロレスラーは橋本真也ですから)九州のうだつの上がらない平刑事渥美清だからと言って、無理に笑わせなくても、無理に笑わなくても良いだろうにと思ってしまうところがいやだ。喜劇人には名優が多い。味のある渋い演技を見せる人が少なくない。苦労人が多いからだろうか。もっとそこで勝負してくれたら、感激しただろう。客に愛想を尽かされたストリッパー市原悦子の真剣さは胸が痛い。徐々に見えてくる時効寸前の小林桂樹の晴れない心の奥はもどかしい。三人三様の戦争と戦後が一点で重なる。殺人という一点で。無理な笑い。無駄な笑いを捨てれば、もっと大きな戦後が見えただろう。哀しいお話に終わってしまったのはテレビだから?テレビのせいにしてはテレビが可哀想だ。

 

 

『エノケンの頑張り戦術』中川信夫 昭和14年 東宝

 (2021/5/25シネマヴェーラ渋谷)

 エノケン映画はどうも面白さが分からない。子どもの頃に夏休みの小学校の映画大会で何本かを見たときから、退屈なのだ。テンポが合わないのだ。どんどん退屈していく。前回見た「エノケンの新撰組」は15分で退出した。今回も似たような空気なのだが、中川信夫監督とあってはなんとか面白さに出会いたいと!

 防弾チョッキ製造会社の社員という設定がワクワクするが、防弾チョッキのお陰で凶悪犯の銃弾から助かった‥というだけ。おい!軍靴の足音は聞こえなかったのか?チャップリンを見ろ!

 ストーリーが先ずありきではなく、ギャグのアイディア先ずありきだ牢乎とは明白で、それを無理につなごうとするが‥おい!逆がぶっ飛んでいれば筋なんて後からついてくるぞ、キートンを見ろ!

 体を張ったギャグシーンは、どうしてエノケンは真顔になるのだ?しかも分かりやすいポジションでの長回しが説明的で笑わないとどんどんつまらなくなる。そうか喜劇は無理して笑っていかないと置いて行かれるものなのか?!

 相手役、脇役がつまらない。エノケンが周りを殺してしまうのか、周りがエノケンを立てようとし過ぎるのか?緊張感が欠如。ともかくもっとぶつかってくれい!

 最後に列車の窓から飛び降りては走って窓から入るという繰り返しはおもしろく、唸った。やっぱ画面の作り方大事だな。

 

 

『岡本忠成作品集〜チコタンぼくのおよめさん(昭和46年)〜サクラより愛をのせて(昭和51年)〜虹に向かって(昭和52年)〜注文の多い料理店(昭和56年)〜おこんじょうるり(昭和57年)』岡本忠成 株式界社エコー(2021/5/28イメージ・フォーラム)

 岡本アニメは現在主流のアニメと違って漫画だ。実写とは一線を画したアニメの凄さだ。その絵、その人形には大きな心情が込められて、息づいて映画になっていく。漫画アニメの表現の凄みを涙とともに教えてくれたのが「おこんじょうるり」だ。その他愛も無い画面に5回も出会い、5回も泣かされた。おこんが死んでしまう、その刹那の気持ちが30代から70代までおんなじだというのが素晴らしい。ストーリーではないのだ。その表情、動き、声に魂が宿っているのだ。

 

 

『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』森崎東 昭和54年 テレパック=ANB

 (2021/6/1シネマヴェーラ渋谷)

田舎とは人の少ない辺鄙な場所のことなのか、ふるさとという意味ならこの文字で良いのか、等と考えながら、タイトルが安易だなと結論。しかしこれは監督と脚本(早坂暁)のせいではない。二人のコラボはスリリングだ。テレビの枠でブルーフィルムを作る特攻になれなかった特攻男を描くと言う挑戦は拍手ものだと思った。聞けば西村晃は実際の特攻の生き残りだそうだ。その思いが重なっての演技がいつもより抑えた形で現れてか、怪奇ではなく重い。いや、考えてみれば戦争をひきずった男を演じる西村晃はいつも何かがのりうつったようで恐い。渥美清がもっと力をぬいて向かい合ったら、もっと火花が散っただろう。特攻になれずに生き残った青年。分かり切れない重さを体現してくれた西村晃に敬意を。

 

『名探偵アジャパー氏』佐伯幸三 昭和26年 新東宝

 (2021/6/1シネマヴェーラ渋谷)

 子どもの時なら、母にねだって絶対に見に行ってた。“アジャパー”は“ガチョーン”が出てくるまでは日本最大の笑いネタだった。しかも伴淳三郎、いやバンジュンに柳家金語楼、古川緑波、横山エンタツ、益田喜頓、トニー谷、清川虹子、フランキー堺と並べば、いないのはアチャコくらいの豪華絢爛さ、どこを切っても笑い金太郎あめ‥‥それが、それが‥‥

 苦痛!なんとか10分見たが苦痛。もう少しすればきっと面白くなる‥はずという妄想を信じたいのに苦痛。役者、その名前におんぶに抱っこの映画は旧くなるしか無かった。

 

 

『ジャンク・ヘッド』堀貴秀 令和3年 ギャガ(2021/6/2シネマ・ロサ)

 いやあ、凄いものを見てしまった。ほぼ一人で作り上げた近未来SF 人形アニメ。その緻密さと大きさで感動する。ストーリーはそれほどハラハラしない。どうにかなりそうな予感が流れている。立ちふさがる奴らがそれほど凄そうにも思わない。エンディングも、この続きがあるのね、無いと終われないよね。

 で、続編を見るかと言えば、多分見ない。これ1本見たことでお腹はいっぱいです。

 そんなこと(というのも失礼な話だが)より、堀監督が映画作りのノウハウをどこで手に入れたかってこと。聞けば学校で教わってはいない。独学。

 映像を教える学校は多い。この国に優れた教師がそれほどいるとは思えないが、大学・専門学校・各種学校とたくさんある。教養講座として映画の科目を置いている学校も多い。これは自分の子どもが“映画作りたいから映画の大学に行く”という我が子の将来を心配する親が“もし映画の道に行けなくても、何とかなるように”一般大学を薦めるからだ。

 撮影所が徒弟制度で映画人を育てるシステムが崩壊し、映画を学校で教えるシステムに代わり(?)、そこから「映画」に反発とか抵抗とか反逆とか〈アンチ〉の精神が薄れ、なんとも優等生映画が増えている。そこそこの映画を平均して作れるのだ。はみ出し映画はどこへ行ったのか。

 堀監督の映画はまともだ。はみ出していないし、破れていない。つまり、この程度(これも失礼な言葉になって申し訳ない)は学校で教わらなくても、映画を愛して画面をしっかりとデッサンして想像力が豊かであれば作れるのだ。

 堀監督には最大の敬意を表します。同時に、塚本晋也監督を目指して欲しい。「鉄男」を意識して欲しい。いや、「電柱小僧の冒険」(1988)をこそ見つめて欲しい。次へ向けて!

 

 

『ロボット修理人の愛AI』田中重光 令和3年 幻野プロダクション       

(2021/6/8映画美学校)

 続けて、自主劇場映画を見た。田中さんはたしか60歳を過ぎて、ずっと自主的に映画と関わっている夢追いじいさんだ。かれも映画を習ってはいない。見よう見まねで映画に夢を求めている。新しいか?そんなことは無い。面白いか?それほどでもない。しかし、映画にとって大切なものを持っている。

(何でもそうだけど)このご時世、口当たりの良いものが多過ぎる。‥‥固くて噛みづらいとか、苦みが利いてるとか、どんどん薄まっていく。親切なのだ。親切株式会社が横行しているのだ。苦労しないでスーッと入る。ってことは、スーッと出ていく。

 アレ、これ何だ?何でこうなるんだ?そういう自分なりの咀嚼の必要があると、自分だけの心の壁に打ち当たり、奥で眠っていた自分に再会したり、まるで受け付けられなくて悔しさ二乗になったり。映画と自分に、その時だけの出会いがあって、自分を教えてくれたり、自分以外の人間の存在を表してくれたり。口当たりの悪さとは〈自分の映画〉をひきずった厄介な作家が現れた、と言うことだ。

 口当たり悪く厄介な映画は、必ずそこにしか感じられない〈世界の見方〉に出会う。美味いか不味いかだけじゃあない。しばらく噛んでいると、その映画の食べ方が分かってくる。分かってくると“うん!さっきのは?”と〈今〉と〈さっき〉がダブる。そしてどんどん妄想に誘われ、どんどん目の前の映画と離れつつ〈映画〉は終わる。そこに映画と作家の厄介なアイディンティティがある。

 しかしだからと言って『ロボット修理人のAI(愛)』は意地悪な映画じゃない。心が愛おしいポエムに包まれているところが質が悪い。一見口当たりが良さそうなのだから。

 世界は「こちら」と「向こう」になんか分かれちゃいない。「今」と「むかし」は線で繋がって要るんじゃない。それらはことごとく循環しているんだ。と恥ずかしそうに語りかけてくる。ベースにあるのが愛で、AIは新たに顔をのぞかせつつある愛だと指差す。

 AIを修理する専門用語なんてどうでも良いさ。主人公の少年の生活している細かい部分なんて、分かんなくても良いよ。ましてや、大村崑が何者?何をしてる?なんて‥‥そんな人の影、そんな風景、あるでしょうよ。となってくる。

 そんな世界の大きさは少年が少女の病室を訪れた時に突然現れる。‥‥誰もいない病室、何も無い病室‥‥呆然として、切なくて心の大俯瞰シーンとして残る。実はここから映画は始まっているのだ。

 映画は嘘だ。その嘘に込めようとする魂はブレちゃあいない。

 

 

『田舎司祭の日記』ロベール・ブレッソン 1951年 フランス

 (2021/6/11シネマカリテ)

 尊敬する作家のひとりブレッソンの、その文体が形を表した初めての作品。素人俳優、表情の演技を作らない。物音や環境の音を大事に、じっと見つめる。

 遺作となった「ラルジャン」(1983)ほどにそのスタイルは徹底されず、「バルタザール何処へ行く」(1966)ほどにフレームの外に大きな世界を感じさせず、むしろ若々しくて微笑ましくて身近に感じられた。

 

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• 無駄話(その8) 鬼と乙女〜木村和代&柴田容子 6月13日      

 ハイロは「シネマ・フェスト」以外に上映会を続けている。今はフェストは年1回で、それ以外に年4回定期的に「フリースペース」を催している。

 フリースペースはもともとメンバー個々の企画コーナーを上映してする上映会の一部として、ハイロ本来の無審査無差別上映するコーナーだったが、メンバーの企画が頭打ちになり、いつしか独立した上映会になった。じゃあ、フェストとどう違うのか?そこが問われているのだが、明確な答え(形式の違い)は出ていない。

 そんな中で生まれたのが「鬼と乙女」だった。

 そりゃあ50年以上の歴史だから、これまでに様々な企画上映会はあった。その整理は現代表に託すとして、私の記憶に残っているひとつは「ハイロ十番勝負」だ。日本各地で自主映画製作と上映をするグループがいくつもあり、その中の10グループとハイロでセレクトした作品とを上映する一年間の企画で、大変な労力をかけた分、実りある企画だった。

 「鬼と乙女」は自主映画を詳しくない女性たちに映画の創作に眼を向けて欲しい、できたら作ってみて欲しいという思いで新興住宅地「南大沢」で試みた。南大沢は代表マエダ・シゲル氏のすむ町でもあるから、地域新興という意味合いも込めた2回目だ。

 60歳を過ぎてひたすら純粋に風景と家族たちを映像にしようとする柴田容子(乙女)。40歳半ばになりながら、ひたすら自分だけの映像世界を追求する木村和代(鬼)の作品上映と、私の勝手な作家作品論で、アミダで上映作品を決めて話すという試みと作品のユニークさで、私は興奮した。できればもう少し続けたいと思わせてくれる深みを感じている。

 如何せん、観客が1〜2名しか来ない。配信しても余り見てくれない。配信技術が難しい。そういう現在のハイロの縮図がここにもある。宣伝の下手さ加減とエネルギーの欠如加減は何とかならないものだろうかと言う壁が立ちふさがっている。

 しかし、だがしかし、何らかの企画は続けていきたい!そう思わせる企画なのだ。

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『月夜の傘』久松静児 昭和30年 日活(2021/6/22シネマヴェーラ渋谷)

 頑固な宇野重吉に従順な田中絹代と新婚の新珠三千代がいきいき生きていて良い。轟由起子と坪内美詠子と4人で共同ポンプの下で洗濯しながらの、まさに井戸端会議で話は展開する。見たことがあるような無いような庶民の風景が良い。善人上司の三島雅夫や、シングルファーザー伊藤雄之助の朴訥さが新鮮で良い。二木てるみはかわいいし(私と同い年!!)学生宍戸錠はエースよりカッコいいし、何よりも皆んなに希望が見えているのが良い。

 タイトルの「月夜の傘」は最後の最後に分かる。あっ!と思う。これが泣ける。壷井栄の原作はもちろん知らないが、必ず読みたくなる。姫田真佐久三のカメラ、木村威夫さんの美術とさりげなくて驚く。これは監督冥利に尽きるスタッフキャスト、そして原作の名コラボレーション。必見だぜ。

 

 

『女の中にいる他人』成瀬巳喜男 昭和41年 東宝

  (2021/6/22シネマヴェーラ渋谷)

 新珠三千代が恐ろしい!と、それだけ何度も聞いてきて、それが成瀬作品だからと、ワクワクしながら見て、うん確かに見たぞ。若林映子がこんなにセクシーだと知ったのがせめても良かったことか。

 

 

『いとみち』横浜聡子 令和3年 「いとみち」制作委員会

  (2021/6/25ユーロスペース)

 ポスター見て、「三味線弾くべ!」のキャッチ・コピーにひきずられ、ずっと見たいと思いつつ、初日に見てしまった。

 原作は漫画だそうで、嫁によると“なるようになるんであんまり‥‥”だそうだけど、実写で正解大正解。

 三味線を上手く引けない女の子がホントに下手に弾くシーンが力あり、最後に店の為に一生懸命ライブするそれだってそんなに上手くないけど真剣な弾き方が力をくれる。撮影中に猛特訓したのだことが充分伝わる。

 何より津軽弁が本物だから、半分くらいは意味が分からない。分からないけど気持ちのニュアンスが充分伝わる。三味線の師匠で祖母役が西川洋子(初代高橋竹山之最初の弟子だそうで)が既成の役者にはない味で要所を締めている。

 津軽弁のメイド喫茶も含めて、アニメだったら箸にも棒にもかからない嘘くさい話が、すべてリアリティを持って迫ってくる。

 チラシで見た嘘っぽい楽しさは何処にも無い。大体、主役の駒井蓮が映画の中で笑うのは宣伝用写真(これがチラシに)を撮る一回だけなのだ!(お前は高倉健か)横浜監督って知らなかったけど、大した人だ。

 それほど上手くない津軽三味線の演奏に、こんなにも感激した自分が嬉しかった。

 唯一残念なのは津軽弁がわかる観客が笑っている会話が、その面白さを理解できなかったこと。

 

 

『こころ』市川崑 昭和30年 日活(2021/6/29シネマヴェーラ渋谷)

 構図もカット割も市川崑ワールド。単に奇をてらっているのではなく、自然な感性だからだろう。毎回飽きない。私の中には無い感性なのだろう。‥‥すると、毎回うんざりする稲垣浩ワールドは私の中に自然にあるものなのかもしれない‥‥。

 先生森雅之が書生になるのには、無理がある。抵抗がある。市川崑ワールドから弾き出される。それにひきかえ、新珠三千代は奥さんでもお嬢様でも無理が無い。抵抗が無い。25歳。やっぱりきれいだ。年齢を超えても見せられるのはなんだ?北林谷栄は若い頃からおばあちゃんになり切る。笠智衆もか。気持ち、気持ちが成り切らせるのか。

 

 

『日本の青春』小林正樹 昭和43年 東京映画

  (2021/6/30シネマヴェーラ渋谷)

 骨が太い作品はうらやましい。正面切って世界に向かい合い、迷うこと無く主張する。小林正樹はいつでもそう思わせる。

 戦争をひきずる藤田まことがあれこれ苦しみ悩むことがぶれない。だから彼の耳を不自由にした元上官佐藤慶もブレずに悪びれない。主張する。

 その分若き黒沢年男と酒井和歌子がひ弱に見える。親父たちがブレてれば、きっと彼らはブレないのだ。それが映画のドラマだ。両世代がブレていることが多いのが現実ならば、戦争世代へのエールが詰まった映画だろう。

 やっぱり自分はブレる人々に共感するし、ブレない人々に憧れを持つ。

 

 

『風の視線』川頭義郎 昭和38年 松竹(2021/6/30シネマヴェーラ渋谷)

 松本清張原作でタイトルがかっこ良くて、これは是非見なくては!と‥‥

 松本清張にも駄作は、ある!しかしここまで駄作なのは珍しい!

 男3人と女二人の不倫物語。蚊帳の外だった佐田啓二の妻奈良岡朋子の一言で全てが崩れたのはある意味壮快。そして敏腕記者佐田啓二は自ら佐渡支局へ去って行く(いまどき島流しかよ?!)。これで反省の日々が訪れるかと思いきや、不倫相手の新珠三千代が佐渡にやってきて二人で暮らしましたとさって、勝手にやってくれ!!!

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 新生意気坐 16  令和 3 年1月〜3 月  ほしのあきら

 

(体がしんどく感じるようになった。弱ってきたのではない。むしろ体調は良くなっている。しんどい体だということに鈍感になっていたのが、ドンドン体に敏感になってきたのだと思う。そりゃそうだ!よく考えてみれば、1 本の映画を作るって簡単なことじゃない。結果は私に面白いかツマラナイか、そりゃ色々あるけれど、エネルギーの塊が90分とか2時間とか一方的に浴びせられてくるんだから、すんごい疲れて当然なのだ。心してかからねば。....と言いつつ、 どこかでそのエネルギー魂を躱す術を身につけている自分がいる。子どもの頃のように全身で受け止めていたら、そりゃあ“がんばれ!笛吹き童子”って心底叫べるし、ゴジラは恐いし、ラドンは可哀想だし、女中のハツはたまらなく好きになる。うん、そうだ。....数を抑えて、なんとか躱さないで、映画に向かいたいものだ。....5年目からは、私が生まれた昭和 23 年=1948年から42 年=1967年間での映画を中心に見ていこうか....と考えた前の作品群です。)

 

見たぞリスト

△ 「気まぐれ天使」、○「黄色い大地」、△「ある世の出来事」、

○「ボネット」 (1996)、○「山の焚火」、△「小間使い」、

△「ジャスト6.5闘いの証」(2020)、△ ハイロ・シネマ・フェスト、

△「ここに泉あり」○「砂の上の植物群」△「死者からの手紙」、

○「の・よう なもの」、×「生きている小平次」、○「犬は歌わない」(2021)、△「野獣たち のバラード」、△「ミスターミセスミスロンリー」、△「泣き蟲小僧」、×「秘密 の場所」、×「キー・ラーゴ」、

○「夜までドライブ」の19本と2日間から。

 

 

『気まぐれ天使』ヘンリー・コスター 1947 年 米

 (2021/1/12 シネマヴェー ラ渋谷)

 愛と笑いと幸福と....どうもこういう世界は得意になれない。現実との接点 が無くて、満たされない自分をあり得ない世界に泳がせるのがどうも苦手にな ってしまった。まさに“全身で向き合えない”自分が見えてきて、冷めていく。 損だなぁ。時代劇だと問題無くつながれるのに。子どもの頃はあまり見なかっ た....母親が好きではなかったんだろう....文字で知っていた天使(ケーリーグランド)と司教の妻(ロレッタ・ヤング)のスケートのシーンは楽しさ満点 でうっとりするけれど、他のシーンにまで滲みてはくれない。ごめんなさい。

 

 

『ある夜の出来事』フランク・キャプラ 1934 年 米

 (2020/01/12 シネマヴェ ーラ渋谷)

 アカデミーの主要5部門を独占した名画で、題名はよく知っていて、面白いという声も聞いていて、あんまり面白くなかった自分が少し嬉しい。

 こういうシャレたタッチでため息が出るような設定が戦争だとか恐慌だとかの生活の不安を一時忘れさせてくれる、所謂[ハリウッド映画]の典型になっていったんだろう。多くの国の人々も気持ちは同じで、ドコの国でもないおとぎの国の男女のやり取りに、束の間自分を投影させてくれたのだろう。

 そして映画館を出た人々には、元気が宿ったのだろうか?

 

 

『黄色い大地』陳凱歌 1984 年 中国(2021/1/10 国立映画アーカイヴ)

 中国って自分にとってミステリアスなのだ。お隣さんだし、日本文化の源流 だし、似てるところがたくさん見受けられても、変な日本語と長い袖に手を包 み込んだ服装と、奇妙な空手風のアクションと、子どもの頃に刷り込まれた中 国人の印象は強烈そのもの。部屋の中も調度品も食べ物も〈似てるが違う〉ことがこびりついて育った。欧米の映画で日本と中国がごちゃ混ぜになっているのを見て、そりゃ日本にも中国にも無礼だ!と腹立たしかった。

 まさに違う中国があった。中国は遠い国だった。黄土色の山々、如何にも乾き切った空、素晴らしいロケーションと撮影はことごとくに、でかい。貧しい村の少女。望んでもいない結婚を迫る因習。都から共産主義の宣伝の為に来た兵士に自分との違いを見る娘は、彼を追って都へ旅立つ。入れ違いに兵士は村へ再びやってきたのに。 それだけの映画だ。それなのにこのでかさは何だ。ここから中国映画はしばらく変わっていく。そのでかさは何だったんだ。

 

 

『山の焚火』フレディ・M・ムーラー 1985 年 スイス

 (2021/1/13 新文芸坐)

 ずっと見たかったけど。公開時に見損なってからは見るのが恐くて、見る機会は何度もあったのに、どこかで避けていた気がする。流れは思っていた通り だが、ディテールは他では見たことが無い、まさにこの映画だけの山の生活。 うらやましい。風景が少しも気取っていない。少しも大変さを感じさせない。 それでも山の上のへんぴな時間が当たり前のように横切っていく。ムーラーと いう人は心の奥底から〈山〉の人なんだろう。二度羨ましい。

 

 

『小間使い』エルンスト・リビッチ 1946 年 米

 (2021/1/19 シネマヴェーラ 渋谷)

 で、そう言う雄大な中国とスイスの風景が生んだ人生を見た後に、ハリウッドのシャレた映画を見ると、どこか居心地が悪いのだよ。田園風景の中の小間使いと亡命作家の恋の行方なんて..軽くて風に飛んでいきそうで困ってしまう。 上流社会へのアイロニーが効いている、せっかくのルビッチの遺作だというの に。可笑しさの奥には「黄色い大地」の少女や「山の焚火」の少年がいるはず なのだが....

 

 

『ここに泉あり』今井正 昭和 30 年 中央映画

 (2021/2/8 阿佐ケ谷ラピュタ)

 父はシベリア抑留から解放されて、日本に帰ってきて私が生まれて百日目で 死んだ。まるで、私をこの世に授ける為に帰ってきたようなものだ。父が務めていた講談社の野間省二社長は、自分の出身地群馬県の若者を特別に採用して育てていたという。戦争で死んだ社員の未亡人を採用したという。かなり情の深い人だったようだ。両国花火大会の夜は社員と家族に屋上を開放して花火見物もさせていた。最上階にある講堂で時折映画会を開いて社員と家族に無料で見せていたようだ。

 長くなったが、講談社の講堂で母と見た映画だ。役者の名前もほとんど分からず、ましてや独立プロの映画で監督が今井正だなんてまったく知らず、薄暗い階段をずっと昇っていった先に広々とした空間があり大勢の人がおり、誰かが難しいことを話して拍手で場内が暗くなる..いつもの映画館とはまた違った儀式に興奮した記憶がある。..その記憶しか無い。“群馬県でホントにあった話だよ”母はそう教えてくれた。母も父も群馬県出身で、私は夏・冬の休みには群馬県へ預けられていた。働く母に代わって祖母が私の面倒を見に東京へ来て いた。「群馬県、前橋、大胡」それは母にも私にも、とっても大事な言葉だった。

「ここに泉あり」と言う題名は、そんな記憶を蘇らせてきて、これは見なけれ ばいけない映画だと。ありがたいことだと。そして少し涙が出た。

 

 

『砂の上の植物群』中平康 昭和39年 日活(2021/2/12神保町シネマ)

 東京オリンピックの年、高校2年生の私はこのタイトルとポスターに危険な 香りを感じて、〈見たいけど見てはいけない映画〉とインプットしたようだ。自分の知っている大人たちではなく、自分の知っている東京の風景ではない匂いだ。そう、中学生のときの大島さんの「青春残酷物語」の、あの流れだ。

 何本かある見てはいけない映画。「青春残酷物語」も見ていない。当時の自分が壊れるようで見られない映画たち。このまま死ぬか見られなくなるかが適しているようにも思えるのだが、心残りは心に悪い。と、遂に見た。

 うん。やっぱり触れると危険な勝負の映画だ!ヨーシ何かやらなくちゃあかんぞ。そう思わせてくれた貴重な1本だった。

 

 

『死者からの手紙』コンスタンチン・ロブシャンスキー 1986 年

 ソヴィエト (2021/3/3 シネマヴェーラ渋谷)

 どうやら核戦争後のせかいらしい。科学者らしい老人と子どもたちがシェル ターの中で生活しているようだ。あくまで静かに静まり返ったシェルターの内部が、かもそうありなんと思える。老人が外へ出ると荒廃した風景が現れる。 歩きとともに見える風景たちもひっそりと佇んでいて、そうだろうなと納得させられる。

 見たことは無いけどナチュラル。悲惨さも不穏な予感の空気も無い。淡々とした戦後の風景は、第2時世界大戦後の日本のような混乱は無い。こうやって残された人々は生き、死に、時が動いていくんだろうという、ある種の〈無常 観〉に浸る。それだけで詩的な感動がある。これはレクイエムであり、人間讃歌だ。

 

 

『の・ようなもの』森田芳光 昭和56年 ニューズ。コーポレーション             

 

 (2021/3/5 国立映画アーカイヴ)

 森田はハイロの仲間だ。第1回の上映会から連続10回出品している。確か私より2歳ぐらい年下だったか。お互いに影響を受けながらよく話した。“ほしのさん、俺商業映画の監督になりたいんだけど、助監督はしたくない。8ミリ作って商業映画の監督になれるかな?”口を尖らせながらそんなことを言われ、 “良いんじゃない?がんばれよ”そんなことを言って森田はハイロから離れていった。飯田橋のギンレイ・ホールではたらきながら、そこの社長たちから資金を得て作ったのが「の・ようなもの」。

 大喜びして、皆んなに宣伝して、今は無い渋谷セントラルに妻と見に行った。 5円のおつりが森田らしいと嬉しかった。主演の伊藤克信の栃木なまりと垢抜けたソープ嬢秋吉久美子の取り合わせの妙が抜群で、設定も展開も新鮮で、心が躍った。

 今も色あせず新鮮に溢れる可笑しく哀しい世界。一人夜の下町を歩く伊藤克信は今でも色あせない青春を彷徨っていた。この浮遊感を40年後に見て良かった。羨ましいぞ森田。合掌。

 

 

『怪異談 生きている小平次』中川信夫 昭和 57 年 磯田事務所=  ATG(2020/3/13 国立映画センター)

 あの中川信夫の最後の作品!に退屈した。加藤泰もそうだが、プログラム・ ピクチャーで傑作を数多く残した職人監督たちは自分の企画になると、どうしてこうもつまらなくなるのか?逆に自分の企画で勝負してきた作家監督が頼まれ仕事で詰まらなくなることも少なくない。深作欣二然り。

 長いこと見たい!と思いつつ見られなかったものからの感動と失望とは、どちらにせよ心に残る。殺したと思った小平次が生きている、その根拠が説得力 無いのは確かに「怪異談」。結局小平次は死なずに生きていたという、つまり全てタイトル通りでは、余りにも悲しく、打ち拉がれたこの気持ちは、どこにも持っていく場所が無いまま。

 中川信夫監督、ご苦労様でした。

 

 

『野獣たちのバラード』ミハイル・ロンム 1965 年 ソヴィエト

 (2021/3/16 シネマヴェーラ渋谷)

 「野獣たち」はもちろんヒトラーとドイツ軍だと思わせるニュースフィルムの群れに、よくもまぁこれだけの映像が残っていて、部分を集めたものだと感心するが、はて「バラード」ってなんだ?と思い始めるのに時間はそうかからなかった。

 原題は「ありふれたファシズム」....貴方も簡単にファシストになれます。 ボーッとしてれば、あなたも私もほらファシズムの虜。確かに共産主義のプロパガンダだけれど、だから簡単に共産主義者にもなれるんだけれど、人の心は隙間だらけだと、思い知らされる。隙間だらけになってしまう理由は....深い ....けれど、結果楽に生きたいということか。これでもかこれでもかと繰り返される問いに答えは有って無いし、自らの主義に対する批判もしてしまったのだからのだから、疲れる映画だ

 

 

『ミスター・ミセス・ミスロンリー』神代辰巳 昭和55年

 市山パースル=ATG (2021/3/18 国立映画アーカイヴ)

 原田美枝子は好きではなかったから、見たいとは思わなかった。 いテンポ と長回し、唐突な歌謡曲の挿入と神代ワールドは楽しめるし、原田美枝子の脚 本も悪くはないけど、やっぱり軽い乗りでピカレスクを語っていくのははやり だったと思ってしまうし、70年代以降のシラケにのってはいても迫っては来ないことに苛立つ。お話のあざとさが鼻についてしまうのは何でだろうか。何があっても三人ともきっと危機感無しで生きていくんだろうと安心して見ていられるのは何でだろうか。人の生き死にと繫がらない血糊は血糊でしか無く、「昭和残侠伝 死んで貰います」の辛さとか懸命さとかのもがきは無い。その後のやくざ映画と同じように形骸化した突拍子もない生き方は、死に方には繫がらないのは虚しい。

 

 

『鶯』豊田四郎 昭和13年 東京発声(2021/3/21阿佐ケ谷ラピュタ)

 東北の田舎町の警察署が舞台になって、グランドホテル形式で人々の悲喜こもごもが静かに綴られていく。どこかで見たことのある風景だと思ったら、森 繁久彌の名作「警察日記」だ。原作も同じプロレタリア文学の伊藤永之介だっ た。曲馬団に娘を売った老婆とかモグリの産婆(杉村春子が良い!)とか今で はない設定が新鮮。なかでも鶯売りという、いかにも貧困が生み出した商売の娘の設定と展開が際立つ。

 基本的にはコメディだけど、その裏には貧困、育児放棄、人身売買、女性達の生きづらさ、など笑えない重たいエピソードがつながれていく。彼らとそれ を見守る我々は、哀しいから笑うしかないのか、哀しいけど生きていく為に笑うのか....人が抱える矛盾は今も昔もおんなじなんだ。

 地域社会とか人情とか、生の根本のところで大切なことが「自己責任」なん ていう、無責任この上無い言葉で消えつつある今だから、こういう人情が通じる人々と環境があると、信じたくなるラストだ。そう、鶯は鳴くのだ!

 

 

『泣蟲小僧』豊田四郎 昭和13年 東京発声(2021/3/21阿佐ケ谷ラピュタ)  母が再婚する。私の母は再婚しなかった。この子は一人っ子。私は男4人兄 弟。戦争の匂いのする時代。私は戦後。彼は母親に疎んじられて親類をたらい 回し。私は学校の休みに取り残されるので親類の家をウロウロ。接点があるようで結ばれない。感情が今ひとつ移入できないまま。  小津さんの「東京物語」に似ている節がある。周りの大人たちはそれぞれの事情を抱えながらも、それなりに生きていて彼に対する態度も形式的ではない。 私の周りの大人たちと、そこは共通している。誰が悪い訳ではないが、彼に取っては泣くしか無い境遇で、私はもっと鈍感に自分と自分の周りを受け売れていたのかも知れない。

 当時の大人は叔母さんが二人生きていて、会うと喜んでくれる。中が良かった従兄弟たちも、会うと笑い合って話し込んでくれる。彼も、きっとそんな大人になったのだと。

 

 

『秘密の場所』ニコラス・レイ 1950 年 米国

 (2021/3/23 シネマヴェーラ渋谷)

 殺人の容疑をかけられたシナリオ・ライターの愛と破局の物語。もう少し一 癖あるシナリオ・ライターに設定できなかったのかな?ボギーが主役である必 然が見当たらない。あの顔で中年なんだから、単なる主役キャラでなくて良い んじゃないか?それがどうしても拭えないまんま、お話をおっ変えているだけで終わった。ニコラス・レイの、あの悲痛な叫びが聞こえてこなかった。

 

 

『キ=・ラーゴ』ジョン・ヒューストン 1948 年 米国

 (2021/3/31 シネマヴェ ーラ渋谷)

「キー・ラーゴ」ってよく耳にした題名で期待したけど、土地の名前でしかないことに、ちょっとがっかり感。ホテルという密室でのギャングたちと復員 将校&戦友の未亡人&戦友の親という対立構 はスリリングだけど、話の展開が 鈍い。猛烈な台風の中でのクライマックスもチャチ。ギャング一味のせいで、 ホテルのオーナーである戦友の親が、大事にしている土地のインディアンたち をホテルの中に入れられないというなかなかの設定も大事なところでインディアンたちが絡んでこない。ギャングをやっつけて台風も去って(あんまり被害 もなく..)中に入れてもらえなかったインディアンたちがオーナーを鋭く睨みつけるも、彼らに被害は無く、自分たちでどこかに避難して難を逃れること考えなかったんかい!甘いぜ!が残る。でもまぁハリウッドだから強引なハッピ ー・エンドで、ハイおしまい。

 

 

『夜までドライブ』ラオール・ウォルシュ 1940 年 米国

 (2021/3/31 シネマヴ ェーラ渋谷)

 翌年ヘンな傑作「ハイ・シェラ」を生み出したウォルシュとボギーとアイダ・ ルビノ(「ハイ・シェラ」で大ファンに!)のコンビと知れば、見るっきゃ無いでしょ誕生日の翌日。

 弟とコンビのトラック運転手ボギーが、トラック買って独立するぞ、それを後押しするのが社長の良い奴。真面目に精進するボギーはトラック買うのみな らず、会社立ち上げちゃう。こんなに上手くいってどんな困難が待ち受けてる んだ?と思ったら、社長婦人のルビノがボギーに横恋慕。ボギーは「ハイ・シ ェラ」同様に見向きもしない。何でこんなセクシーで良い女に?といつも思うけど、そこは親友の社長の妻だし。でも、ココからが凄い。あくまで純粋な「ハ イ・シェラ」と違って、今日のルビノは失恋に狂う。ボギーを罠にはめて窮地に!怪演が心底恐いルビノ....そこはハリウッドだから哀れルビノは潰されて、 ボギーはめでたしめでたし。と分かっていても、いやぁルビノって恐い。また 会いたい。

 

                        *マンネリだぁ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

• 無駄話(その7)  ほしのあきら

 

 ハイロ・シネマ・フェスト第51回が2月6日〜7日アピア40であった。

 1970年10月1日(金)〜3日(日)に第1回のフェストをやった。2日はオールナイトだったりして、いやよくやった。お客さんもゾクゾク詰めかけて、それが間違い?のもとで2021年まで続いてしまったのかも。

 続いたもうひとつの理由は、面白いから。結果としてクソもあればミソもあるのは当たり前。何が出てくるか分からないミステリー。

 もっと言えば、商業映画と違って画面(スクリーン)がダイレクトに作者を映す鏡だ。

 映画は作りたい!と言う内側へ向かうエネルギーに支えられているんだけど、商業的な映画はこの他に、何かを売るということが作品のベースにある。座席売る、商品を売る、思想を売るetc

 それが作品の力になるから、個人が何を考えているかなどという、ある意味どうでも良いことの上に売るぞ!という力が乗る。乗ったら個人なんてひとたまりも無い力になる。これがすごい。

 非商業的な映画は、作りたい!という内的なエネルギーしかないから、作者の作りたい意識がどのくらい深いのかによって、その顔が様々だ。

 “私も作りたい”なら子どもの運動会の記録程度の深さ(浅さ)だ。“作って有名になりたい”とか“金持ちになりたい”なら少しは自分に近づく。“自分だけの世界を作りたい”となると‥そこからの深さは計り知れない。切りがない、終わりが無い、ゴールなんて見えやしない。

 外へ向けたエネルギーが無くなるほどに無目的になって、カメラの背後が見えてくる。ドンドン澄んだ鏡になって作者の姿が見える。

 映画として見える世界が百人百色になると良いな‥そう思ってハイロで映画を見ると、もっともっと作者が見えてくる。それは劇場では味わえない魅力だ。

 商業的映画でも作者は見える。見えないように見えないようにと工夫しながらも“自分だけの世界を作りたい”が“売らなきゃ”と闘う。それが大きな力になる。非商業的映画の“有名になりたい”程度ではないから外へのエネルギーと内へのエネルギーが拮抗するのだから。

 ハイロ的映画は劇場で見る映画とは全く違う面白さと言って良い。だけど、たぶん、劇場の作家映画のその先にハイロ的映画がある、つまり繫がっているのだろうと感じているけど、分からない。未だに分からない。

 分かるのはハイロで見る映画は、そこに人が見えること。感心することも、暖かくなることも、諸々ひっくるめて生きた血が動いているのが見えること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新生意気坐10月〜12月 ほしのあきら

 

(2017年の4月。退職した時に始めたんだから、もうすぐ4年だぜ。‥‥4年かぁまだ‥‥こんなに文章を続けるのがしんどいとは。たまには休んでも良いやと思ったら絶対書かなくなってしまうだろう。ここは意地で。ということは、何かを変えないとならない。とりあえず、1行でも良いから見たものは書こう。この頃△が多くなっている。実際○を少なくしている。△は書かないから後が楽。それを止める。‥‥こんなんでどうだろう。いつ映画館通いができなくなるかも知れんからね)

 

見たぞリスト

×「女軍医と偽狂人」、○「虹の谷」、◎「死霊魂」(2020)、○「憲兵と幽霊」、×「地平線がぎらっぎらっ」、、×「どぶろくの辰」、×「九十九本目の生娘」、○「覗かれた足」、◎「馬喰一代」、△「婚約指輪」、◎「異端の鳥」(2020)、○「大日本スリ集団」、△「絞首刑」×「サンダーロード」(2018)、△「パブリック図書館の奇跡」、△「人間魚雷回転」、○「街の灯」、○「驟雨」、△「東京の恋人」、△「霧の旗」、△「太陽の墓場」、○「夏の時間」(2021)、×「玄界灘は知っている」、◎「長屋紳士録」、○「人間狩り」、×××「大出世物語」の26本から21本を。

 

 

『女軍医と偽狂人』曲谷守平 昭和33年 新東宝

(2020/10/2シネマヴェーラ渋谷)

 いやぁ、このヒドさったら笑っちゃうしか無い。うーんと、それが受けて口コミでカルトになっていくってのは分かるけど、これは監督がダメだよ。監督が混乱してめちゃくちゃになるのは、「それでもつなげば映画になっちゃう」って言う映画の特産物で、それが常識を覆してくれて面白くなってしまうことは、ある。けど、これは哀しくなるほど想像力が欠けている。

 

 

『虹の谷』吉村廉、古賀成人 昭和30年 新理研=新東宝が32年に公開(2020/10/2シネマヴェーラ渋谷)

 「女軍医・・・」と同じ日に見たこの映画は実に力がこもっていた。新理研映画は教育映画の制作会社。文部省特選の教育映画を2年後に新東宝が配給したようだ。侮るな教育映画!当時の映画作りに対する情熱はむしろマイナーとなる人々にあるのかも知れない。

 新東宝で全国公開時の題名は「激怒する牡牛」‥‥意地悪の権化石黒達也のいじめにあった牝牛が怒って怪我をさせる。人に歯向かった牛は殺される掟から青年投資は逃れるという話だから、内容の説明そのものなんだが、まさに商売用で、まさに売れそうには無い。「虹の谷」の方がそこに込めたロマンが感じられる。虹の谷は彼らが住む山間の名称。そこに暮らす牛山師という材木を牛に運ばせる人々。今は無い人々の暮らしがリアルに描かれる。筋肉質の牛も凄いがそれを撮るスタッフも並ではない。何せ狭い山道で、本当に牛に木材を引かせて撮影しているのだから、その映像デッサン力に圧倒される。圧巻は鉄砲水とそこから逃れようとする主人公月田昌也(ほとんど知りませんでした)と愛する牝牛(可愛い左幸子さんはこの牛に負けて失恋すると言うとんでもない前ぶりが効いている)。

 迫る水と月田さんと牛がワンカットで描かれる!役者と制作クルーとが一心同体の画面‥‥どうやって撮ったんですか瀬川順一さん!!!‥‥瀬川さんは「奈緒ちゃん」シリーズのカメラマン。お世話になったのに、生前にそんな話を聞けなかった‥‥

 人為的な鉄砲水だが、一人と一頭が助かったところへ泣きながら詫びてくる犯人石黒。ちょっと簡単過ぎる展開だけど、良いのだ!あれだけ固唾をのんだシーンの後だから良いのだ!それよりも石黒さんの横暴を牛山師のリーダーとして「俺が何とかする」風の河津清三郎が結局何もしなかった(出来なかった)方が気になった。菅井一郎と薄田研二(悪役でないのが嬉しい!!)の老人ツーショットが何だか楽しくて、明るい左さんが笑って走るラストシーンの先に(いずれは無くなる空間ではあるけれど、しばらくは)みんなの豊かな時間が流れてくれることを祈ってしまった。

 

 

『地平線がぎらっぎらっ』土居通芳 昭和36年 新東宝
(2020/10/7シネマヴェーラ渋谷)

 その新東宝には大蔵貢というワンマン社長がいて、作る映画の内容を牛耳っているというのは中学生になって知った。小学生のくせに何回も見て興奮した「明治天皇と日露大戦争」の冒頭で映画に対して大演説している人だった。新東宝の業績が悪化して大蔵貢が退陣。自由に作ったピカレスク・ロマンとして当時話題になり、評論家諸氏が絶賛していたのを鮮明に覚えている。タイトルがゾクゾクするし、ジェリー藤尾主演にそそられて見たい!と思いつつも、練馬に引っ越して新東宝の上映館が分からなかったことから見逃していた。

 緊張してドキドキしてスクリーンに向かった‥‥けど、映画が進むに連れてその緩さと甘さにドンドン気持ちが離れていき、“地平線がギラギラするところ”も、そこに埋められている物もどうでもよかった。見逃していたから見たい!と言う気持ちは時にこうなる残酷さがある。まぁそれで当たり前なんだろう。はい!

 

 

『憲兵と幽霊』中川信夫 昭和33年 新東宝

(2020/10/7シネマヴェーラ渋谷)

 家のそばには(と言っても子どもの足では10分以上はかかるけど)2件の映画館があった。江戸川に向かって歩くと「音羽名画座」。ここは東映・松竹・大映・日活。反対方向の大塚方面に坂を上って行くと「大塚名画座」。ここは新東宝オンリー。

 子ども心に大塚名画座の映画は何となくイヤらしそうだったり恐そうだったり、何となく秘密めいていて家の者にはこっそり行くことが多かった。映画館も暗くて客も少なくトイレは恐い。二階にはほとんど客がいないのでよく探検した。たまに一人で若いお兄さんが座っていてびくっとすることもあった。二階は三つに分かれていて通路が入り組んでいて大小のポスターがびっしり貼られていて、そこでポーズを付けている絵の中の人物達はどこか垢抜けなくて、錦之介や橋蔵や歌右衛門とは違って哀愁が溢れていた。そんなポスターで覚えたのが天地茂。恐ろしそうでこの人の映画を自分は見てはいけないモノだと決めていた節がある。

 この映画のポスターは10歳の時に見た記憶がある。62年経って天地茂は恐くなくなり、あの中川信夫の作品だと知って、これは見なければ死ねないと‥‥話は大したことは無く展開する。他の役者だったらそこそこのエログロのおどろおどろしさだけだろうが、天地茂が故におどろおどろしさが倍増して悪人憲兵波島少尉から目を離せない。あの若いお兄さんは、こういう役者を輝かせる新東宝の薄暗い力を見抜いて一人静かに堪能していたんだろう。私がそんな暗いお兄さんにならなかったのは、子どもの時のあの決意が正しかった(?)のだ‥‥。

 

 

『どぶろくの辰』 稲垣浩 昭和37年 東宝

(2020/10/10国立映画アーカイヴ)

 どうしても稲垣浩の作風(タッチ)は肌に合わない。題材とかキャスティングとかの魅力(今回は両方)で見に行くんだけど、そのたんびにがっかりしてしまう。三船さんも淡島千景も、どの画面でもらしさで魅せているんだけど、画面に緊張感を感じられない‥その切り替わりがスカッとしない‥次の画面が納得できない‥‥の繰り返しで高まらないまま話だけが過ぎていく。いつも通りのVS稲垣だから、腹など立たないしガッカリもしない。この平気さがむしろ腹立たしいっちゃ腹立たしい。なんなんだ稲垣節!また見るぜ。

 

 

『九十九本目の生娘』曲谷守平 昭和34年 新東宝

(2020/010/12シネマヴェーラ渋谷)

 新東宝映画の特集を見ると、その独壇場のタイトル群に引きつけを起こしそうだ。そして、それが「禁断の大塚名画座」の一因だったと気づく。

 曰く「窓から飛び出せ」(ちいせぇアクション映画?)「汚れた肉体聖女」(お前は何者?)「怒号する巨弾」(でっかい弾が怒って叫ぶのね?)「背広さんスカートさん」(サラリーマンとOLの話?)「胎動期私たちは天使じゃない」(看護婦さんの反抗期?)「女の防波堤」(えーと女漁師ではない。男から女を守る!自分で男から守る?)‥‥時間と金と心に余裕があれば笑って見られるだろう。

 その中の一本がこれ!疑問符が三つ付いたタイトル。99人目なら分かるけど99本目ってなんや???

 で、見ました。映画に自分が思い込める谷間を求めて、スタイルの美に酔いたがっている自分の器がもっと深く広くなればなぁ‥入り込めませんでした。少しも美しいと感じる瞬間が見えませんでした。

 で、曲谷守平監督2本見ちゃいました。また会いましょう曲谷守平監督。

 

 

『覗かれた足』阿部豊 昭和26年 新東宝

(2020/10/12シネマヴェーラ渋谷)

 でも私が映画を見る習慣の無かった頃には、こんなシャレたミステリーだとかアラカンの鞍馬天狗とか天才子役美空ひばりとかやっぱり他とは一線を引いた映画を作っていたんですね。「九十九本目・・・」の後に見たラッキーもあるんだろうけど、白人で巴里で仏語が流れてくれば、まんまでしょう。右に出る者はいない悪役新藤英太郎が頑固でとぼけた靴職人になり切っているのも感情移入できる。一度お会いして教えを頂いた三村明さんのカメラもさすが。ただ、ただ心残りは「美しい足」が画面から納得できないこと。映像としての説得力がまるで無い。やっぱり100万ドルの足の新人を募集するぐらいはしなくちゃ。

 

 

『馬喰一代』木村恵吾 昭和26年 大映

(2020/10/13国立映画アーカイヴ)

 アーカイヴは三船さんの生誕100年記念特集。今年は数カ所で三船特集が組まれることになっていたがコロナ禍で延期になったり中止になったり。アーカイヴはさすが国立だけあって休館の早かったこと。ちょうど三船特集の前で休館。やっとの再開が三船敏郎特集だから、それ!って感じで客が詰めかけてほぼチケットは完売状態。人ごとながらうれしい。

 これも小生3歳時の作品。「隠し砦の三悪人」(昭和33年)から三船大ファンだったけど、三船さんの演技は一本調子で、でもそれでいけるキャラクターだとばかり思っていた。しかし当然のこと、それは会社や監督が望んだことで、(多分)縛られる以前の米太郎には力強さの他に哀しさがある、苦しさがある、悩ましさがある。だから(ストーリなんか分かっているのに)涙が止まらなくなる。今日マチ子の気持ちが救いになる。敵役志村喬がホントに憎くなる。改めて俳優三船を好きになった。

(志村喬との共演も黒澤映画とはひと味違うものがある。今度はそこを追いかけたい)

 

 

『婚約指輪』木下恵介 昭和22年 松竹&田中絹代プロ

(2020/10/16国立映画アーカイヴ)

 木下恵介&田中絹代&三船敏郎という組み合わせも新鮮。絹代さんと三船さんの不倫関係とか寝たきりの夫宇野重吉の苦悩とか重い題材なんだけど、絹代さんの切実な愛くるしさとまっすぐで颯爽とした三船さんがはっきりしていて気持ちがいい。二人の思いが動く熱海駅は私の知っている電車の駅と変わらずに懐かしく、こうありたいと思っていただろう日本人の姿が羨ましい。二人の為に自殺を決意した(だろう)やけになった重吉さんが海へ入る‥それを助ける為に三船さんが泳ぐ‥岸から気をもむ絹代さんのシーンは秀逸だ。感動とまではいかなかったが、誰も幸せにはならないけれど誰も不幸にならないさわやかな後味が残る。

 

 

『大日本スリ集団』福田純 昭和44年 東宝

(2020/11/6シネマヴェーラ渋谷)

 刑事小林桂樹とスリ三木のり平が友だちで福田純が監督なら軽い映画だと。でも藤本義一が原作ならそこそこだろうと。思った通りの面白い映画だった。ケチをつけるところなんか無いけど、人に話したくなる[映画]でも無かった。

 

 

『絞死刑』大島渚 昭和43年 創造社+ATG

(2020/11/11シネマヴェーラ渋谷)

 11月11日という1のゾロ目の日にATGがスタートさせた1千万映画(当時の制作費平均は三千万くらいか)の第1弾を見る!

 絞死刑と言う言葉は一般的ではない。絞首刑ならある。絞首刑になったのに死ななかった(死ねなかった)死刑囚R(在日朝鮮人)を再び私刑にする為にあたふたする刑務官・検事・牧師の顛末を通して、死刑制度の在り方と在日朝鮮人問題を浮かび上がらせていくという、大島さんらしい映画。テーマと題材が余りにもストレートで問題を観客に突きつけていく大島ワールドは懐かしい。こんな映画今はドコにも無い。やっぱり映画は個人のものかも知れないし、作家の映画と言うのは、ここまで胸を張って破瓜とは違うことを主張するべきなのだろうと、改めて思い知らされた。

 映画としてはそんなに面白くはないけれど、それは感性と理性の複合体だから、余り問題ではない。突きつけられたと言うことが問題であり、“さぁどうする星野君”という、いつもの大島さんの目が笑ってない笑顔が頭から離れなくなる。渡辺文雄が動き回りしゃべり続ける姿態がうるさくてシュールでユーモアを醸し出しているのがテーマの重さを受け止めやすくして感心。検察事務次官役の若き松田政男さんが、可愛い。ご本人が語っていたことより嵌まっていて、しばらく気づかなかった。えっ?あの人もしかして松田さん?!が大収穫。

 

 

『人間魚雷回転』松林宗恵 昭和30年 新東宝

(2020/11/18シネマヴェーラ渋谷)

 結末が分かっている話は難しい。特撮シーンがちゃちだけど、そんなことは問題無い。この世界に入り込めれば。「回転」は漫画で見て知っていた。死ぬ為に訓練していた若者達がいたことは子どもながらにショックだった。だけど、零戦の「特攻隊」はに比べると水中の「回転」は地味な気がしていた。

 出陣前の彼らの最後の夜も映画からは、それなりにしか伝わらない。学生上がりの将校岡田英二は、町に繰り出して酒と女に浸る皆んなとは一線を隠し、二等兵で後に残る加藤嘉と殿山泰治と交流を深めるが、このオジさん二人が良いので死ぬことがしみじみと感じられる。世界に入り込めたのは救いだった。

 

 

『街の灯』森崎東 昭和49年 松竹

(2020/11/23シネマヴェーラ渋谷)

 チンピラ堺正章の如何にもの演技が鼻につく。アイドル栗田ひとみが華が無い。でも、脇役陣が良い。アイドルに手をつけたがる森繁はピッタリ。チンピラとアイドルの逃避行で出会う整形外科医フランキーと整形に失敗した研ナオコのコンビはシュール。何と言っても詐欺も銀行強盗もやっちゃう笠智衆は最高にとんでもなく、「東京物語」の面影皆無で“御前様”はどこへ行ったのか!そして哀れ。

 アイドルは連れ戻され、笠智衆は刑務所へ。貧しい実家に戻っても居場所の無い境正章は、高架線の上で唄って踊りだす。子どもたちが不思議そうに楽しそうに見つめる中、踊り続ける。ここで堺正章の彼にしか出せない良さが溢れ出す。どうしようもない社会への怒り。精一杯生きようとするもがき。じたばたするしかないごちゃ混ぜの感情が胸を打つ。

 松竹を解雇される原因になった訳の分からない傑作を見た。

 

 

『驟雨』成瀬巳喜男 昭和31年 東宝

(2020/12/4国立映画アーカイヴ)

  岸田国士の戯曲は以前に芝居で見ていた。友人のテレビディレクターが“芝居は現実感に似せた空間で、どこか絵空事。それを魅せる側と見る側の暗黙の了解が納得できない”と言っていた。その暗黙の了解が想像力を膨らませるのが芝居の楽しさなのだろうが、[雨粒]と[ぬかるみ]、この二点のリアリズムが映画の凄さと面白さを物語っていた。[ぬかるみ]と言えば黒澤ワールドで「七人の侍」や「野良犬」や「生きる」で映画を激しく、よどみなく語っているが、この映画の「ぬかるみ」は生活、夫婦の生活をしみじみと語ってくれている。結婚4年目でお互いに慣れてきて、佐野周二も原節子もとくに未来に大した希望がないことを感じ始めた時期。若い香川京子や隣人の小林桂樹と根岸明美のモダンな夫婦像と自分たちを見比べては、喧嘩をしてしまう。前向きな解決など無いのに。そんな彼らの周りは雨が降れば[ぬかるみ]なのだ。中国大陸で[ぬかるみ]なぞ関係なく進む日本軍を謳歌する軍歌もあったが、[ぬかるみ]は日常をちょっと超えた現実として如何にも映像的なのだ。

 ラストは晴れた日曜日、子どもが遊んでいた紙風船が庭に飛び込んできて、「紙風船突き」に興じる夫婦で結ばれる。「ぬかるみ」は続かない。必ず晴れればしっかりとした大地に戻る。これは本当に嬉しかったなぁと8歳の自分を思い出す。

 このラストは戯曲とは違う。題名を思い出せないが別の戯曲のラストだ。もっとエロチックなイメージがあったが、その前の晩の喧嘩の途中でお腹が空いた原節子がお茶漬けをかき込むシーンの唐突なかわいらしさが伏線になっている。水木洋子の脚本と成瀬巳喜男の観察の力だろう。

 

 

『東京の恋人』千葉泰樹 昭和27年 東宝

(2020/12/8国立映画アーカイヴ)

 原節子は写真ではそんなに好きな顔ではないが、絶対他の女性と区別がつく。そして映画で動き出すと、様々な表情を見せ続けて飽きさせることがない。表情と言っても顔の変化ではなく動きの躍動感が大きい。時に動いたり、静かだったり、激しかったり、どっしりしていたり、まさに風林火山女優だ。

 そんなきらめきはコメディが最も映えるのかも知れないと思える作品。銀座の似顔絵書きの原節子と三人の靴磨き少年(一人は小泉博で、私にはどうしても違和感が!)とディスプレイ用の偽ダイヤを作る三船さんが巻き込まれる騒動が楽しい。節子さん達の友人で夜の商売の杉葉子が一人悲しみを背負って登場するが、特別に暗い過去がある訳でもなく、ともかくみんな良い人。良い人に囲まれた三船さんも恐いところがまるで無い良い人。最後まで安心してみてしまうが‥‥私が4歳‥‥逆にこの時代はその反対の世の中だったんだろうと、思ってしまう。

 

 

『霧の旗』山田洋次 昭和40年 松竹大船

(2020/12/14神保町シネマ)

 無実の罪で死んだ兄の汚名を晴らす為に田舎の事務員倍賞千恵子が、自分を相手にしなかった日本一の弁護士滝沢修を追い込んでいくという恐ろしい話。

破綻はない。手堅い。松本清張の原作で橋本忍が脚本で、喜劇じゃないけど山田洋次でつまらない訳が無い。復讐に燃える女が倍賞千恵子と言うのは新鮮でなかなかだった。久し振りで新珠三千代が夜の女の顔でなく、引込まれた。だが感動に届かなかったのは、どこにも誰にも救いが無かったからだろうか。「水清ければ不魚住」だろうか、どこかに穴があればいつでも入り込めるシチュエーションなのに、残念だった。

 

 

『太陽の墓場』大島渚 昭和35年 松竹大船

(2020/12/14神保町シネマ)

 当時小学生の章君は、「松竹ヌーベルヴァーグ」と言う言葉のエキセントリックな響きや桑野みゆき、炎加代子たちの危うい姿態にドキドキして、見たいけど見られない。見てはいけない世界。と結界を張っていた。高校生になって「日本の夜と霧」を見て、この映画が上映禁止になってそれに闘っているという大島さんの言葉を聞き、その後に縁があって大島さんと妹さんから創造社の苦難を聞いて「忍者武芸長」の方法論を知って‥‥そんなことごとが今の私の中にあります。

 大島さん、「松竹ヌーベルヴァーグ」第三弾見ました。底辺に生きる人間の生命力、当時の釜ヶ崎での決死の撮影、「映画」に対するアンチ・テーゼ

しっかり受け止めました。間に合いました。

 

 

『玄界灘は知っている』キム・ギヨン 1961年 韓国

(2020/12/18シネマヴェーラ渋谷)

 「韓国映画史上の怪物」とか「スコセッシが熱烈支持」「魔性伸びを追求する独自の作風」とかシネマヴェーラがやたらに煽って。年末にアンコール特集組んだりするから、前回(退屈したくせに)見逃したこの傑作を見ちゃったよ。それだけです。

 

 

『長屋紳士録』小津安二郎 昭和22年 松竹大船

(2020/12/22神保町シネマ)

 これは良かった!貧しい日本に多かった所謂「長屋もの」で、古き東京言葉で生活する登場人物達は落語で聞いてきたあの人達。先の「小津調」は既に垣間見られて、むしろスタイルよりも内容が浮かび上がってテンポ晴朗。

 私も目撃したことがある「戦災孤児」を年相応役の笠智衆が拾ってくる。誰も預かれる環境ではないのに、いやいや預かった一人暮らしの中年飯田蝶子が子どもに“意地悪じゃないんだよ”と言いながら意地悪してしまう日常が身につまされる。おばあさんじゃなく色っぽい女友達の吉川満子とのやりとりもクールなのにお互いを分かっている言葉の数々が深い。

 子どもの育った静岡に身寄りを捜しにいく下りで、昼飯に作ってきたおむすびを、いやな顔をしながらも子どもに自分の分も渡す飯田蝶子は、良い人全開。

 子どもを置き去りにした父親が、実ははぐれた坊やを必死に捜していたという下りは心からホッとする展開。残された飯田蝶子が一人泣きするに至っては、あー生きているって哀しくて楽しくて明日も続くんだなぁと心が晴れていた。心が晴れたら泣いていた。

 

 

『人間狩り』松尾昭典 昭和37年 日活

(2020/12/27ラピュタ阿佐ケ谷)

 時効寸前の殺人犯と執念で彼を捜す刑事の物語。殺人犯が虫も殺さない雰囲気たっぷりの大坂四郎だが、これが良い。息子も娘も血がつながっていないが仲良く暮らしている。娘の中原早苗は工場で働きながら夜は女給をしている。義理の父が殺人犯だと分かってからの二人の葛藤がハラハラする。刑事は長門裕之。恋人の渡辺美佐子が生活感の無い長門に人間らしい生活を迫る。この二人の関係が変わらずに言い合うのが少々しつこいが、まぁそりゃしょうがない。で、明日で時効と言う夕方に長門は大坂を突き止めてしまうから厄介だ。

 ここからの人間のもつれ合いが面白い。心がくんずほくれつして時間が動いていく。モノクロームの光と影がカッコいい日活ノワール。夜のプラットフォームでの逮捕は哀しい。ホントに悪い奴は小沢栄太郎で、こいつは案の定生き延びる。苦々しい長門は、やっぱっり自分を変えずに生きていく。小沢がのほほんと生きてる限りは。大坂も捕まって良かったんだろうし、娘も息子もそれなりに生きていくんだろう。美佐子さん、しょうがないよね。刑事だもん。

 

 

『大出世物語』阿部豊 昭和36年 日活

(2020/12/27ラピュタ阿佐ケ谷)

 年収めに選んだ1本。くず屋(当時はバタ屋と言っていたけど)小沢昭一が会社社長になってしまうと言う、その顛末にサスペンスを感じてヨシ!見るぞ。

 株が流出して倒産の危機の浜村純社長を救おうと‥‥ポンと大金を出す小沢さん。簡単!何のドキドキも無い。何だ最初からコツコツ金を貯めていたと言う設定かい!しかも病弱な浜村社長はその男意気に感じて社長の座を譲るって。何だそれ簡単過ぎるぜ!少しぐらい苦労とか辛さとか挫折とか‥何か伏線は無いんかい!

 小沢の娘が可愛い吉永小百合、これが少しも屈折してない。相手が社長の息子で浜田光雄、これも少しも悪びれない。“オーイ学校遅れるぞ”の友だちの声がショッチュー飛ぶのに二人とも気にしない。人目を憚るとか無いのかい!13歳の星野君は女の子と話も出来ずに屈折してたのに‥二人の立場が逆転してもまるで無関係な日活青春コンビに、ただただ脱帽。小沢に惚れてるインチキ商売の渡辺美佐子も辛さの影が見えない。脚本に深みが無さ過ぎ&監督に工夫が無さ過ぎ。

 どこで泣いてどこで笑えば幸福になれるのか!まるで途方に暮れた年の瀬の阿佐ケ谷午後6時05分でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新生意気坐6月〜9月 ほしのあきら

 

(さすがに少ない映画館行き。コロナ禍の影響ではなく、他にやるべきこと、やらねばならぬこととの兼ね合いで、見るのを断念したことが多いということ。しかも振り返ってみれば、その特集で一番見たいと思って予定した日がダメになったことが多い。今度見ようと諦める日々。そうやって見損なうことを数十年繰り返してきて、まただ‥‥とも思うが、それが時の妙だとも思う。時間はどうやっても足りないものだ。かといって、のべつ幕無し時間がない訳ではない。言えるのは、疲れた時に家で昼寝をする時間は必要だと言うこと。)

 

見たぞリスト

×「断崖」、△「珍品堂主人」、×「江戸っ子繁盛記」、○「好人好日」、×「命美わし」、△「武蔵野夫人」、○「死刑執行人もまた死す」、△「潜水艦撃沈す」、△「第七の十字架」、○「生きるべきか死ぬべきか」、△「第17捕虜収容所」、×「水戸黄門」、△「荒野の決闘」、△「ふんどし医者」、△「私は金正男を殺してない」(2020)、○「サンライズ」、○「八百万石に挑む男」、△「霊魂の不滅」、○「暗黒街」、○「いかにして私はエヴァ・ラスに恋をしたか」(2016)、×「日曜日の人びと」(2020)、△「アントーマン」(2018)、○「ビタースウィート」(2019)、「ヴィネガー・バス」(2018)の24本から

 

 

『好人好日』渋谷実 昭和36年 松竹

(2020/07/17シネマヴェーラ渋谷)

 うーんと、○は付けたけど、特に‥‥見なくても良かったようだ。

 冒頭で岩下志麻が大仏さんと話すところが面白かったかな。数学の先生が文化勲章をもらった実話で当時話題になって新聞で知っていたし、笠智衆はとぼけた味がいいし、岩下志麻はきれいだし、問題無いし、三木のり平・北林谷栄・高峰峰子・菅井一郎みんなそれぞれの領分をきちんとこなしているし、‥‥そうか!中学生の私はそんな映画は見なくても良い!そう思ったのだろう。見たら楽しい気分になるけど、残らない。そろそろ好みで映画を選ぶ頭ができてきた頃‥‥それは正しかったのだ。

 

 

『死刑執行人もまた死す』フリッツ・ラング 1943年 アメリカ(2020/08/02シネマヴェーラ渋谷)

 ナチスのナンバー2ハインドリッヒ暗殺事件は聞いたことがある。その暗殺に至る経過を追うサスペンスだと思ったら、ハインドリッヒはすぐに暗殺されてしまい拍子抜け。当然無差別に報復を始めるナチスが恐いが、暗殺者を匿まいナチスに勇気を持って立ち向かう友人や、死を覚悟して捕らえられていく老人(これがカッコいい)、恐れる人など暗殺の後の人間模様の細かい部分が積み重なってサスペンスを生んでいく。最後はハッピーエンドだと思いつつもハラハラしてしまうのは細部をきちんと描こうとする反戦の本気度だろう。だって、まだ戦争の最中なんだから。ラングはドイツから亡命した身なんだから。真っ只中でこんな映画作ってしまう人々の本気度がある意味恐い。戦後に作られた「第17捕虜収容所」の何と生ぬるいことか!

 しかしサスペンスは愛のドラマだと改めて思わせてくれた。

 

 

『生きるべきか死ぬべきか』エルンスト・ルビッチ 1942年 アメリカ(2020/08/11シネマヴェーラ渋谷)

 欧米でナチスを題材にした映画は驚くほど多い。そして必ず見てみようと思わせるほどに残虐だったり悲惨だったり笑いだったりと豊富だ。戦時中に作られるナチス映画ってのは、プロパガンダの意味合いもあったのだろうが、ナチスはドラマの宝庫だ。ナチスを絡ませれば映画は迫真力や説得力が増す。ヒトラーって凄い奴だなぁと改めて感心する。

 しかし、まさかハムレットを演し物にする劇団の浮気話でヒトラー映画ができるとは、ルビッチの思いつき力は大したものだ。と期待していなかっただけに嬉しかった。相変わらず、扉の向こうとこちらのやり取りとフレームの出入りでこんなにハラハラしながら笑えるアイディアにも脱帽ルビッチ。

 映画にとって画面の出入りや扉の開け閉めは振り返る動作と合わせて日常茶飯事の光景で、サスペンスを盛り上げる重要なファクターだが、リビッチ魔術はこれを全部笑いにしてしまう。果たしてサスペンスと笑いは正反対ではなく、裏表であり紙一重であり、サスペンスの皮をちょっと突くと笑いが飛び出すのだと、教えてくれる薮睨みルビッチはチョッと真似できない世界に住んでいる。

 またまた見損なったロッセリーニの「ドイツ零年」と正反対にある映画。

 

 

『水戸黄門』 松田定次 昭和35年 東映

  (2020/8/19ラピュタ阿佐ケ谷)

 お正月映画だったかお盆映画だったか‥母の兄弟の家を転々としている前橋で見た。なんせ中村錦之助、大川橋蔵、東千代之助、大友柳太郎、そして御大片岡千恵蔵に市川右太衛門と主演級のスターが勢揃いする豪華映画!そう言う作品は決まって松田定次監督。いつもは忠臣蔵だったり清水次郎長だけど、今回は渋い月形竜之介の黄門様だ!助さん角さんがカッコいいんだ!とワクワクしながら従兄弟の正チャンと見に行った小学6年生。

 結構退屈してしまった。それぞれスターの見せ場を考えながら作っていて、見せ場に時間がかかり、肝心なリズムを壊してしまう。そう言う意味ではごひいきスターが誰であれ、みんなそれぞれにカッコいい見せ場があり、それなりに満足するのだから、太鼓持ち監督としてはさすがに上手いのだろう。スターがカッコ良ければそれで良い!うん一理ある。それで二度三度見ることはある。私もそうなのだ。退屈なんて大した問題じゃないのだ。ありがとう松田監督。

 

 

『サンライズ』F・W・ムルナウ 1927年 アメリカ

(2020/09/11シネマヴェーラ渋谷)

 ムルナウは若い頃、そう『フィルム・メイキング』を書いている頃に「最後の人」を見て、その新鮮さに面食らった。40数年経って再開したムルナウって試みの人だ。大胆不敵な人だ。哀しさと美しさを知っている人だ。一筋縄ではいかない人だ。真似が難しい人だ。金字塔の人だ。残念ながらムルナウ映画に斬り込む言葉が、無い。

 

 

『八百万石に挑む男』中川信夫 昭和36年 東映

  (2020/9/15ラピュタ阿佐ケ谷)

 えっ?中川信夫ってあの中川信夫?市川右太衛門の映画?あの天一坊の話?という興味、それだけで足を運ぶ。

 大捕り物の演し物なのに、気がつけば殺陣は一切無い。軍師伊賀之亮右太衛門がチャンバラで見せない!ッその寸前で場面は終わる。天一坊賀津雄は死ぬ予感だけ。しかも天一坊は偽物に非ず‥という新解釈は脚本橋本忍。よく知ってる話だけに退屈覚悟だったのが、息もつかせず95分ノンストップ会話劇。しかもあのオーバーな右太衛門節も抑えめ控えめで言葉のリアリティが倍増計画。脚本と監督の狙いを心得ている右太衛門。初めてカッコいいと思った59年後のわたし。右太衛門さん、ごめんなさい。私、貴方の芸をあんまり好きではなかったんですが、やっぱり自分のやりたいことを求めていたんですね。営業とは別の役者魂、探していたんですね。会えて良かったですね。

 「水戸黄門」の翌年にこんな映画があったのだ!!大東映は時々こんな「芸術」を認める太っ腹の会社だったのだ。日活がんばれ!?ってもう無いか‥‥

 

 

『暗黒街』 ジョセフ・フォン・スタンバーグ 1927年 米(2020/09/18シネマヴェーラ渋谷)

 ノワールの歴史って古いんだ。無声映画のこの辺りが走りなのかも知れない。愛する女と友情で結ばれた男との狭間で悩む主人公が泣かせる。裏切られたと思った友の真意を知った主人公がラストに死を決断した瞬間にグッとくる。

 自分が自分の為でなく、周囲との関係で自分を表現するというモチーフは東映任侠映画の「義理と人情」を秤にかけて義路を重んじて死へ向かう健さんや鶴田に通じるロマンで憧れる世界。憧れはするが現実にはできやしない。女と友の為に身を引くことさえできやしないと思う。思うから現実のぐたぐた感を忘れ去って映画館を出た直後から歩き方がヒーローになってしまう。家でモニターの前から立ち上がっても‥‥こうはならないんだよなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

「Mのページ」ハイロ代表マエダ・シゲル氏、新生意気座への投稿参加のはじまりです。

 

 

 

                            マエダ・シゲル

 

『サンライズ』フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ 

 1927年(昭和2年)/アメリカ/95分

(2020/9/7 シネマベーラ渋谷)

 

「ニーチェの馬」はタル・ベーラですよと囁きたくなるよりも、「アラン・タネール」の名を目にした衝撃、実に何年振りだろう。おぉー我青春の「メシドール」「光年の彼方」「ジョナスは2000年に二十五歳になる」は無理でも、ベンダースの「リスボン物語」はあったはずだから、「白い町で」はあるかもしれないと、「暗い艀」を口ずさみながら衝動と期待に胸はずませ愛車のジオスで近所のレンタル屋を二軒梯子したが、無かった。「ノーマンズランド」と歯軋りしながら、だいたいケン・ラッセルですら「トミー」と「アルタード・ステイツ」が置いてあれば良い方で、あぁ~しょんぼりである。実に購入しようとしても売ってすらいない。70年、80年の作家監督の作品が見られないジレンマ。映画は20世紀が誇る文化じゃないのか!!古典にもっと敬意を。小説本の出版みたく。DVDもレンタルも文化を背負ってくにはまだ遠いということだろうか、2020年。でもセシル・B・デミルの「男性と女性」はあったので借りたぞい。

 

そう、で、話しはムルナウ。今回初めてフリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウの「サンライズ」見ました。

F・Wなんてもう略して言えません。「時計仕掛けのオレンジ」のアレックス君のようにフリードリッヒ・ヴァンと呼ぶ、そんな気持ちです。ムルナウと言えば「ノスフェラトゥ」、ラングと言えば「メトロポリス」ダメではないが勉強不足、偏ったSF青年でした。「死刑執行人はまた死す」の凄さよ。

 

都会から女が村に戻って来る。女は村の男を誘惑する。男は誘惑されて女に夢中になってしまう。都会に未練のある女は家や土地を売って二人で都会で暮らそうとそそのかす。男には妻がいた。女は妻を「殺してしまえ」と囁く。ボートに乗せて事故に見せかければわかりはしないと。男はその誘惑にのせられてしまう。

女が男の住む家の格子の窓外から口笛を吹いて男を誘い出す。人気のない湖畔の水辺の密会、抱擁。

誘惑された夫を心配する家族とその妻。光と表情その出で立ちと動きと捉えるそのショットの一つ一つがいちいち美しい。映像で見せる表情の機微の見事さ。映像の演出という言葉があるとすれば正にこの映画のことだ。

 

「殺そう」魔が差した男は妻をボートに乗ってデートにいこうと誘い出す。喜ぶ妻。こんなかわいい服を持っていたのかと我々見ている者を驚かす、そのかわいいこと。喜ぶ妻のいじらしさが一層その後に待ち受ける「殺しの恐怖」を盛り上げる、さすがです。ボートの上、男が妻を殺しにかかる。湖上、妻に逃げ場はない。恐怖の妻。襲い掛かる男。あっ「ノスフェラトゥだ、ムルナウだ」と思うが早いか、男は良心の呵責に自分のしている業に恐れる。必死でボートを漕いで岸につく。妻は必死だ。逃げる。男は追う。

湖畔の丘を妻が逃げてくるロングショット、カメラは逃げる妻を追ってやって来る路面電車に飛び乗る。次のショット同様のロングショット男が追いかけてくる、妻を乗せた路面電車に、えっ、男も飛び乗る。

ドキドキのツーショットがまた美しい。

 

逼迫した複雑な思いのこの二人を乗せた路面電車が都会へ都会へと走っていく。情景のまた美しいこと。

映像に見蕩れて話しは内に内に染み込むように入ってくる幸福。

 

路面電車が止まる。妻は逃げる。男は追う。許しのドラマ。自分を殺そうとした男、自分の主人。許されるはずもない。しかし許される瞬間がある。トポル監督の「ミッション」。ロバート・デ・ニーロが許されるその瞬間の子供たちと背負った食器が音を立てて落ちるシーン。パゾリーニ監督の「奇跡の丘」の許しの切り替えしショット。「イントレランス」のキリストの娼婦マリアを助け許すシーン。その瞬間を描く捉えることは映画の持つひとつの美だ、感動だ。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウはそこを描く。許し許された後も描く。幸福に満ちた時間の数々を楽しく積み重ねる。都会も遊園地も村もセットであったと聞いた。聞いてから見ても魅入ってしまっているから、そう感じさせない、それは正に空間時間の中では総てがドキュメントと思いこませる映画の持つ凄さ。車を渋滞させてのキスシーン、名場面です。どけとばかりに鳴るクラクション、笑いのツボも忘れてません。

 

幸福な帰り道。ボートの上。嵐が襲う。妻が湖に落ちて生死の分からぬ行方不明。村人も総出で捜索に。絶望茫然自失の男。それを見て都会の女は指図通りに男が妻を殺したと勘違いする。そろりそろりと自宅から村の様子を探り見に行くシーンもまた舌を巻くうまさ。

 

都会の女が馬車に揺られて村を去ってゆくショットその女の表情の見事さ。

1928年にしてこの映画の見事さに圧倒されまくり。2020年、映画は進化しのか退化したのか?

 

「最後の人」もいいですよ(ほしの談)

「最後の人」は20年前位に見ました。救いのないエンディングを見ていたたまれない怖い気持ちになりました。後日、救いのあるエンディングを見てほっとしました。2バージョンあるんですね。記憶に残る作品です。

 

「戦艦ポチョムキン」が1925年。モンタージュ理論を教科書扱いしないで、映画として見たとき、出会ったとき違う感動と凄さがあるような胸騒ぎがしてならない。

「サンライズ」の次の年1928年にカール・テホ・ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」、ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」ウォルトディズニーの「蒸気船ウィリー」と日本では「浪人街 美しき獲物」と映画表現が世界各地で作られ多様に拡がっていくのをイメージすると立ち眩みがする。

この映画のめまい、ときめき、興奮を大切に我が糧にしたいと思います。

 

  

『イントレランス』デイビッド・ワーク・グリフィス 

 1916年(大正5年)167分/アメリカ /デジタル 

  (2020/9/12・14シネマベーラ渋谷)

 

「イントレランス」はデジタル化されて良かったと思いました。

ディテールがハッキリ見えることで画面から目が離せなくなる。

デジタル化されても良いものは良い。

 バビロンのシークエンスは『圧巻』でした。モブシーンのその奥行きまでクッキリと見えたこと。

グリフィスは画面の隅々、奥行きに目の届く監督だったのだと気付きました。

 現代のシークエンスには今日の映画のエッセンスが詰まっていて身体が震えました。

ヒッチコックもイーストウッドも…。

 

 アップの多様では言葉が足りないと思います。大胆とも違うと思います。アップの一つ一つの表情が違います。アクションつなぎで入るアップではありませんでした。気持ちでポンと入ってくるのです。「俺のアップの数」とか「つながらなければアップを入れろ」といったアップとは全然違います。もちろん、E・S・ポーターの「大列車強盗」のラストのアップとも違います。グリフィスの気持ちで入ってくるアップです。アップの呼吸が画面から伝わってくる生々しい驚き。それがグリフィスのアップです。

現代編のスラム街の親分になってしまう娘が青年のお隣さんの娘だった時(かな)のアップそしてアップのときめきの2ショット、バビロン編の山の娘のアップの入り方の感情のタイミング、現代編の可愛い娘が部屋で絶望した時カメラに向かって寄って来る時のアップその暗闇の使い方、どのアップも違う表情を持つ素晴らしい繊細さ。

 

現代編、ドア越しに青年と娘がキスするシーンのときめき。キスいいなぁって映画から「伝わる感触」を久々に手応えとして感じました。

 

バビロンの女戦士が良いですね。彼女が死ぬシーンで鳩が切ないです!(ほしの談)

バビロンの山の娘(女戦士)良いですね。萌えますね。同感です。

コンスタンス・タルマッジちゃん。

 

「イントレランス」は第一次世界大戦最中に作られていたんですね。

それであのラスト、納得。…というか大丈夫だったんでしょうか戦争真っ只中で。

そしてグリフィスはエドウィン・S・ポーターの弟子でもあったんですね。

「鷲の巣より救われて」に役者としてデビューしたそうです。

 

聖書編のパリサイ人の一人にエリッヒ・フォン・シュトロハイムがいたそうです。役者としても好きです。どこに出ていたか分かりませんでしたが「イントレランス」の現場を体験したら「グリード」や「愚かなる妻」の完全主義者の監督というのも納得してしまいます。将来監督の野心があっただけに強烈だったんでしょうね。きっと。

 

 1895年の「パリ列車の到着」リュミエールから1916年「イントレランス」まで11年。

「ドリーの冒険」1908年のグリフィス監督デビューから「イントレランス」まで8年。

 11年の映画の表現の速度に驚かされます。そして今125年。やっぱり映画は凄いし面白い。

まだまだこれからだ、映画!! 

 

 

 

 

 

新生意気坐1月〜5月 ほしのあきら

 

(前回体調維持の為に見る本数を減らし、「やはり電車に乗って人ごみを歩くのは疲れる。テレビやDVDで見るか本数を減らすかという判断だ。やはり行ける限りは映画館に行きたい。」と書いたけど、その直後にコロナの影響で映画館が窮地に立たされ、ギリギリ迄出かけたけど、次々と休館。やむなく映画を見ることを休止したことが、3ヶ月毎に書くというルーティーンを休んだ。その間にしばらく寝かせていた『映像解体技術』の直しを始めたことは始めたが、それは言い訳のように思い始めた。

 きっかけは岐阜にすむ太田雄介君というかっての教え子。前回「今度は『傷だらけの天使』を見たい。」と書いた文章を読んで神代辰巳のDVDを送ってくれたこと。当初は“いや俺はDVDで映画は‥‥”と思っていたが、これは甘えだ。映画館が近くに無い人がDVDで映画を楽しむのは当たり前のことだ。家で映画を見るのは集中するのを邪魔する要素がいっぱいだけれど、それを克服して集中できないのか?俺は体が動かなくなったら映画を作らないし見ないのか?そう言うことを考えさせてくれた。ありがたい。太田君にはこの新生意気坐を始めようと思った時に一緒に書かないかと誘った3人の中の一人だ。DVDをどこかで敬遠しているのは狭過ぎることを気づかせてくれたことだけでも、誘った私の勘は当たっていたと思うと、余計に嬉しい。

 で、DVDを借りに行って驚いたのは、その量‥今更?と呆れられたが‥この量から選ぶなんて、凄いエネルギーで、映画館がチョイスしてくれた中から月に10本選ぶ方がどれだけ楽か!!ということで、選ぶ訓練をしながら、近い将来積極的にレンタル屋さんに足を運ぼうと、つまりはまたまた言い訳です。)

 

見たぞリスト

△「おかえり寅さん」(新作)、△「河内山宗俊」、×「男の盃」(藤純子デビュー作)、○「七夜待」(2008)、◎「娘は戦場で生まれた」(新作)、○「あん」(2015)、○「直撃地獄拳 大逆転」、△「やさぐれ姉御伝 総括リンチ」、△「手をつなぐ子等」、×「ねじ式映画 私は女優?」、○「裸の町」、△「私刑」、×「真夜中の顔」、△「ジョジョ・ラヴィット」(新作)、△「つづり方兄弟」、△「王様と私」、○「レイジング・ブル」、×「キング・オブ・コメディ」、○「仕事=重さ×距離」、△「不安な質問」、○「ディープ・スイーツ・シニア」(2017年山崎幹夫)、◎「1917」(新作)、×「ポルシェヴィキの国におけるウエスト氏の異常な冒険」、◎「炎628」、△「野獣の青春」、×「探偵寿務所23 くたばれ悪党ども」、○「怒りのキューバ」、△「縄張はもらった」、×「流血の抗争」、○「戦火を越えて」、◎「タシケントはパンの町」、○「処刑の丘」、△「巨人伝」、△「傷だらけの天使 殺人者に怒りの霊光を」、○「傷だらけの天使 草原に黒い十字架を」、△「三大怪獣グルメ」(新作)、○「グエムル 漢江の怪物」(2006)

△「昭和残侠客伝 血染の唐獅子」の38本から

 

 

『直撃地獄拳 大逆転』石井輝男 昭和49年 

  東映東京 (2020/1/22ラピュタ阿佐ケ谷)

 当時こんなおバカな映画があったとはまるで記憶にございません。多分真面目で実験映画に傾倒していた私は無視して生活していたのだろう。何しろバカなギャグのてんこ盛り映画。石井さんアンタは小学生か?というレベルから、なるほど石井輝男ワールドだ!という理不尽且つ非常識なものまで。当時ブームだった空手映画群からは一線を隠した、他が真似できない(真似しようとは思わない)映画。

 前作「突撃!地獄拳」がヒットしての続編だと言う。これは2本とも見なけりゃ気が済まない。しかしこんな訳の分からない映画を連発して、それがそれなりに受けたという、東映ファンはレベルが高い。東映社長は映画のエンターテイメントとは何かを分かっていたのか。松竹や日活だったら直ぐホサれたかも知れない時代だ。

 映画はこれで良い。現実の時間軸や常識的な考えに即した流れなんか無視していい。余りにも監督自身が石井ワールドに浸ってしまうとついていけないことも多々ある(この後見た「やさぐれ姉御伝 総括リンチ」は、さらに石井流ケレン味街道まっしぐらで、時間のバランスも何もどうでもよくて、見せたい空間だけがたっぷり。まさに途中で置いてかれた!)。マキノ雅弘監督もよくあるが、この悪ノリだって、お前どこまでついてくるんだ?という観客への挑戦だ。だって会社が赦したんだから。またまた石井監督にむち打たれた1本!

 

 

『ねじ式映画 私は女優?』岩佐寿弥 昭和44年 

  シネマ・ネサンス(2020/01/31 fiaf)

 つくづく映画とは出会いだと思う。難しい映画、問題作と言われる映画に積極的に会いに行く時期、スカッとする映画に会いたい時期、胸がキュンとしたい時期‥‥そんな移り気で会ったり会わなかったり、気づいたり気づかなかったり‥‥

 21歳の私が見たら、その自由な時・空間の流れ、現実と虚構の往復感に諸手を上げたろう。それは黒木和夫監督の「飛べない沈黙」でも感じたことだ。今となっては陳腐。(質はまったく異なるが小学生の私が大泣きして原作本まで買ってもらった「つづり方兄弟」も再び見ることなどせずに、そっと胸にしまっておけば良かった映画だった。)

 新しいものは古くなる‥まさに古くさく青の時代を懐かしむことしか出来なかった。吉田日出子ってこんなにツマラナイ女優だったろうか?自由劇場ってこんなに窮屈だったろうか?懐古的に見ても見なければ良かった‥見ないで見たい!だけをしまっておけば良かった‥なんとも時の悲しさ、時の厳しさを味わいながらの帰路だった。

 

 

『裸の町』久松静児 昭和32年 

  東京映画(2020/02/04シネマヴェーラ渋谷)

 日本ノワールかと思いきや、能天気で駄目男池辺良の売れないレコード屋に集ってくるチンピラ金貸し森繁久彌と大物金貸し志村喬の丁々発止のやり取りが、時に笑えて時に泣けて、その積み重ねで主人公夫婦の人となりが浮かび上がってくるという、言って見れば少数の群像劇。

 池辺の女房淡島千景(このところごひいき!!)、森繁の女房杉村春子(どんな役でも嵌まる!)、志村の女房浪花千栄子(出てくると画面を独り占め!)、女性たち三人三様の人生が可笑しく、哀しく、しみじみと滲みてくる。亭主に三つ指ついて、出しゃばらずに耐えるという当時の女性の立場を見てきたからだろうか、それぞれの奥に見え隠れする芯の強さに手を叩きながら、男の愚かさに切なくなる。ラストは森繁、志村、男二人の泥仕合の情けなさに笑いながら、ダメ池辺とけなげな淡島女房の幸せを祈りながら、いや、杉村女房はこんなことでめげない!しぶとく子どもを守っていく!と信じさせてくれた。

 

 

『レイジング・ブル』マーティン・スコセッシ 1980年 

  アメリカ(2020/02/26 早稲田松竹)

 これは、特に語るべき発見があった訳ではない。感動しました。

 

 

『仕事=重さ×距離』松川八州雄 昭和46年 

  日本リクルートセンター(2020/02/26 fiaf)

 松川さんを初めて知ったのは「飛べない沈黙」のシナリオライターとしてだった。職人肌で様々な注文仕事をこなしながら自主制作も少なくない。タイミングが合わず、直接お会いしないまま亡くなられたが、縁があればご一緒に仕事をしていたかもしれない。

 これは三菱長崎造船所の労働者達の姿を描く短編PR映画だが、説明的な描写は一切避け、鉄鋼の重さと動く距離をアップ中心の画面で見せながら、音楽は用いずに岸田今日子の詩的なナレーションと労働者の声で構成するユニークな映像詩。ドキュメンタリーは試みと切り開きの時代だった。人物がいかにも日本の未来を託された労働者諸君で、その当時に見ていたら物足りなかったかもしれない。何か新しいものを得たかと言えば無いかもしれない。しかし今見ると新鮮な清々しさを感じる。

 私の年齢のせいだけではなく、衒いも躊躇も無く真摯に映像に向かっている姿が隅々から感じられることが、あれ?こういう感じ懐かしいなぁと思ってしまう。今こんなに画面の中に作者が見える映画ってあるか?登場人物がカメラのこちらのスタッフに素直に向き合っている映画ってあるか?うーんと‥‥

 

 

『炎628』エレム・クリモフ 1985年 

  ソヴィエト(2020/03/10シネマヴェーラ渋谷)

  いやあ、凄いものを見てしまった‥‥‥‥!

 パルチザンに憧れる貧農の少年が、遭遇するナチスによる大虐殺。

 あどけなさの残った少年の顔が、ラストでまるで老人のように見えて(思えて)しまう恐怖。

 余計な感情表現を避け、根幹のキャラクターを忠実に追い続けるストイックな眼差し。

 そして住民達を押し込めた納屋に、機関銃を乱射し火を放つ。猫を抱きながら見物するナチスのボス。寝返って助かろうとして火のまわった納屋の中で住民達のリンチに合う男。ぐうぜんそとにいてしょうねん。彼らの心の在処がえぐり出されるようなクライマックス。

 怒りとか悲しみとか惨めとか、そんな感傷は吹き飛ぶような徹底したリアリズムがある。その根底にはナチスに対する心底からの怒りがあるのだろう。

 題名の628とはドイツ軍に踏みにじられた村の数だそうだ。心のふるさとの数だ。とんでもないものを見てしまった‥‥‥‥!

 

 

『怒りのキューバ』ミハイル・カラトーゾフ 1964年 

  キューバ&ソヴィエト(2020/03/17シネマヴェーラ渋谷)

 しかし私は、ソ連映画にかなり偏見を持っていた。国策映画、国の検閲を通った企画、長い、理屈っぽい(?)etc‥それが何を思ったかソ連映画特集に行き、あの「炎628」を見てしまったのだ。

 題名は知っていた。しかしまるで見ることなど考えもしなかった。「革命前夜のキューバの民衆の怒りの声」と言葉で言い切れる映画だろうと。

 それが半信半疑で足を運び‥またまた、とんでもないものを見てしまったのだ‥‥

 しかもこの怒りと悲しみが、東京オリンピックの裏側‥いや隣にあったとは、高校生の浮かれた私には想像もできなかった。

確かに国策映画だ。分かっていてもじっと注視させ続ける力に満ちている。それぞれのエピソードの異なったキャラクターの興味もあるが、何と言ってもそのカメラ・ワークがすごい。基本的に長回し(モンタージュではない)。それが“オイ!どこ迄1カットで粘るねん!”的長回しの連続なのだ。

 役者の演技と光と影と、そしてカメラの凄みが混在する長回しは緊張の極みだ(最近ではアラン・タネールの「ニーチェの馬」に圧倒された)。ここでは“そんなとこ迄ワンカットで行くんかい!”的長廻しなのだ。“並のクレーン技術じゃないぜ!”的であり、“どうやって撮ってるんだぁ”的長廻しなのだ。“相米慎二流の長回しの原点はここかい”的で“オーソン・ウエルズが見たら腰抜かして喜ぶだろうなぁ”的で“ここにスタッフと制作費がかかってるんだろうなぁ”と考える隙間も無いくらいの密度で、そしてと言うか、だからと言うか、抑圧された民衆が立ち上がるラストは他に比べるものが無いほどの圧巻で、“共産主義万歳!、革命万歳!”的感動なのだ。

 

 

『戦火を越えて』レゾ・チヘイーゼ 1965年 

  ジョージア(2020/03/24シネマヴェーラ渋谷)

 もう、ソヴィエト&ジョージア特集に行くのが楽しくて、ドキドキしている自分がいる。(「怒りのキューバ」のミハイル・カラトーゾフはジョージア出身だそうです。)

 第1時世界大戦。従軍中の息子が怪我をしたと知らせを受けた農夫の父が戦場に駆けつけるが息子に会えずに、そのまま軍隊に入って息子を捜すと言うあり得ないロード・ムービー。父親のキャラが抜群で、あり得るぞと思わせる説得力。手に汗握るとはまさにこのこと。なんせ鉄砲担いでベルリンに迄行ってしまうんだから。

 ベルリンの廃墟で階上にいる味方の援護の最中に上から息子の声が聞こえる。そんなあり得ないことに感動してしまうのも映画の綱渡り。二人が喜び手を取り合って帰郷すれば良いものを、映画は残酷を喜ぶもので、最後の最後に悲劇が待っている。こっちは感情移入しているから清々しく泣いてしまう。一人故郷に帰る父には待っている妻や隣人がいる。なんて言うのだろう‥と考えてしまってもさわやかに席を立つ。考えてみれば映画って残酷だよな。

 

 

『タシケントはパンの町』シュフラト・アッパーソフ 1968年 

  ソヴィエト(2020/03/24シネマヴェーラ渋谷)

 今日は二本見て二本とも○なんて誕生日プレゼントみたいだ(誕生日は1週間後だけど)。しかも予想とはまるで違い、しかも予想を遥かに超えて、しかも今回の特集中最も嬉しい映画。これは是非見て欲しい。

 原作は児童文学だそうだ。貧しく食べるものが無い一家。誰もが笑って豊かな生活をしている町タシケントに行けば小麦が豊富でパンがたくさんある。ひもじい思いの母と弟の為に遥かに遠くにあると言うタシケントに行く決意をする少年。親友の少年を誘って二人で汽車に密航する。これから二人の痛快な冒険の旅が始まる。‥‥と思いきや親友はすぐに体調を崩して死んでしまう!それでも彼には困難が待ち受けている。その度に彼を助けてくれる人物が現れるが、皆捕まったり殺されたり!例えば少し年上の少女すら‥殺されてしまうのだから、タシケント幻想は遠くかすんでいく。

 童話って生活の苦しさや痛ましさを寓話にして発散させた、心の底からの〈表現〉だから、もともと残酷なものが多い。それにしても、だ。社会主義革命の後の内戦が生んだ混乱と悲惨さと言うリアルが少年とその周りに吹き荒れるのだから、どこにも夢は無い。生きることに懸命にもがく人々の姿から目が離せない。タシケントなんて無いんじゃないか。タシケントだってきっと現実の悲惨な町でしかないのだろう。そう言う思いが膨らんでくる。

 しかし、童話のほとんどはラストに救いがある。やっとタシケントに着いた少年と、旅の途中から一緒になった孤児の少年。そこは確かに盛んにものが売買され、小麦は山のようにある(現在のベラルーシか?)。しかし、そこで二人は奴隷として売買されるハメに!ここまで嘘のような、あり得ないような展開だらけなのだが、それがあり得ると思わせる説得力で綴られていく。多分原作の力と、この世界の中と現実との接点を探す監督達の信念なのだろう。

 そして少年は優しい老人によって救われる。老人の農家で小作人として働く。老人と小作人達の言葉は字幕にならない。おそらくタシケントはロシア語圏内ではないのだろう。時が経ち、少年は自分の収穫量を持って故郷へ帰りたいと老人に頼むが、老人は怒る。食い下がる少年に味方する小作のボスも老人に鞭で打たれる。言葉がわからないまま。そこで小作人達が決起して、少年は荷車いっぱいの小麦と食料を詰んで故郷へ帰ることが出来た。‥‥だが、荒れ果てた故郷。恐る恐る我が家の扉を開けると、弟は餓死している‥‥これはこの映画最大の悲惨さだ。母は‥‥虫の息で少年を待っていたが、めでたしめでたしにはならない死が待っていた。 

 それでも童話は現実には叶えられない希望で締めくくられる。ラストカット少年は向こうの方から小麦の種を蒔きながら歩いてくる。もちろん無表情だ。これは席を立てない希望なのだ。重い誕生日プレゼント。

 

 

『処刑の丘』ラリーサ・シェピチコ 1976年 

  ソヴィエト(2020/03/31シネマヴェーラ渋谷)

 誕生日翌日。「炎628」のエレム・クリモフ監督の奥さんで41歳で亡くなったという女性監督の、39歳の時の傑作が待っていてくれた。

 ドイツ軍から逃げるパルチザン。近くの農場へ食料を調達に行くがそこでドイツ軍に遭遇。隠れてやり過ごそうとするも風邪気味の一人が咳をしてしまい、農民共々逮捕される。出たしから厳しい描写の連続だ。

 現実的に生き残ろうとする男と、自決して祖国を守ろうという男、彼らを利用して揺さぶりをかけるドイツの協力者となった審問官。無駄な説明を極力排除しながら、三人のキャラクターが絡み合う展開は予想を超えて緊迫感を運ぶ。

 しかし、二人と一緒に逮捕され処刑を待つ農民達の表情の無い表情が、徐々に清算なラストが待っているのだろうと思わずにはいられない。

 感情を極力抑えて見せる。クロース・アップによる過剰な描写を極力避ける。これは紛れも無くモンタージュが果たした効果だ。何かを見つめる男の同じ画面の間にスープの画面を挿入すると、2回目の男の表情に食欲が見出せると言う、あの有名な実験が露わにした、画面の自在力が雄弁にラストへ導いていく。つまり農民の描写が話を運んでいくのだ。そして処刑される丘の上へ、彼らは歩いて行くしか無い。

 次の作品のロケハン中の交通事故だったそうだ。生涯4本の映画しか残せなかった。学校ではタルコフスキーと同級生で、みんなのアイドルだったと言う監督の、確かな力量を感じさせてもらった。

 

 

『傷だらけの天使 草原に黒い十字架を』神代辰巳 

  1974年日本テレビ(2020/05/11自宅)

 当時はまるでテレビを見なかった。結婚して、映画作りと上映会を続けていけるかどうか不安を感じながら、けっこう必死だった気がする。

 思えば、映画人達たち作る環境が激変していく中で、テレビ映画に活路を求めて、必死だっただろう。そして作る喜びを噛みしめていただろうことが隅々から感じられる。同時に見た「〜殺人者に怒りの霊光を」は工藤栄一監督作だが、その猥雑なスピード感は東映のそれだし、夜の強烈なバックライトの中を歩く俯瞰のロングショットは、うん工藤栄一だった。

 手持ちの長回し撮影、随所にクラシックや歌謡曲の神代ワールドに徹底したこの作品に映画とかテレビとかの区別は無く、自分の求める世界しか見ていないわがままさがある。特に話のカギを握る少女が殺された画面は、数秒のロングショットだけ。当時のテレビは14インチとか18インチとか。小さい画面だから映画のような遠景は無しとか、クロース・アップもルーズに周りを入れ込むとか、無音を10秒以上続けないとか、自分たちで画面作りに制約を課していたテレビ局には不満だったろうし、視聴者にも不評だったろう。(だって、見えないんだもん)つまり視聴率は上がらなかったんだろうと確信する「普通に作った映画」だ。

 ショーケンと水谷豊のコンビは絶品だし、多分かれらのアドリブと飄々とした画面の流れがマッチした弱いアウトロー讃歌な空気。薄幸に見えてしたたかな、でも憎めない少女の死が切なくて、裸は出てこなくても涙は出てきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

流行病が世界を席巻している中、新生意気座、飛び入り参加の巻です。

佐藤孝太郎氏。2018年12月スナミマコト氏以来の参加です。

(どんどんご参加ください)

 

 

 

 

 

佐藤考太郎

 

 

 

2018年、9月のある日ー

 

僕は神保町シアターで『散歩する霊柩車』という映画を見るところでした。

何故それを見ようと決めたのか思い出せません。ふらりと劇場に入ってしまうタイプです。

そこでほしのさんに会いました。よく劇場で会います。

映画の後にラドリオという喫茶店へ行き、「映画フツーだったね」「はい」とか「今度映画美学校に入ります」「へー」とか話していました。

するといつの間にか「新生意気坐に何か書いて」ということに。

僕は文章ベタで自信がなかったのですが、この時コーヒーをご馳走になったのを報酬と思い、いつか書こうと思いながら今になってしまいました。

 

 

 

『ヒッチコックのゆすり』アルフレッド・ヒッチコック 

1929年イギリス

6/7/20(日)シネマヴェーラ渋谷 17:15の回 会員料金800円 

前から4列目中央やや左

 

女が正当防衛で人を殺し、恋人の刑事が罪を隠そうとするも、真実を知る男に脅かされる…というお話。

邦題は劇場のチラシに従って表記していますが、『恐喝(ゆすり)』として紹介されることもあるそうです。

こういう名前が統一してない映画、たまにありますね。

日本未公開だそうで「昭和元年から平成元年の間に日本で公開された作品を対象」という新生意気坐のルールに反していますが、まあまあ。

 

"Blackmail"という原題に続いてクレジット。昔の映画は頭のクレジットに配役まで記されている場合あります。ホワイトという名前が3人…家族かな、大家さんに芸術家、警察が何人か出てきて、あとトレーシー…トレーシーは何者でしょう。

別に見ていれば分かることですが、あるとつい読んでしまいます。

 

何かの円盤が回転しているカットで幕開け。大抵クルマのホイールか、カジノのルーレットが多い…でクルマ。疾走するパトカー。警察と悪漢の捕り物劇。音楽は鳴っているけど、物音や声は所々スカスカ。何故なら本作はヒッチコックの初トーキー映画。まだ手探りといった感じです。

 

逃げていた悪漢が捕まり、牢に入れられるところまでしっかり見させられます。

それなりの尺をとって描かれるので、この悪漢が後々脱獄して復讐に出るとか色々展開を想像させられましたが、結論から言って特に何もありませんでした…。

 

で、一仕事終えた刑事のフランクが恋人のアリスと夕食に出かけます。

他の客とイス取りゲームさながらに空席を奪い合ったり、食事の後で映画に行くの行かないので揉めたりと、ゆるいコメディ描写が続きます。

この辺はまだ「うーん、ヒッチコック…あれー?」て感じです。

 

アニー・オンドラ演じるアリスの声が特徴的というかクセが強いです。

つい『雨に唄えば』の一場面を思い出してしまいました。

クレジットによると主演ですが、ちょっと賑やかしの端役のようです。

後で調べたところ、本人の英語に訛りがあったために台詞は別の方が吹き替えているそうです。

何故この声…コメディからサスペンスに転調した後どうなることやら。

 

結局フランクは一人で映画に、アリスは別の男と良い感じになってしまいます。

「芸術家の家見たくない?」みたいな誘いで男の部屋に上がるアリス。

最初は楽しい雰囲気でしたが、男が力ずくで求めてきたことから、アリスは抵抗します。

そして気付けば傍らにあったパン切りナイフで男を…。

この映画がヒッチコックらしくなるのは、まさにここからです。

 

ナイフを逆手に握ったまま、無表情で立ち尽くすアリス。

先程まで変な声で笑っていた女とは別人のようです。

現場を立ち去るアリス、夜のロンドンを彷徨います。

劇場から笑顔で出て来る群衆の中を、凍りついた顔のアリスがかき分けて行きます。

ヒッチコックは同じ演出を改良して再利用するといいますが、後に『見知らぬ乗客』で見られたテニスコートのシーンを思い出しました。

道端に寝転ぶ浮浪者が伸ばした手と、死んだ男がベッドの端からだらりと垂らした手のイメージが重なった瞬間、、「キャー!」という叫びと同時に死体を発見した大家さんのカットに。

もはや古典的ではありますが、こういうの好きです。

 

事件の担当になったフランクは、現場でアリスの手袋を発見したことから真相に気付きます。

そこで彼はアリスを庇うために、2人で口裏を合わせようとします。

ところが2人はトレーシーという男の登場で窮地に立たされることに…。

 

他のヒッチコック作品とは違った後味のラストが待っています。

気になる方は是非ご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

新生意気坐10月〜12月 ほしのあきら

 

(この3ヶ月で見ようと予定したうちの10本を見られなかった。正確に言うと10本を見なかった。理由は体調維持のため。結腸=小腸と直腸の間にある大腸の主要部分=が腫れて、痛んだ。伸脚等しようとすると激痛。小走りで走っても痛い。そこから、ハードな1日に次の日は体を休める。生ものは避ける。小麦粉はさらに避ける。青汁を朝2袋、昼1袋、夜は酵素を1袋飲む。煙草は1日四本にする。11時に寝て7時前に起きる。これを徹底して痛みは消えたが、完治したわけではない。医者に行けば直ぐ手術だそうだ。映画を見ることは楽しいことだから止める必要はないのだが、やはり電車に乗って人ごみを歩くのは疲れる。テレビやDVDで見るか本数を減らすかという判断だ。やはり行ける限りは映画館に行きたい。嫌だと思うことはなるべくやらないようにしてもう少し続ける。ぞ。)

 

見たぞリスト

• 「ドント・ウオーリー」(2018)、×「マ―ウェン」(2018)、○「君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956」(2006)、○「春の夢」、××「花嫁さんは世界一」、

◎「自転車泥棒」、×××「抱いて頂戴」、△「一条さゆり濡れた欲情」、○「黒薔薇昇天」、△「かわいい女」、○「青い乳房」、◎「裸の島」、△「骨までしゃぶる」、○「三代目襲名」、○「銀座化粧」、×「第七感界彷徨 尾崎翠を探して」、△「虫女」○「秋立ちぬ」、○「下女」、△「時よ止まれ君は美しい」、△「流れる」、×「妻よ薔薇のように」△「三人の狙撃者」、○「拳銃魔」、○「薄桜記」、△「ドクター・スリープ」(2019)、△「ビックコンボ」、○「罠」、○「ハイシェラ」、△「裸の町」

の30本から

 

 

『春の夢』木下恵介 昭和35年 松竹大船 

 (2019/10/16ラピュタ阿佐ケ谷)

 木下惠介の脚本は心優しくって、画面もその優しさに満ちている。金持ちの豪邸の前で焼き芋屋のおじいさんが倒れてしまうという設定のファンタジーがリアルに人の心を暴いていくという‥‥見事なんだなぁ。風刺喜劇と言ってしまえばそうだけだけど、嘘も無理もない、そう思ってしまうところが木下恵介。

 岡田茉莉子、久我美子、十朱幸代、みんなきれいで、中村メイ子はさすが中村メイ子で、最高なのは東山千栄子!「東京物語」の笠智衆との老夫婦が大富豪老婦人と焼き芋屋のじいさんになっても、最後にやっぱりコンビだったというドンデンがほろ苦い愛の形を浮き彫りにして‥‥泣けるんだなぁ。見終わってみればなんてことのないお話だけど、このラスト‥‥嬉しいよなぁ。

 

 

『花嫁さんは世界一』新藤兼人 昭和34年 東京映画 

 (2019/10/16ラピュタ阿佐ケ谷)

 新藤映画に外れ無し!、喜劇を自分で映画にした!(吉村公三郎監督ではよくあった)これは見なければ!‥‥気分だけにしときゃ良かった!

 今考えれば題名がダメだよ。アメリカ西部の日系二世のフランキー堺が日本人女性は最高だと言って花嫁探しに日本に来るという、このでたらめな設定を文句言わせない強引な流れが期待の全てだけど、まるでダメだよ。まず花嫁候補の数10人に美人がいない!おい東宝、何とかならんかったんかい、いくら笑いのためとは言え、若水ヤエ子は可愛そうだろ。そこから絞られた3人にしてもだ、どう考えても世界一にはならんキャラクター設定だわ。せめて岩下志麻を悪女にできんかったんかい(あ、岩下志麻は松竹だ)!おい東宝、そんなに美人のいない会社かい。予算無いなら映画にするな!新藤兼人らしい社会へ向けてのアピールがあるけど、残念ながら取って付けた言葉だけ。フランキー堺のたどたどしい日本語は、まさにクッサイ。彼を案内する美人ガイド雪村いづみと結ばれるんだってことは15分も見てれば分かるけど、救いは雪村いづみがだんだん美人に見えてくることだけ。自分の世界を映画にするための資金作りとは言え、もう少し闘って欲しかったです。乙羽信子を見習って!(とは言え、この映画の彼女もなぞった演技でダメ。)

 

 

『自転車泥棒』ヴィットリオ・デ・シーカ 1948年 イタリア

   (2019/10/27つるまい名画座)

 私の生まれた年、戦後3年、荒廃したローマ、仕事に必要な自転車が盗まれて、人様の自転車を盗もうとして捕まってしまう父親、それを目撃して父の手を握るしかできない子ども、この子の手は神様の手だ。あなたの一番好きな映画は?とくだらない質問を投げられたら、今日は「自転車泥棒」と言うだろう、と今日も思った。

 

 

『抱いて頂戴』 昭和36年 松竹大船 

 (2019/10/30ラピュタ阿佐ケ谷)

 名画座通いで改めて好きになった女優①淡島千景②田中絹代③桑野みゆき。その桑野みゆきが単なる可愛いだけのイメージを「青春残酷物語」でかなぐり捨てた後の映画!。でタイトルがそそる(「ちょうだい」ではなく「頂戴」だから、なおそそられる)。

 しかし粗筋知ってるんだから、もう少し節度を持って見るか見ないか決めるべきだったよね。

 確かにセクシーポーズはそれなりにあるけれど、南米帰りの億万長者(杉浦直樹、見えないぞ!)と、“あんな奴鼻持ちならない”という女流雑誌記者のやり取りなんだから、この二人が結ばれるしか無いだろう。そこへ行くまでにサスペンスがゼロ。桑野みゆきってやっぱり可愛いなぁしかないじゃないか。‥‥さあ、忘れよ。

 

 

『黒薔薇昇天』 昭和50年 神代辰巳 日活 

   (2019/11/1シネマヴェーラ渋谷)

 世の評価の高い神代作品だが、私はなかなかウン!と言えなくて困っている。今回は「恋人達は濡れた」と「櫛の火」を見ようと意気込んでいたが、予定が合わずに、これを見た。岸田森は狂気の役がピッタリ嵌まると思っていたが、インテリ風で変質的な奴。これはイけてる。大阪の町が覗き見的なロケーションとカメラワークで猥雑な風景の連続で、かっこいい。歌謡曲とクラシックが意味を超えて絡んでくる緊張感は単なるファック・シーンをシュールな非日常の世界に充分に変えてしまった。

 日活ロマンポルノは女優がオーバー演技で、性交シーンはやたらに長くて、結果退屈してしまうのが常だったが、今回は性交シーンも含めて長回しの魅力が伝わってきた。あーこれが神代ワールドだと、やっと出会えた気がする。

 今度は「傷だらけの天使」を見たい。

 

 

 

★無駄話(その5)ハイロは絶滅するか〜もうすぐ50歳  ほしのあきら

 ハイロの軒下を借りている身分で、無駄話も無いもんだが、11月10日にハイロの上映会があったもんで。

“えっ?ハイロってまだやってるの”とか“いずれ無くなるだろうな”とか、どうも人は何かしら無くしたいようだ。自分の身近な物が少なくなってくると、それを守りたくて危機を叫ぶこともあるようだ。実際ハイロは参加する作品があって初めて成立するのだから、参加作品が無くなれば無くなる。いや、その前に運営している我々がこぞって辞めれば絶滅する。正直、観客は減少の一途で、絶滅危機の真っ只中にあるハイロ。

 今まで無くなってきた上映会は数え切れないくらいあるけど、そのほとんどは1回、数年あるいは10数年で無くなっている。しかし‥‥何かが無くなっても似た上映会が生まれ、作品の質は相変わらず玉石混合でも映像作品は生まれ続けている‥‥で、ハイロが絶滅するとして、理由はなんだろう。

 一言で言えば環境の変化がある。今まで以上に多くの人が映像を所有し発信していきたい(ホントにいきたいかどうかは疑問だが)という環境が整えられつつあり、ネット上での配信(我々の概念で言う上映)が扱いやすく、簡単に主張できる。そう言う見方で言えばハイロは不器用だ。

 デジタルとネットのドッキングというライバルの出現という見方も出来る‥ネットでの観賞と上映会は似て非なるもの、と考えるとハイロもやる気が出てくる。だいたいネットのせいで生身の上映会が無くなるなんて考えはちっこいようにも思う。

 やり過ぎたから絶滅ってこともあるだろう。それまで映画作りは一握りの人々の専有物で、素人が小型のフィルムで作るのは「小型映画」。そのHOW・TOを伝授するメーカーもマスコミも“小型映画だから”と卑屈になって地味な題材と保守的な作り方を推奨した。作り手までもが小型映画だから”と卑屈になっていたけれど、居直って欲張った「はみ出し野郎」が増え続けた。そこにハイロが誕生する根拠があった。企業としては、そんな奴らをもっと増やせばもっと儲かる。だからデジタル‥考え方は正統だ。

 まぁ絶滅はどんなものにも平等に訪れる。絶滅しないためには「武器」が必要。抗う気持ちは武器であり、その武器を支えているのは愛だ。かっこ良くてリアリティ無いけど、そう思ってやっていく。

 1970年代の雑誌に「いずれ映画は大型化したそれと小型・ゲリラ化したそれに二分されるだろう」という予感の記事があったのを思い出した。大型は町のシネコンで、小型のゲリラはハイロのようなちっこい上映会で、ネットはちっこいくせに大型のように思わせる“まやかし”で。どうもネット配信が諸悪の根源、と言うようなニュアンスに聞こえてくるが、いやいやそうではなくて、小型のゲリラはネット配信と共存。そうやってしばらくはゴチャゴチャしていくような気もする。

 だって生身で複数の人が一緒に作品を見て、作者がそこにいて、言い訳含めて話をする、なんて面倒くさくて面白いかも知れない。音楽や演劇、絵画や彫刻は既にゴチャゴチャやっている。映画にもっと[生身感]が出てきさえすれば、の話ではある。文句は言わせない。

 ドラえもんが生誕50年! 50年前テレビのサザエさん放送開始50年! 48年前全日本プロレス旗揚げ! 45年前セブンイレブン1号店誕生! 

49年前第1回ハイロ・シネマ・フェスト !

作家を守って50年‥‥

 誰のどんな作品でも上映する、この無謀とも言えるコンセプトでスタートしたハイロです。作ったから見せたい、面白さが誰かの手で保証されていない作品を見たい、この二つの欲望が合えば上映会は成立する。予定調和の反対側の出会いが感性に響いてエネルギーを生む。人前にさらすことで制作を続ける人が出てきて、自分の未知な感性を知って、見ることから作ることが生まれる人が出てきて、結果、作家を育てて50年‥‥です!

 

 

 

『青い乳房』 昭和33年 鈴木清順 日活(2019/11/5神保町シネマ) 

 アクションスター以前の小林旭ってどこか真面目そうで、でもどこか素直に育ってこなかったようで、頼りないけど頑張っている感じが好きだ。

 「・・・乳房」なんてタイトルが平然と町中の宣伝ポスターになっていた頃に私は10歳。しかしこんなポスターは見たことがない。お風呂屋さんやお菓子屋の横にあったポスターを見るのが大好きだったのに見た記憶がない。見ないようにしていたのか、あるいは大人が私らの将来のことを考えて貼らなかったのか、いずれにしてもあんまり見たいと思うタイトルではないので、今回見てみようと。

 話としては過去に強姦された場所が絵画になっていたとか、ブルーフィルムに無理矢理出演させられる少女がいたりと、それなりに猥雑。神代辰巳が描いたらシュールで猥雑になりそうだが、若き清順さんはやはり清順美学で、どうでも良い説明ははしょって、拘りを持てることだけでまとめていく。結果、(多分)成人向けではないし家族向けでもないし、迷える青年向けでもなく、もちろん「ちぶさ」の言葉にドキドキする小学生がこっそり見に行ってもよく分からなくてがっかりする映画になっている、宙ぶらりんな映画、後に花開く清順映画のはしりの映画。でもこれ、ヒロインの稲垣美穂子(当時20歳、分からなかった!)が可愛くなかったら、どうなってたんだろう。

 

 

『裸の島』 昭和35年 新藤兼人 近代映画協会

 (2019/11/15つるまい名画座)

 経営に行き詰まった近代映画協会の解散を決意した映画。キャスト4人、スタッフ11人、制作費5千万円の超低予算映画。(「花嫁さんは世界一」のギャラはここへ注ぎ込まれたのか!映画)

 当時セリフがないと言うことで敬遠した人が多かったと聞く。サイレント映画と思っていた人も少なくないと聞く。予告編を見た高校3年生の時、迷わず見に行った。それから何度見ても飽きることなく引き込まれていく物語。乙羽信子が天秤で桶を運ぶ、そのアクションだけで多くを語ることに歳とともに感動していく自分がいる。

 肉体が語る映画。アクション映画。女の映画。生命力が具現化した映画。映像が真実を語る映画。セリフがないから答えのない映画。素朴が幸福感を運ぶ映画。

 あなたの一番好きな映画は?とくだらない質問を投げられたら、今日は「裸の島」と言うだろう、と今日も思った。

 

 

『明治侠客伝 三代目襲名』 昭和40年 加藤泰 東映

(2019/11/26新文芸坐)

 でも、これも何度も見てるからなぁ‥今更凄い!でもないし‥前に加藤泰と言うだけで余り期待しないで見た「車夫遊侠伝 喧嘩辰」が良くって、桜町弘子が良くって、同じテイストの「骨までしゃぶる」を見に行った二本立て。悪くはなかったけど、桜町弘子の演技に張り合う力がイマイチだったからこの名作が一層引き立って見えたという。ダイナマイトを使うのは私の仁義に反するので、いつもそこが引っかかる名作だけど、目の前の優しさに感じて起きる切ない心の動きが、クライマックスの殴り込みの後にも湧き上がる、その葛藤がいつも以上に迫ってきた。私の任侠映画の一番ではないけれど、いまだに心が動く映画と出会ったことがありがたい、と感じる池袋の夕方。

 

 

『銀座化粧』 成瀬巳喜男  昭和26年 新東宝

(2019/11/27神保町シネマ)

 一人息子を育てながら銀座のバーで働く田中絹代、その煙草を吸うシーンがかっこいい!家での生活と銀座での立場と、その時々の心情を煙草が表している。学生映画に良くあった[困ったときの煙草]ではない、心理の彩としての煙草に改めて出会ったて気分よし。それにしても田中絹代がこんなに煙草を吸う映画を見た記憶がない。見ている限りでは普段から吸っている感じがするのだが、これは特訓の成果かも知れない‥‥いや、スクリーンでその時出会った人物が全てなのだから、結局どちらでも良いことではあるけれど、せわしなく口に運んでは見事に吐き出される煙に[大人の煙草]を感じた。

 息子の親は、今は没落して時々田中絹代に金をせびりに来る三島雅夫。腹に一物ある役の多い三島が、申し訳無さそうな恥ずかしそうにわずかな金を無心している冒頭シーンから、何となく設定が見えて来る。ところがこれが裏表のない男で、そのギャップが物語を厚いものにしている。無心の帰りに橋の上で必ず息子に出会い、駄菓子屋で何か買ってやる。田中絹代に金がないときは、笑って“坊や、今度な”と、これがまた哀しい。

 母として子と自分を守る下町の風景と、夜の女としてしぶとく生きる銀座の対比が、三村明氏撮影のナチュラルな画面作りから浮き出すように現れ、両方の行き来が生きる[時]の移ろいを感じさせ、しみじみと3歳の自分を想像して、ラストでは三島がんばれ!と応援しながら、煙草を吸いに出口へ急いだ。

 

 

『秋立ちぬ』 成瀬巳喜男  昭和35年 東宝

(2019/12/10神保町シネマ)

 始まりは、夏休みになって長野の田舎からオジさんを頼って東京の銀座の近くに越してきた母子。夏休み最後の日に橋の上で途方に暮れる少年で終わるとはなんとも切ない。

 乙羽信子母さんはすぐに加東大介と駆け落ちしてしまう‥‥加東大介に頼ってしまうんだぁ‥‥母子家庭の私の母がきれいに着飾ってどこかのオジさんと笑っていたのを思い出す。残された少年はお妾さんの娘と仲良くなる。スカートがやたら短くスリムな娘。こういう娘が声をかけてくれるのは分かる。お高くとまってるとか思われて友達少なそう。二人で海を見に行く。初めて見る海は汚い東京の海。あの頃、東京に海があるなんて思いもしなかった。長野から大事に連れてきたカブト虫がいなくなる。従兄弟の夏木陽介青年がバイクでカブト虫のいそうなところへ連れて行ってくれるが、長野カブトみたいな奴はこっちにはいない。群馬のおじさんとこで出会った奴らは文京区にはいなかった。

 少年も娘も居場所がない。居場所があった子どもって、いたんだろうか?一人ひとりにドラマがあったのが貧しい日本だったような気がする。子どもが主人公になると、やたらと気持ちがシンクロする。

 やっと長野カブト虫に匹敵するカブトを手に入れた少年は娘にあげるために急ぐ。今は無い東京風景だからと言うのは多分にあると思うけど、歩いたり走ったりしている風景が心に入って来る。映画は風景が多くを語る。ただきれいじゃない。生活の風景が美しい。娘は今引っ越していったという。あーそうなんだなぁ‥‥橋の上の少年は知らない東京で新学期を迎える、訛りを笑われるところから闘いが始まるんだ。

 

 

『下女』 キム・ギヨン 1960年 韓国

 (2019/12/12シネマヴェーラ渋谷)

 まともかと言えばまともじゃない。上品かと言えば下品。モラリストかと言えば変態。常識的かと言えば非常識。つまり、どう見てもわがままの塊。

 医師の資格を持つと言うこの監督のことを知らなかった。カルトとしての人気が高いのだろう、多くの観客が集まっていてドキドキ感が高まる。初めての体験感ってまだ自分にもあったのだ。思えば名古屋の大須観音にあった小さな小屋でスタン・ブラッケージに衝撃的に出会い、探し探して遂に新宿で出会った「ドッグ・スター・マン」の始まる前の、あのドキドキ感を思い出す。

 シナリオの満足度90%、映像の満足度70%。個人の心の奥底を除こうとするシナリオは他に置き換えられないものに満ちている。不足があるとすればキム・ギヨンの筆力だろう。他者とまったく相容れない自我と他我の関係性は、納得できない力で暴かれていく。羨ましい。映像は言葉よりも制約がある。そこでどのくらい闘っているかと言えば、多分キム・ギヨンに続く若い力、キム・ギヨンを超えようとする[次]に託すだけの力は感じる。

 この感触、石井輝男のわがままと同じ匂いだ。「映画」と闘い、映画を求めるあの匂いだ。

 

 

『拳銃魔』 ジョセフ・H・ルイス 1950年 アメリカ

 (2019/12/18シネマヴェーラ渋谷)

 昨年からの見逃し映画。いかにもハリウッドらしく普通にテンポ良く映画は進む。しかしある時、“なんだ!なんなんだ?この映画!”と突然神が降って来る。突然の同時録音でセリフくさくない言葉が飛び交う車の中、突然の即興演出なのか段取りがまるで見えなくなる銀行強盗、半分失敗で半分成功のこのシーンは1カットの長回し。アーそういえば[伝説の長回し]って解説にあったなぁと思い出す。そこから後はもう全てがいつもの「映画」と違う狂ったような緊張感の連続に、私などが文句言える筋合いはありません。

 ラスト、霧がかかってまるで見えない中での声のやり取りと死。冷めれば嘘くさいのだろうけど、いや信じさせたら映画の勝ち!まさに。また見たい。

 

 

『薄桜記』 森一生 昭和34年 大映 (2019/12/21つるまい名画座)

 ご存知(かどうかは定かではないが)市川雷蔵の代表作。五味康祐の原作は複雑でNHKが大河ドラマにしても良いような内容。それを伊藤大輔がばっさり切り捨てて、さらに残酷さを加えたという、監督よりも時代劇の父伊藤大輔の脚本が生んだ傑作。

 主人公丹下典膳(この名前が丹下左膳を連想させて笑えるが、もちろん本編に笑いは、無い。)と堀部安兵衛(若き勝新太郎。雷蔵と勝新は映画界入り前の境遇が似ており、仲も良かったとか。薄幸のヒロインは真城千都世(って知らない。知らないしヒロイン顔じゃない。嫌いじゃないけど。)

 勝新が主役じゃね?と言う方々も一人や二人ではないが、いやいや色々あって妻を離縁した典膳が義理で左腕を失って(原作では右腕だから、ひどい脚色だと)、さらにクライマックスでは片足を撃たれて寝たまま刀を振るうという(これも原作には無い!ホント情け容赦のない脚色)前代未聞の死を迎えるのだから、これがヒーローでなくては立つ瀬がないと言うもの。幸せ薄く死んでいく夫婦(元夫婦)の手には新婚のときのお互いの持っていたひな人形、その上に12月14日(討ち入りですから)の雪が降り積もる‥‥これを薄い桜と呼ばずに何とする!という大好きな1本の3度目の観賞でした。

 

 

『罠』 ロバート・ワイズ 1949年 米国

 (2019/12/27シネマヴェーラ渋谷)

 盛りを過ぎたボクサーが昔の夢を追って田舎町へ。奥さんはもう辞めてくれと哀願するファースト・シーンの長廻しから映画内時間と上映時間が一致しているという79分間のハラハラ。主役のロバート・ライアンは元本物のボクサーでファイティングシーンの迫力は本物。新人、ベテラン様々なボクサーがリングへ上がり戻って来る。その群像が生き生きと描かれてそれだけで人生を匂わせる。八百長を拒んだ主人公は見にきていない妻の姿を探しながら、最後に勝つ。そこに待っているのはリンチ。二度と使えない拳。妻と二人取り残される裏町。いや泣かせる小品。1940〜50年代のハリウッドは力に溢れている。

 

 

『ハイ・シェラ』 ラオール・ウォルシュ 1941年 米国

 (2019/12/28シネマヴェーラ渋谷)

 ハイ・シェラは山の名前。田舎町にシンボルのようにそびえる山。最後は山に立て篭ったハンフリー・ボガードが壮絶に死んでゆく、かっこいいノワール。山へと逃げるカーアクションはコマ落としでスピードを早めるという手法が懐かしく、“これで良いんだ!映画じゃないか”と楽しくなる戦前の映画です。

 出所したばかりですぐまた強盗を計画する根っからの強盗好きのボギー。仲間にあばずれ(アイダ・ルビノ)がいて、ほんとは素直で、ウンなかなか良い女なのに、ボギーは素人の足の悪い若い娘に夢中。これに(不幸を呼ぶ犬)と言う名の不細工な犬(ホントに不細工!でも演技最高)が絡むという少々めんどくさい設定。

 だけどさぁ、どう見ても足の悪い少女よりも素直なあばずれの方が魅力的なんだよな。なのに40過ぎて強盗で金持っちゃったボギーは手術費用を出してやりぃの、直ったらプロポーズに行きぃの、もう見てらんない。“あたし足が直ったら踊り続けるの”って少女はホントにボギーの前で踊り続けてるだけなんだから。おい、もっと何かあるだろう!って。父親も父親で、ボギーに感謝するだの友人だの言ってるくせに、寂しく玄関を出るボギーを申し訳無さそうな顔で見送るだけ。おい娘に何か言うことないのかよ父つぁん!って。ボギーあんたもあんただ。足長おじさんは少女の等身大の幸せに踏み込んじゃなんねぇ。鶴田浩二なら遠くからそっと見守って去っていくぜ。

 で、これが全て(不幸を呼ぶ犬)と出会って慕われて、出かける時に必ず必死で追いかけて来て(この顔がたまらないほど不細工で愛しくなる)‥‥と言うことなんですな。で、仲間のドジで警察に追われてハイ・シェラへ逃亡するハメになったと。

 それでもボギーを慕うアイダ・ルビノは、本当に良い女だ。彼女にひとつ間違いがあるとすれば、警官に包囲されたボギーの元に(不幸を呼ぶ犬)と一緒に来てしまったこと。死んでしまったんだからボギーは仕方ないとして‥‥エーッ!後に残ったあばずれアイダと犬は一体どうなるんだ!ふたりで暮らしていくしかないよね! それでなくてもアイダは不幸なんだから‥‥だから幸せになるのかな?

 想像力がかき立てられて後引くラスト!この後がどうしても見たくなるけど、続編などありっこ無い、遅咲きボギーの出世作でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

新生意気坐7月〜9月 ほしのあきら

 

 

(1ヶ月最低10本が守れない。映画を見るって結構集中力のいるもので、二本見るぞ!が力尽きて帰宅‥とか、“今日は止めよう”とサボりとか‥でもまぁ目標マイナス二本で済んだのは[見るぞ!予定]を多めに設定しているから。実際はこんなもんだと自分は責めないでおく。

世の中で傑作と呼ばれ、どこかで活字で知っている映画が半分近くある。ほとんどが“こんなものね”と言う印象。期待値が上がっているのもいけないのかも。その中で腹が立つ映画も出会う。これこそ『新生意気坐』で書かなきゃいけないのだろうと思うと、名作も再チェックか。)

 

見たぞリスト

• 「億万長者」、△「大誘拐」、××「木枯らし紋次郎」、○「にっぽん泥棒物語」×「赤い水」、△「ある脅迫」、○「気違い部落」△「バニシング」(1988年ギリギリ対象だけど初公開!)、△「二階の他人」、◎「愛と希望の町」、△「ニノチカ」、◎「砂の器」、△「白昼堂々」、△「にごりえ」、○「真空地帯」、○「復讐鬼」、△「サンセット大通り」、△「犬 走る DOGR ACE」、△「日本侠客伝」、△「パルムビーチストーリー」、△「肉体の悪魔」、○「グリード」、△「第七天国」、○「イントレランス」、△「橋のない川」、○「母」、△「素晴らしい哉人生」○「虚空門」(2019新作)、××「とべない沈黙」、×「脱獄囚」、○「危険な英雄」

の31本から

 

 

『木枯らし紋次郎 関わりござんせん』中島貞夫 昭和47年 東映(2019/7/5神保町シアター)

 前回と同じくまたしょっぱなから×作品だ!ちょんまげやくざだけど紛れも無い任侠路線に乗った映画、しかも菅原文太のニヒリズムに昭和を代表する名女優故市原悦子が絡むとあっちゃあ、関わりござんせんなんて言ってられません!と意気込んだけど、退屈きわまりなし。今は女郎に身をやつした市原悦子が実の姉だと知る紋次郎。そこまでは良い。それを武器に姉が紋次郎を良い様に操ろうとするが、紋次郎はすげなく、“関わりござんせん”とこれも良い。あとは紋次郎をののしる姉がいかにして紋次郎のために死ぬか!のための流れなんだけど、その涙に暮れるであろうクライマックスに行くまでが!退屈。引っ張り過ぎ。そうなると市原悦子の演技力だけが頼り。でもそこが空回り、芝居がくさく見えて来ちゃあ、市原悦子に申し訳が立たないじゃないですかい、野上龍雄と中島貞夫さん!

 久し振りに、帰るか帰らないか、その狭間での苦痛を味わったのです。で、残り34分で外へ出てドトールに入り、私には関わりござんせん、でした。

 

 

『にっぽん泥棒物語』山本薩夫 昭和40年 東映 

(2019/7/12シネマヴェーラ渋谷)

 (中学生時代の自分は山本薩夫の反体制的な姿勢が好きで良く見に行った。「忍びの者」にも反体制の匂いを嗅ぎ出そうと必死だった。でも、映画は武器にはならない‥そう思い始めてからた山本薩夫には当時見向きもしなかったことを覚えている。)

 いやあ、東北弁は面白い。家族愛を語ればしみじみ深く、笑いはクスッとかニコッとか。隙間からこっそり漏れてくるような親しみ。まろやかに言葉を包んでしまう関西弁とは正反対。真似できるようで拒否率高い恐るべき東北弁!

 やくざが関西弁で来ると凄みがグッと増すけど、東北弁のやくざは、やっぱりクスッとかニコッとか。関西弁の警官や刑事は信用できないが、東北弁警官や刑事はほのぼのする。でもこの映画の刑事伊藤雄之助の東北弁は陰湿で執念深い。対する土蔵破り専門泥の三國連太郎の東北弁は、家族に対する溢れる愛が哀れに滑稽で、刑事伊藤雄之助のしつこさにハラハラする。

 これは三國連太郎VS社会の暖かさと冷たさの映画。社会の一方の象徴が伊藤雄之助という映画。実は「松川事件」を泥棒に視点から描くと言うとんでもないテーマで、冤罪をはらすために、モグリ歯医者から周囲への誠意で成功した泥棒三國が、自分の過去をさらけ出して証言すると言う勇気と感動の愛情物語。ラストの裁判シーンが笑えて泣ける。東北弁だからこその名シーンだべさ。

 

 

『気違い部落』渋谷実 昭和32年 松竹 

(2019/7/18シネマヴェーラ渋谷)

 当時は誰も考えなかっただろうけど、このタイトルである限り映画館以外では見られない。兄に連れられて見に行った公開当時、どんな恐い映画かと思いきや、何だか訳の分からん人たちが訳の分からんことをやっているだけだった。

それを「気違い」という言葉で納得した記憶がある。セリフではこんな言葉は出てこない。言葉は今よりも深く広かったという証だ。

 村の掟があり、その掟に従う気違いと逆らう気違いがいる。どの人物にも本能が見える。掟とは自分たちが生きていきやすい様に定めたことだから。一般常識からは外れて見えるのはそのためで、つまり本能に従って掟に熱中する人々の騒動話だ。

 そんな村ごとの掟(モラル)が集合すればまとまるはずが無いから、どの村にも無い掟で国をまとめる‥‥村社会が集合してできた日本の「一般常識」は後から作られたから、どこか嘘くさくて冷たくて馴染めない。悪いとは思えないけれど、手放しで良いとは思えないのが「一般常識」。しかし、この気違い部落の直ぐ傍は東京が在るというラストは日本の戯画化として見事。

 

 

『愛と希望の町』大島渚 昭和34年 松竹

(2019/7/26阿佐ケ谷ラピュタ) 

 SP(シスター・ピクチャー=四〜五十分の中編で長編との併映で封切られた)特集で、山田洋次デビュー作「二階の他人」(昭和36年)と大島渚デビュー作を二本立てで見た。

 先に見た「二階の他人」は、貧しい若夫婦が生活のために二階を間貸しして起こるドタバタで、すでに山田洋次テイストが見られて好感を持ち○を付けた直後に大島さん(色々お世話になりました)からストレートパンチ!いや突然後頭部をぶん殴られて“ボーッと生きてんじゃねえ!”と怒鳴られたような‥

 売っても戻ってくる伝書鳩で家計を助ける少年は、貧しさに負けない。彼を支えようとするブルジョア令嬢も柔くない。だから、そう簡単にハッピーエンドなんて訪れない。安っぽいロマンチシズムは微塵も無い。

 「人情紙風船」(山中貞雄)以来の絶望感‥しかし絶望に対する姿勢は違う。‥新藤兼人のような冷静な客観視とは違う。‥長谷川和彦のような負に寄り添う哀しさと優しさではない。‥黒澤明の正しきモラルはまるで違う。大島さんはただ怒ってる。

 忘れていた‥会うといつも笑顔を向けてくれていても、いつも目の奥に潜んでいた鋭さを思い出した。大島さんは周りの映画にも自分にも、[ただ]怒ってスクリーンの奥から石つぶてを投げていた。何を描かないか?それが映画であり、映画は武器にはならないが武器の螺子(ネジ)にはなる!そう思えたのが大島映画、そのデビューは27歳だった。

 

 

『砂の器』野村芳太郎 昭和49年 松竹・橋本プロ

(2019/8/2神保町シアター)

 (死ぬ前にもう一度見ておきたいシリーズ)。実は8月1日に見に行ったのです。それも周囲に“8月1日に「砂の器」を見に行くんだい!”と言いふらして。で、30分前に着いたら「完売」なのでした!しかも目の前で!!なので翌日50分前に行って入れました。ちなみに私の後5人で[完売]でした。神保町は100人定員なんですが、こんなこと初めてでした。けっこう感激して、けっこう自慢気分になるもんです。

 やっぱり記憶の中の美しさとはずいぶん違いました。特に当時は息子が生まれたばかりで、加藤嘉の父親の情に目がいきましたが、今回は親子を助けて、結局殺されてしまう緒形拳の虚しさに心奪われました。ズボンのベルト位置が高過ぎる加藤剛の深い傷も、丹波哲郎刑事の隠れ生活感も味わえました。

 音楽はあの主旋律はさすがに胸を打たれるけど、それ以外のメロディはそれほど大したことは無く、主旋律も少々くどいと感じました。川俣昂さんの撮影は見事だけれど、真っ当な構図でウワァ!というものは無かったです。親子が村を追われる様に出て行くシーンで村の全景のカットがあれ?こんなものだった?と思ってしまいました。いやいやだからと言って、作品の質に疑問を感じたということではなく、むしろ文学性や演劇性が立ち上がって、全体のバランスの秀逸さが以前よりも伝わったということです。やはり日本映画の宝の1本でした。

 

 

『真空地帯』 昭和27年 新星映画社

(2019/8/8阿佐ケ谷ラピュタ)

 [実話に基づく]という映画を見ると、必ず[本当にこんなことがあったのか?]という疑問と一緒に[あったんだ]と言う気持ちで見入ってしまう。本当にあったかどうかは実はどうでも良いことで、話が面白いか、リアリティを感じるか、そこだけで付き合えば良いはずなんだから、余計な情報だ。

 ビンタが痛い。繰り返されるビンタが痛い。役者達が、実際に力を込めて殴っているのが分かる。下級兵士の悲惨さを説得力あるものにする表現方法だ‥が、その力に固唾をのみながら反面では疑問を感じていた。映画のリアリティは本当にやることなんだろうか?

 映像はどうしたって本当っぽく見える。演じることの嘘が生むリアリティが[映像の本当っぽさ]に距離を創って、見えることの奥に在るものを浮かび上がらせる、その映像の抽象性が映画の魅力だろう。現実に見えることを映像で[再び見る]ときに見えないことを思い浮かべる。それが現実ではないけど嘘ではない、宙づりでの体験の魅力だろう。最近は泣くシーンで本当に涙や鼻水を見せることが多い。演技レッスンでも本当に無くレッスンがあるらしい。どんなにつまらない作品でも若い姉ちゃんが本当に泣きながら語るシーンを見せれば、良い映画だったでしょ?と思わせようとしている。デジタルになってしみそばかすのひとつひとつが語ってしまうからこそ、本当かどうかではなく、本当を超えて伝わってくるのことが映画力だと。

 と言いつつ、痛いビンタの迫力に最後まで引っ張られてしまったのだから、これは監督と役者達の覚悟の力だろう。

 

 

『復讐鬼』ジョセフ・L・マンキウィッツ 1950年 アメリカ

(2019/8/14シネマヴェーラ渋谷)

 タイトルの並びは主役がリチャード・ウィドマーク。シドニー・ポワチエは初の準主役だが、実際はポワチエが主役。映画を売るためと、黒人が主役ということでの抵抗感を無くすためだろう。しかしこのタイトルが良くないよ!

 ポワチエは囚人病院に赴任して来た新進気鋭の医師。でも黒人。運ばれて来た犯罪者兄弟の兄が亡くなると誤診だと騒ぐのが弟のウィドマークで、これが復讐鬼なんだけど、そういうサスペンスと背景にある「でも黒人」が見事に溶け合ってぐいぐい見せる。白人にも黒人にも寄り添わないシナリオ(監督は脚本家出身)が良い。

 ウィドマークが企てた労働者の暴動が失敗し、傷ついた労働者を必死に治療するポワチエに、患者の母親が寄って来てつばを吐きかける。正直ショック。怪我が治らないままに脱獄したウィドマークをポワチエが治療するがウィドマークの敵意と殺意は変わらずに映画の善意は蹴飛ばされる。誤診ではないことが照明されるも、最後まで「でも黒人」。このタイトルが良くないよ!(名作『イヴの総て』と20世紀フォックスを倒産の危機に追い込んだ『クレオパトラ』の監督だって、知らなかった私。)

 

 

『グリード』エーリッヒ・フォン・シュトロハイム 1924年 アメリカ(2019/9/2シネマヴェーラ渋谷)

 完全主義者と聞いていた。スタッフが酷暑の撮影で死んだと言う、彼の呪われた最高傑作だと聞いていた。映画は真似しやすいもの、真似をするつもりが無くても似てしまうもの、だから芸術とは呼べないという見方がある。ここに変な奴の変な映画があった。

 いつの時代にも変な奴はいて、そいつは映画作りに興味を持つ。いつの時代にも変な映画を見て傑作だと思い込む変な奴はいる。変なものは真似をするならそっくりそのまましなければ真似にならない。そこら辺りが映画は芸術だと言われる根拠だろう。

 無認可歯医者の主人公と愛らしい娘が結婚するというほのぼのとした初まりが、宝くじ(当時は闇ルート)を当てた妻の人間性が崩壊していく様が恐ろしい。その妻に対応する歯医者も崩壊していくのだが、その描写が丹念、言い替えればしつっこい。

 歯医者はもともと“こいつが主人公?”という容姿だが妻は可憐。それが目の配り方と口の周りをなぞる仕草で変質的な性格が現れてくるという、この演出もさすが変な奴。

 多くは、話の展開が少し納得いかないと“エーおかしいだろ”と思うけど、まったく納得いかないから、文句言う暇もなく諦めて従うしかない。ラストのデスバレーでは歯医者はすでにガンマンで、水も無くロバと二人で彷徨って、親友だと思ったら裏切られて、でも仲が良いと思ったら歯医者の金を横取りしようとする男(まともな思考で深く考えない!)と相撃ちで死んでしまうという、あっけにとられた107分。似た作品は見たことが無い、映画のクセに、簡単には伝承されない107分でした。

 

 

『イントレランス』デビット・W・グリフィス 1916年 アメリカ(2019/9/12シネマヴェーラ渋谷)

 二年前に退職するまで44年間教師。その間、社会から教えられ、映画から教えられ、学生から教えられ、その都度伝えることは変わっていく。変わっていくと変わらないものが分かってくる。それをまとめようとして筆が止まっているのが『映像技術解体〜フィルムが無くなるときのフィルム・メイキング』。その中でも何度か出てくるのがリュミエール兄弟とD・W・グリフィス。画面の力とつながりの力だ。‥‥いったい何人の若者に伝えて来ただろう‥にも拘らず、この40年間『イントレランス』を見ていないじゃないか!このまま死んでいいのか俺!もう一度見ておかなければ教師ほしのの筋が通りません!

 相変わらず、編集しているグリフィスの楽しんでいる姿がよーく見える。あーこういうところに力を感じたんだよな‥と熱く若い頃を辿っている自分と、今となってはそんなに力を感じないな‥と冷めて噛みしめている自分と、えっ!こんな凄い映画だったと今を発見している自分。

 バビロン帝国の崩壊のエピソードを引っ張る山の娘。奴隷として売られそうになった彼女を助けてくれたバビロン王、密かに恋い焦がれる王のために戦のまっただ中で死んでいく娘の全身の画面、その静かな長回し画面は彼女が息を引き取ったところから(どう見ても)ストップモーション(と思っていた)ではなく、壁にもたれる彼女の傍らに鳩が2羽動いているのだ。彼女とその周りの空気は動いていない(粒子が止まっている様に見える)のに、2羽の鳩の周りは動いている。そして鳩はフレームから去っていく。死ぬ前にもう一度じゃあ無い。初めて良い絵を見せてもらった。映画はこういうことだ、画面はこういうことだと「近代映画の父」に改めて教わり直した。‥さあこれからどうやって伝えていこうか!

 

 

『母』新藤兼人 昭和38年 近代映画教会

(2019/9/18阿佐ケ谷ラピュタ)

 えっ?プドフキンか?ちょっとタイトル安易でないかい?と思いつつも、だって新藤兼人と音羽信子とご存知殿山泰治だぜ。しかも杉村春子まで出てるんだからなぁ‥と思いつつ‥うん、シンプルに「母」。だから女が見えてくる母。題名はそれしかないだろうなァと。

 脳腫瘍の息子を持つ母。自らも原因不明の不調に悩む母。息子の治療費目当てに三度目の再婚をする母。再婚を強く促すのは母の母。寛容な再婚相手を、しかし心から受け容れられない女。男の連れ子と息子は中の良い姉弟。下請けの下請けの印刷工場を二人で黙々と営みながら、感謝しながら、自分を責める女。印刷機のガッチャン、ガッチャンという単調な音の響きが三人の心の中を浮き彫りにしていく。

 それにつけても新藤映画の乙羽信子は深い。他を寄せつけないオーラを纏う。屈託の無い“百万ドルのえくぼ”は見えず、無言の表情の裏に女を堪える強い性の匂いが見える。

 ガッチャン、ガッチャン。油まみれの仕事場。外で子どもたちは遊ぶ。突然仕事の手を止め、周りを片付けながら“戸を締めてください”。立ち上がってスカートの中のズロースを脱ぐ。ガッチャン、ガッチャン。鳥肌の立つ美しさ。母と女はひとり。

 

 

『飛べない沈黙』黒木和雄 昭和41年 日本映画新社

(2019/9/27阿佐ケ谷ラピュタ)

 見たい見たいと思いつつ、何故か見損なってきた映画って、ある。すぐに飛んで行けない理由があったんだろう。その後の再映でも他の何かと比べていかない理由があったんだろう。覚えていないけど、実はその理由は正解だったんだと、やっと見た時に実感することは、多い。見ないでおけば「飛べない沈黙」は憧れの映画で終わったはず。その方が良かったのかと‥思ったって見ちゃったんだから仕方ないさね。これからもそんな苦さは(ほろ苦さは)味わうんだろうなぁ。切れ切れの画面、唐突な画面転換、超クロース・アップ、幻想的な望遠レンズ、白い衣裳etc‥

 18歳の私なら心躍って、新しい映画を見たことに有頂天になっていたかも知れない。自分の時代の映画、そんな共生感を味わっていたかも知れない。[その時]に見ることの喜びって、ある。共に映画が生きているって幸福なことだ。

 我が師品田雄吉さんが何度も言っていた“新しいものは古くなる”それを見極める眼がないんだから、新しいものは新しいうちに見なきゃアカン。その時見損なったことを大事にしなきゃアカン。でも今だに新しいものと普遍的なものを見極める鼻がないんだから、まぁしょうがないか。黒木監督、スタッフの皆様、そして憧れの加賀まりこさん。ごめんなさいでありがとう。

 

 

『危険な英雄』鈴木英夫 昭和32年 東宝

(2019/9/28新文芸坐)

 サスペンスの鈴木英夫、当時はまるで知らなかったんだけど、ある時アッ!って思って見始めた。どこかに大胆な工夫があって、でも全体に地味って作風が好き。今回は石原慎太郎主演が私には珍しく、しかも都知事石原新太郎と横柄で強気なしゃべり方がそっくり!!というのに驚き。足は長いし、弟裕次郎には負けるけど、それなり格好良い。

 誘拐事件のスクープ合戦と言う、現代では考えられないテーマだが、それが却って今は曖昧に隠してしまったものを露わにしていく。報道の自由と言いながら個人のエゴが生み出す一種の表現がマスコミにはあった(ある)。表現はどこかでモラルを踏みにじって存在した(する)。だから隙を突いて表現は槍玉に挙げられる。でもどっこいいつでも表現というエゴは社会を動かしてしまう。

 志村喬の刑事が志村喬なのにアホ過ぎるのは大いに残念。出演者の最後に三船敏郎と出て、興味をそそるも、どこで出てくるかなんては忘れていたら、誘拐された少年が大ファンの野球選手がテレビで犯人に呼びかける、そのスター選手が‥三船敏郎さんという、似合わないキャラクター(しかもテレビ画面の中だけ)には、いやあ驚いた。これは隠れた三船敏郎の代表作‥は無いな。

 

 

 

• 無駄話(その4)煙草を吸う         ほしのあきら

 本当にやることと本当の様にやることっていうのを殴るシーンと泣く演技で書いてみたんですけど、煙草を吸う演技についてあれこれ思ってみました。煙草を吸う演技でそのキャラクターが一目でできちゃうんだから簡単で難しいんですよね。

• 吸えない役者には無理ですかね。分かっちゃう。でも嘘の煙草を作って、それこそ演技してる人も随分いたんじゃないですかね。私は映画で煙草を吸うシーンと酒を飲むシーンにしびれて、お袋の鏡台の前で水を飲んだり紙を丸めて火をつけて吸ったもんです。

• 煙草に火をつける仕草、興奮します。たいてい一口吸って上手そうに吐いてセリフって流れが読めるからなんですね。

• ジャンギャバンはどこでしゃべり出すか読めなかったです。しょっちゅう吸ってましたから。あれは演技じゃなくて吸わないといられない、ニコチン中毒だったんでしょうね。肺がんで若くして亡くなってますし。

• ギャバンは99%喰わえ煙草から、親指と人差し指で持つんです。でも口から離した後は人差し指と中指で挟んでました。

• ジャンポールベルモンドはほとんど喰わえっぱなし。それもジタンって辛い煙草なんですよ。一度真似したけど、口が苦くて苦しくて、あれが演技だったら凄いなぁと感心しました。

• 菅原文太も喰わえたばこ。しけモク風が品が無くっていい。

• 健さんは着流しになってから吸ってません。ギャングや刑務所では吸ってましたけど、長い煙草は似合わない。ドスは長い方が似合うけど短い方がピッタリ。

• 鶴田浩二は眉を曇らせながら吸う風情は、真似できるようでできない味わいの深さ。

• 淡路恵子が足組んで吸うのが子ども心にうっとりしました。セクシーな女性を体感しました。

• 女性の煙草はワルっぽさを表すのにピッタリ。だって実生活で煙草を吸っているのは広津の伯母さん(母の姉です。そのせいで初めは恐い人だと思ってました。)位しか知らなかったし。

• 音羽信子はいつでも大量の煙を一直線にパーっと吐く。あれはできない‥嘘の煙草か、氷を含んでから吐くか‥1回しか吐かないし‥

• 佐分利信は葉巻が似合う。

• 阿部徹は悪役の時(じゃ無い役は覚えてないけど)吸いながら歯を見せる。金子信夫は悪役の時(だけ)おちょぼ口で吸う。ともにキャラクター作りの上手さ。

• 加東大介が「鬼火」の中で、まず軽く吐いた煙を雲の様にあつめて、深く吐いた残りの煙で吹き飛ばすと言う凄い芸を見せていたんです。貧乏人からガス代を取り立てる集金人という役柄が際立って、今のところ煙草芸ナンバーワンです。

• 好い加減に映画の中で煙草を吸う芸を復活させる監督やプロデューサーが出てこないですかね。映画史に残るかも知れないし、そうでなくても勇気ある表現者だ!って確実ですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

2019年07月17日更新

 

 

 

新生意気坐4月〜6月 ほしのあきら

 

(1ヶ月最低10本が守れない。映画を見るって結構集中力のいるもので、二本見るぞ!が力尽きて帰宅‥とか、“今日は止めよう”とサボりとか‥でもまぁ目標マイナス二本で済んだのは見るぞ!予定を多めに設定しているから。こんなもんだと自分は責めないでおく。

世の中で傑作と呼ばれ、どこかで活字で知っている映画が半分近くある。ほとんどが“こんなものね”と言う印象。期待値が上がっているのもいけないのかも。その中で腹が立つ映画も出会う。これこそ『新生意気坐』で書かなきゃいけないのだろうと思うと、名作も再チェックか。)

 

見たぞリスト

△「誘惑」、△「警察日記」、×「スラバヤ殿下」、△「風と女と旅烏」、×××「真白き富士の嶺」、△「硝子のジョニー 野獣のように見えて」△「遊星からの物体X」、△「光に叛くもの」、○「暗黒街の顔役」、○「家族」、△「貸間あり」、△「白昼の無頼漢」、△「誇り高き挑戦」、△「州崎パラダイス 赤信号」、◎「わが町」、○「冷飯とおさんとちゃん」、×××「弥太郎笠」、○「もず」、

○「赤い河」、△「永遠の戦場」、○「どたんば」、×「たそがれ酒場」、×「伊豆の艶歌師」、○「鬼火」、△「アフリカの女王」、△「聖なる泉の少女」(新作)、△「さようならが言えなくて」(2016年)、○「大阪の宿」

の28本から

 

『真白き富士の嶺』森永健次郎 昭和38年 日活

(2019/4/17神保町シアター)

 誰だ!「涙を禁じ得ない名品」と俺をけしかけたのは?確かに吉永小百合と芦川いづみが姉妹で、妹小百合が死んじゃうって聞けばハンカチ握って飛んでくさ。でもね、薄っぺらな純真無垢しか見て無いじゃないかい。太宰治の原作「葉桜と魔笛」は純真無垢が生と死の狭間でもがく残酷さが悲しいんだ。その静かな抵抗が凄まじくも愛しいんだ。そこをさらっと見せて、明るい姉妹と病床の妹とその後の姉だけを、きれいきれいに切り取って、そんで名曲乗っけて、涙なんか出るか!

 

『暗黒街の顔役』ハワード・ホークス 1932年 アメリカ

 (2019/4/26シネマヴェーラ渋谷)

 この日は何とホークス3本立て!その最後。さすがに疲れたけど、オシ!ちゃんと見たぞぉ。傑作と言われるだけの中身があるって言えばあるし、まぁ、こんなもんだって言えばこんなもんだ。主演のポール・ムニって知らないし、特に目立つ役者がいる訳じゃないけど、群像劇として緻密なんだろう。というよりも、一人ひとりの描かれない過去と個性がしっかりと設定されているんだろうと思う。だから、みんなカッコいい!これは「仁義無き闘い」と同じだ。

 半端無く飛び交う銃弾やガラスの破片。バイオレンス描写は凄まじい、って言えば凄まじいし、それなりって言えばそれなり。最近の映画のバイオレンス感はこんなもんじゃない。だからと言って最近の映画の方が凄いとは少しも思えなかった。危険なことやってるんだぞっていう緊張感とか、大変だから何度もデキナインダゾ!っていう必死さとか、他はここまでやってないぞっていう優越感や誇りとか、そんなもんが画面に取り憑いてる。その力は充分に感じた。

 90年近い前にこれだけのことやってくれる映画があれば、後に続く制作者たちは勇気が出る、そういう先駆の存在感がある。今の映画はもっと飛び交う銃弾も硝子の破片も、もっとリアルに見える‥いや、実際を見たことなんか無いからそう思える‥オーバーさが、描写を軽くしていないか?この映画のバイオレンスは少なくともポップコーン食べながらは見られない重さがある。ということは、身体と心で引き継いでいないものがあるんだろうと‥‥当たり前の結論になってしまった。まぁ、そんなもんだ。

 

『わが町』川島雄三 昭和31年 日活(2019/5/10神保町シアター) 

  ここにもあったぜ、侮れない日活文芸映画!明治時代に列強が挫折したフィリピンでの過酷な道路建設を指揮して、多くの同胞を失いながらも成功させて日本の名を高めた男、辰巳柳太郎(職業車引き)が大阪の長屋に戻ってからの明治・大正・昭和の長きに渡る奮闘記。ホントに長い。だってあの北林谷栄が年相応の若いおかみさん役で出て来て驚く(これ、必見かも知れない)けど、最後はいつものお婆さん姿になってホッとするんだから。

 最愛の妻南田洋子は、えっ!もう死んじゃうのってくらいすぐに幼子を残して死んでしまい、娘を男手一つで育てる車夫辰巳。その娘もやっぱり幼子残して死んでしまい、孫を男手一つで育てる車夫辰巳。(成長した孫娘が南田洋子の二役で安心したけど)

 フィリピンで死んだ多くの同胞の恨みだという話しも出てくるが、あまり気にしない車夫辰巳。軍国主義批判も見え隠れするがそれもあんまり表に出さない脚本八住利雄と川島雄三。大阪の裏通りと人間模様がモノクロの世界に躍動する。高村倉太郎さんの生み出す画面は、その人柄通りに飾りッ気が無くてあったかい。車夫辰巳のくさい演技が柔らかく見られてエピソードが綴られていく。

 どことなく「無法松の一生」をまったり見ているムードの中で、さあ、クライマックスは年老いた車夫辰巳が若いチンピラに絡まれるというシーン。これが、これが!哀しい‥切ない‥威勢のいい啖呵の後は、殴られけられ‥惨めにうずくまり男泣きの車夫辰巳だった。涙も乾かない間に〈わが町〉の全景カットで幕。良くある終わり方だけど、こんなに全景カットが愛おしく見える映画は久し振り。

 

『冷や飯とおさんとちゃん』田坂具隆 昭和40年 東映

(2019/5/11阿佐ケ谷ラピュタ) 

 錦ちゃんは私7歳の時に「笛吹き童子第一部どくろの旗」を見て“なんてきれいなお兄さんなんだろう”と、大ファンになりました‥けどいっつもおんなじお兄さんで中学生の章ちゃんは見向きもしなくなっていました。久し振りで見た錦ちゃんは「宮本武蔵 般若坂の決斗」。ずいぶんカッコいいオジさんになってたけど、興味は内田吐夢と宮本武蔵で、他の錦ちゃんを見るほどに興味は持てませんでした。しかし、この後から密かに〈錦ちゃん革命〉は動き出していて、白塗りで舞うような剣さばきで決して死ぬはずが無い錦ちゃんから脱皮していったのです。これはそのきっかけかも知れません。

 ここにいる錦ちゃんは子どもの頃に憧れた錦ちゃんのオジさん版で、その後に見た革命錦ちゃんではないけれど、脱皮しようと言う踠きは充分に感じられました。山本周五郎と今井正と錦ちゃんのコラボですから、つまらないはずはありません。「冷や飯」の小沢昭一は良い感じのミス・キャストで、三田佳子のおさんはゾクッとするほど妖艶で、「ちゃん」の森光子女房は可愛くて、やっぱち泣いちゃいました。錦ちゃんの演じ分けはさすがでした。ともかく表情の変化と微妙な動きのスピードにかけては錦ちゃんの右に出る役者は今も昔もいません。

 でもやっぱり「瞼の母」や「日本侠客伝」、そして何より「沓掛時次郎 遊侠一匹」の錦ちゃんには敵いません。見て良かったけど、見なくても良かったと思います。

 

『弥太郎笠』マキノ雅弘 昭和35年 東映

(2019/5/15阿佐ケ谷ラピュタ)

 だから、これは見ちゃいけなかったんだす。そのまま幼い心にしまっとけば良かったんだす。ついつい〈マキノ雅弘〉につられてしまった私がおばかさんなのだす。ぬるいぬるい大ぬるい、マキノ節が人情に流れて細部を見ないで描くとこうなると言う、悪しき見本みたいな映画だす。

 いや実は間違えたんです。子どもの頃兄貴に連れられて池袋に見に行った錦ちゃんが唄いながら(酔っぱらった様に)敵を斬っていく映画が、子ども心には“錦ちゃん、かっこ良くない”という記憶、でもけっこう頻繁に蘇ってくる思い出になっている映画があって、その時の劇場が急な階段の下の方にスクリーンがあったという記憶まではっきりして、それが〈マキノ雅弘〉映画!だと分かって、タイトル忘れて(だって似たような題名がいっぱいあるんだもん)‥これだろう!と勇んで行ったんだす。

 はい、忘れます。そしてあの“かっこ良くない錦ちゃん”は今でもかっこ良くないのかどうか、確かめます。

 

 

『もず』渋谷実 昭和36年 松竹(2019/5/18神保町シアター)

 戦後間もなく〈田中澄江〉は社会と女性の関係を未来を見据えた眼で描いたステキな脚本家だと思う。彼女に続く水木洋子は女流脚本家の地位を確かなものにした。それは多分男とか女とか、そういうことではない視点で見事なシナリオを書いたからだろう。そんな水木洋子が安料亭の住み込み女中たちを描いたら、やっぱり社会と女との闘いが生き生きと見えてくる。

 「もず」という題名の意味がピンとこないまま、女が食べていくためにはこれしか無かったんだよと男の庇護を受けている女中の淡島千景母と、美容師として上京して自立した生き方を探す有馬稲子娘の葛藤を軸に、しぶとく生きようとしながら、どこかでため息と叫びを上げたくなる女たちが見せつけられる。

 シベリア抑留から帰国した父は、私が生まれてすぐに亡くなった。母は父の勤めていた会社がそのまま雇ってくれたので、千景母ほどの苦労はしなかったと思うが、晩年になって、会社の宴会では男どもの酌をしなければならないし、歌を唄えと強要されるし、それが嫌で嫌でしょうが無かったと話していた。それが当たり前の社会だったのだ。稲子娘は私の二番目の兄と同じくらいの年だろう。兄が会社の宴会での母を見たらどんな気持ちだろう。私には両者の気持ちが分かるようで分からない。分からないが分かる気がする。母は、そこから逃れるために踊りを習い、盆踊りに連れて行かれた私は太鼓に出会った。踊りを終世続けたこと、その流れで三味線を習ったことが私の和太鼓や孫の津軽三味線につながったのだ。千景母と稲子娘にも、この先きっと新しい道が見えてくると願っていた。

 もずは獲物を小枝などに突き刺しておく習性があると言う。獲物は男か自分自身か母(娘)か、分かるようで分からない。分からないが分かる気がする。

 

 

『赤い河』ハワード・ホークス 1948年 アメリカ

(2019/5/19シネマヴェーラ渋谷)

 言わずと知れたジョン・ウェイン主演の西部劇。西部劇やチャンバラ映画は分かりやすくて楽しいです。その分アラも目立つし納得させるのはけっこう難しい。ストーリーはそれなりに凝っていて、充分乗れますが、ここでは牛です。1万頭の牛を10数人のカウボーイたちがテキサスからカンザスまで連れて行くと言う、その説得力。1万頭は出てこないけど、その数はいや凄いです。本物の牛さんが動いて、その間をカウボーイたちが動くだけで見入っちゃう。演技が下手だろうがなんだろうがジョン・ウェインのでかさはそれだけで絵になります。西部劇で泣いてる女とでかい男はサマになる!です。河を渡る(渡らせる)シーンなんて固唾を飲んで見ちゃいます。やっと町に牛さんたちが入っていくシーンなんか可愛くて、町の人たちも待ってた牛さんを笑顔で迎え入れて、しあわせなきぶんです。

 これC・Gなんかでやったら、ただただ気持ち悪いだけです。

 

 

『どたんば』内田吐夢 昭和32年 東映 (2019/5/28新文芸坐)

 最後まで目が離せない!いやあ、こんな傑作があるなんて知らなかった。小さな炭坑がいくつもあって、そこは質の悪い石炭もどきしか採れなくて、環境は劣悪で、経営はいい加減で、そんなところで生活するしかない人々がいて、朝鮮人だけの炭坑もあって、落盤事故が起こればみんなが協力しあって助けようとするけど、救助は上手くいかずに焦ったりエゴがさらけ出されたり、もう釘付け。

 ベテラン志村喬から新人江原真二郎まで5人が生き埋めになったのに、雨が降る!坑道の水をポンプで吸い上げてるその横で雨が降り続ける。ある意味で「七人の侍」の雨より凄い。地上と地下のカットバックは果てしなく続きサスペンスが増幅していく。脚本(橋本忍)の力を感じるし、ここから撮るしかないだろうって言う撮影(藤井静)の頑固さも敬服。だけど壊れそうな簡易な昇降機を皆んなのために一人で上げ下げし続けた娘(中村雅子)に最大の拍手!!

 

 

『鬼火』千葉泰樹 昭和31年 東宝(2019/6/11阿佐ケ谷ラピュタ)

 昭和30年代初め頃から盛んに作られた中編映画は長編の併映として二本立て興行が行なわれた。SP(シスターピクチャー)と呼ばれた。新人監督の登竜門だったり、喜劇だったり、怪談映画だったり、お遊びたっぷりだったり、ベテラン監督や俳優が肩に力を入れないで作ったりと様々あって、今思うと、メインの長編よりも幅広く楽しめる小一時間だった様に思う。‥そういえば「笛吹き童子」もSP映画だった。

 名傍役が主演するものも少なくなかったが、これは加東大介。ガスの集金人が未払いの料金を取り立てに立ち寄ったあばら屋には寝たきりの宮口精二と透き通る様に美しい美人妻津島恵子‥あれ?「七人の侍」で見た三人がまるで違う役柄で絡んでる。

 美人妻はもう雑巾にしてもおかしくないような浴衣に下紐だけ。家のセットと衣裳が話しに大きく説得力を生んでいる。白黒で細部がそれほど見えないからというのもあるが、かっての美術の仕事は当たり前の様に力に溢れている。集金人加東は支払いを待ってやるから夜自分の家に来いと美人妻恵子に迫る。美人妻恵子は帯を質屋に入れてしまい、下紐だけで、仕方なく出かけようとすると、寝たきり宮口は黙って自分の帯を渡す。‥‥ここから先は悲劇、そして恐怖。美しく、幽霊の様に透き通って見えた妻と言葉無く黙って伏しているしか無い夫。きっと二人は幸せだったんだろうと、願いたいような後味の悪い美しさだった。

 

 

『大阪の宿』五所平之助 昭和29年 新東宝(2019/6/27シネマヴェーラ渋谷)

 新藤兼人映画以外の乙羽信子はキャッキャ女が多い。ここではキャッキャと深く辛さを隠す女の二面性が卓抜で、その落差が〈描かれていない〉部分を浮き彫りにしている。

 上司を殴って東京から左遷させられた佐野周二と売れっ子芸者の乙羽信子が何でそんなに親密になったのか映画的には余りよく分からないが、ふがいない夫のために住み込み女中として働き客の財布を盗んでしまう水戸光子も、家を支えるために一度だけ客を取ってしまう町工場の娘安西響子も、誰とでも寝てしまう女中の左幸子も、少しづつ深みにはまっていく。女どもは生きるために耐えている。戦後間もない日本はこんなことが少なからずあったんだろうと当時6歳の私は知る由もなく、たまに10銭をもらって紙芝居を見るのが楽しみだった。でも、長兄は家のために中学を出て働いていた。私のためにお土産をくれたり、流行歌を唄ってくれたり、映画に連れて行ってくれたり‥いまだに兄は何も言わないがきっと絶えて行きていたんだろう。言いたくないのだろう。

 再び東京に戻される佐野周二と女たちがささやかな送別会を開く。安西響子は誘われたが来なかった。彼らの楽しい歌声は女たちの抵抗だ。強さだ。次の日、真っ黒になって働く手を休めて安西響子は東京へ向かう電車をきっと睨む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

2019年04月09日更新

 

 

 

新生意気坐1月〜3月 ほしのあきら

 

(この3ヶ月は余り劇場に通えなかった。予定はしていたが、どうしても変更しなければならないことがあとから入って来て、12本ぐらい涙を飲んだことになる。その内ではハイロの二代代表大房潤一氏の死が大きい。他のところでも書いているが、私が一時ハイロを辞めたあとを引き継いで、たった一人でハイロを守ってくれたのが大房氏だ。彼がいたから私やマエダ・シゲル氏は戻る場所があり、ハイロは約49年もの間存続している。59歳の若さで亡くなった大房君に心からの感謝と追悼)

 

誤字脱字まっぴらごめん。読んで下さっている方々、ありがとうございます。

(そう言えば“蟻が十なら芋虫ゃ二十歳、ミミズは25で嫁に行く”って『男はつらいよ』で覚えて気に入ってるんだけど、ほとんどの人が知らない、覚えてないって、少し悲しい。)あっ5月から元号が変わる!

 

見たぞリスト

• 「いのちぼうにふろう」、○「しろばんば」、△「拾った女」、○「その女を殺せ」、△「恐怖の時間」、○「東京湾」、×「目撃者」、○「まぼろしの市街戦」、△「影の爪」、△「父子草」、△「ある関係」、×「裸の銃弾」、△「その口紅が憎い」、○「こどもしょくどう」(新作)、△「無理心中日本の夏」、○「不良少年」、△「シャレード」、×「サムライマラソン」(新作)、○「彩に愛しき」、

×「乳房よ永遠なれ」、×「ずぶぬれて犬ころ」(新作)、×「怪盗X首のない男」、○「幸せは俺等の願い」

の23本から

 

 

『しろばんば』滝沢英輔 昭和37年 日活(2019/1/4阿佐ケ谷ラピュタ)

 うーん映画が滲みる。曾祖父の妾だったお婆さん(北林谷栄がしっかり嵌まってる)と二人きりで暮らす少年と、美しい叔母さん(芦川いづみがしっかり美しい)や本家の一家そして実の親との何だかややこしい関係‥‥そそられる設定は前から見てみたかった。

 一筋縄ではいかない流れ。特に大きな事件がある訳じゃなく、彼らの彼らにとって当たり前の日常に見入る。そこに不思議な空気が流れ、特になんてことの無い田舎の風景が懐かしく浮かび上がる。お婆さんも本家の姑もお嫁さんも自分の立場で相手に文句を言ったり受け容れたり、つまり関係が画一的ではない。こういう設定だからこうなるだろうという映画的な展開が、その人のその時の状況と気持ちに裏切られて流れていく。少年の実の母(渡辺美佐子の表情が良い)は厳格で冷たく見えるが、だからと言って少年も母もお互い嫌っている訳ではない。少年が憧れる本家のお姉さん(芦川いづみがまぶしい)は学校を出て少年の小学校の先生になるが、同僚の先生と恋仲になり夏休み中に妊娠して二人で引っ越してしまう。貧しい少年を近所の子どもはからかうものの、だからと言って一方的にいじめている訳ではない。

 つまり、かってはどこにでもあった日本人の関係がそのまま放り投げられているのだ。頭で生活するのではなく、身体の中から湧いてくるものに支えられて共同体が作られているのだ。差別があり、お互いが差別を受け容れて自分を守っていく。どんどん裏切られて、しかし違和感どころか素直に環境に立ち向かっていく心情が、快かった。

 

 

『その女を殺せ』リチャード・フライシャー 1952年 アメリカ(2019/1/10シネマヴェーラ渋谷)

  大抵のミステリーは途中で何かが分かって、そこから流れが少しずつ納得していって、最後は大納得になるものだけど、この列車の中はドンデンどんでんまたドンデン!少しオーバーに言えば、息継ぐ暇もないスピーディな展開。もともと映画に騙されやすい正確だけど、こんなに騙される映画も久し振り。つぼを心得た職人監督がシナリオ、撮影、編集と、全てを手のひらの中で転がしているような、しゃくな映画。

 

 

『東京湾 左ききの目撃者』野村芳太郎 昭和37年松竹 

(2019/1/14シネマヴェーラ渋谷)

 いやあ、見て良かった!以前テレビで何気なく見て“ふーん”と思っていたのがこんな傑作だったなんて。いや、テレビを否定してはいけない。テレビに対する自分の姿勢を反省しなくてはアカン。だけども‥‥やっぱり劇場で見てこそなのかなぁ‥‥

 主人公は後輩の若い刑事と西村刑事の娘で、これは紋切り型でマアどうでも良い。二人だけ生き残った戦友が刑事(西村晃)と犯人(玉川伊佐夫)、そのやり取りがやり切れなくてしょうがない。犯人の知恵遅れの奥さんが絡んで、しかし二人は自分の立場から対立を崩さずに悲劇へとひた走る。ラストで列車の中で揉み合う二人は、手錠でつながれたまま死んでしまう。

 

 

『まぼろしの市街戦』フィリップ・ド・ブロカ 1966年 フランス (2019/1/18ユジク阿佐ケ谷)

 ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが眩しい。演技?ともかく眩しいんだからそれで良い。ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドなんて難しい名前を良く覚えたもんだし、良くいまだに忘れないでいるもんだと我ながら感心する。彼女に再会できただけで満足。色あせない眩しさに加えて、リアルを超えて皮肉たっぷりのストーリーでもうお腹いっぱい。

 時代性を大切にすると映画の寿命は短くなる。あえて時代を捨てた世界だから色は褪せようが無い。ドイツ軍とフランス軍もおもちゃの兵隊さんの如く。兵隊たちはリアルだが、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが登場すればリアルなんかは消滅してしまう。意味深な門で区切られた病院の世界がひろがってジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが小さな町にはびこって、すべてがひとつになってしまう。町の境から先にはジュヌヴィエーヴ・ビジョルドは絶対に行かない。リアルには踏み込まない。そして突然にジュヌヴィエーヴ・ビジョルドは病院に帰っていく。ふっとこちらを振り向いただけで。もちろん我々は病院の中に住み込む。それで良いのだ。だって、やっぱりジュヌヴィエーヴ・ビジョルドだから。

 

 

『不良少年』羽仁進 昭和36年 岩波映画

(2019/2/10シネマヴェーラ渋谷)

 実際の不良少年を起用して作った映画、というそれだけで凄過ぎるとビビって見るのを避けていた。羽仁進むという人は方法論において、他よりも優れた感性の持ち主として羨ましい。小学校の教室にカメラを据えてフィルムを入れずに回し続けて、子どもたちが慣れて来たところでフィルムを回して生き生きとした表情と姿を映し出すことから初まり、全編8ミリで撮影して35ミリにブローアップしたり、そうしなければ描けない、そうしなければ現出しない[幻出する映画]を見せてくれた。それは、最もアンチ権威だ。

 画面にはカメラの背後の人たちの足跡がある。優れた絵画は画家の足跡だらけだ。ここに足跡は確かにあるのだが、しかしよく見えない。こんな足跡もあるのだ。きっとそれは映画人の足跡ではなく、[にんげん]として関係を結ぼうとした足跡なのだ。内容とか面白いツマラナイではなく、[にんげん]の誠意の営みを見た気がする。

 

 

『彩に愛しき』宇野重吉 昭和31年 民芸

(2019/3/22シネマヴェーラ渋谷)

 精神病に蝕まれた妻の田中絹代が凄いです。まるで映画的ではないんです。ちょっとした仕草や表情が“うん?”なんです。特に目が“うん?”と見える瞬間の恐さは心に積み重なるんです。病院に隔離されてからも、普段のように見える時もあれば“うん?”の時もあるという繰り返しに、文学者の夫(信欣三って凄い役者だったんだと)が悩み、そんな家族を周囲の人たちが暖かく包み込むという盛り上がりの無い話しが盛り上がっていくんです。

 新藤兼人の脚本も相変わらず良いんだけど、夫と周りの人々の分かりやすい困惑を、妻の“うん?”が分かりにくくしていくという、凄みに眼が離せなくなったんです。奥さんはきっとこのまま退院できないんだろうな、旦那さんと子どもたちはどこで覚悟できるのかな、そんな、でも絶望ではなくて生きるというエロスを感じさせるラストだったんです。

 ちなみに、「愛しき」と書いて「かなしき」と読ませるタイトルです。これ、深いんだとエンドマークで思いました。

 

 

『幸せは俺等の願い』宇野重吉 昭和32年 日活

(2019/3/27シネマヴェーラ渋谷)

 続けて新藤兼人脚本とのコンビ作。題名通りと言えばそれまでの内容だけど、冒頭からもうすぐ結婚するフランキー堺と左幸子がどうでも良い幸せ感を発散するが、浮浪児のような兄弟4人が同居することになると題名が突然深いものになる。話しそのものは大して複雑でも長くもない。そのかわりひとつひとつのエピソードをじーくりと描く。描くと言うよりも見詰める、じっと見続けるという言い方が相応しい。そこで題名の深さがさらに深くなる。

 バラバラにもらわれていった兄弟が少しもかわいそうな素振りを見せず、しかし再び明るい若夫婦の許に戻って来て、新婚で4人の子持ちになった二人との新生活に題名はさらにさらに深くなる。フランキーお父さんと5人で風呂に向かうは徐々に徐々に彼らから遠ざかっていくラストシーン。あっ!これはイタリアン・ネオ・リアリズムで見た、あのの世界だ。

 宇野重吉って役者としてもその癖のある立ち居振る舞いが好きだったが、監督としても好きになった。この二年後に「硫黄島」という戦闘シーンの無い反戦映画を作っていると言う。ぜひ拝見したいと思った春の夕暮れだった。

 

 

• 無駄話(その3)

 年金暮らしでの映画館通いも大変で、体力的にも大変です。けっこう増えて来た東京近辺の名画座で、やっぱり行きつけ名画座が固まって来ています。

いくつかの映画館を個人的なデータで比較してみました。

料金と所用時間と、それぞれの居心地の良さと悪さを考えてみました。

 

 • シネマヴェーラ渋谷→友の会で800円。9ポイントで1回無料。                                  だけど、それを言ってくれないので忘れることがある。

        =1本720円

        徒歩を含めて約60分、往復600円

        計1回1320円

        トイレが狭いので、下の階のユーロスペースを借り

                            られる。ロビーも狭いので居場所が無い。喫煙所は

         徒歩二分の路上に近所のお店が用意してくれてい

        る通りがある。ありがとう。その辺りには名曲喫茶

          「ライオン」(昭元年からある!!)。間隔をおいて

        二本見る時はここでゆっくり煙草とコーヒー。さら

        に、近くには「とりかつ」と「ムルギー」と「イ

        デイラ」と「麗卿」と50年以上やっている店、

        つまり私の青春がまだあるのが自慢。

 •  神保町シネマ→友の会は無し。5回で1回招待券=1本937円

       徒歩を含めて約75分、乗換え無しで往復1000円

       計1回1937円

       ロビー狭くて、神保町近辺は路上喫煙ダメできびしい。

       近くのドトールの30円引き券が置いてあるのでそこへ

       急ぐか帰るまで我慢!目の前に古くからの「キッチンく

       ろんぼ」があるが、昔ほど魅力は無い。町はさすが神保

       町で歩くのが楽しい。

 •  新文芸坐→友の会はシルバー料金と同じだが、8ポイントで招待券

          二本立てで頑張ってくれている=1本489円

       徒歩を含めて約80分、山手線に乗換え往復940円

       計1本1429円

     大きいスクリーンはどこで見ても見やすく、座席は背もたれ

     がしっかりしていて、寝るのも最適。途中で出たい時は、後

     方の出入り口がエントランス付きで退屈で帰りたい時は気が

     楽。大きな喫煙スペースがあったけど、つい撤去され、途中

     外出も出来ないので結構地獄。ロビーで軽食や飲み物を安く

     販売しているのが救い。スタッフがゴミを集めにくるのも昔

     ながらの映画館。映画館としての自己表現がはっきりしてる。

     ただ、券売機は受付順に入るという煩わしさは無くて良いん

     だけれど、嫌だ。

 •  ラピュタ阿佐ケ谷→友の会で800円。

                               5ポイントで1回招待券でかなり得だけど、この招待                                 券は1ヶ月間限定なのを忘れて使えなくしてしまった                                 ことがある。上手く予定を

           組まないと=1本667円

           徒歩を含めて約85分、山手線から総武線に乗換え

           てめんどくさい往復1040円

         計1本1707円

         ロビーは1階に椅子とテーブルがいくつもあるけど、

         けっこう埋まっている。コーヒーも売っている。持

         ち込みは食べるのに気が引ける。外の木のベンチは

         余り座る人が居無いので私の特等席。庭にはまだ喫

         煙所があり、これは頑張って欲しい。トイレは二カ

         所あるけど各一人用なので駅を使う。シネマヴェー

         ラとラピュタは受付が素人っぽいお嬢さん。50人

         ほどの小ささなのでアナウンスは地声で毎回人の匂

         いが。しかもお嬢さんは一緒に見てるんじゃないか

         と思う(確かめてないけど)。さらに受付がきちんと

         番号順。10番目が6番目より早くは入れない。Fiaf

         =国立映画アーカイブ並だけど、お嬢さんがやるか

         ら誰も文句いわない。ここもしっかり人間くさい自

         己表現、だらけ!

 •  早稲田松竹→一度閉館されたのを市民が再生させたことは余り伝わ                      っていない。

     友の会はないけどシルバーは二本立てで900円。

     券売機だけど係がすぐ飛んで来て説明態勢に入るから我慢

     しよう。

     徒歩を含めて約80分、山手線に乗換え往復940円

     計1本1390円

     作品選びの根拠が余り合わないので行く回数は少ないが、

     表現意図が分かる劇場。新文芸坐と早稲田松竹は前の椅子

     との間隔が広いので座りやすいし動きやすい。喫煙所は劇

     場前にあるけど休憩中のみで、開映すると係がしまう。け

     っこう周りと闘っているんだろう。途中退場の券は欲しい

     人に係が渡す。売店が無くて、隣にコンビニがあるからか、

     煙草以外でもけっこう出て行く。このシステムが無かった

     ら狭いロビーはけっこうごった返すだろう。ここの係は働

     く姿が目にりやすいから気が抜けない。 

 

ということで、もちろん名画座は他でやらない映画を見せるという自己表現が第一だけど、どうやってその時間を感じさせるか、その空間をどう使うかも含めての表現だから、それを味わうのも楽しみな訳です。家庭の居間とは違う、シネコンとは違う時間と空間を楽しみに、また今日も出かけます。今日はラピュタ阿佐ケ谷の錦之助特集だ!   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

2019年01月06日更新

 

 

 

新生意気坐10月〜12月 ほしのあきら

 

(やっと別の人が書いてくれた。スナミマコト氏。フィルムに直接形を創ることで他の追従を許さない人。真面目に映画に向き合う人。これからもお願いします。)

 年内に書き上げるつもりが、やっぱり年越し。しかも、誤字脱字まっぴらごめん。読んで下さっている方々、今年もよろしくお願いします。

 

見たリスト

• 「湖の琴」、×「山麓」、×「続飛車角」、○「アンナ・カレーニナ」(新作)、

×「ど根性物語 銭の踊り」、△「雲右衛門とその妻」、×「武士道残酷物語」、

• 「続花と龍 洞海湾の血斗」、◎「カメラを止めるな」(新作)、△「雲の上団五郎一座」、○「駅馬車」、×「アトランタ号」、×「ツナグ」(平成作)、○「駆け込み女と駆け出し男」(平成作)、×××「ハナ子さん」、△「サンダカン八番館 望郷」、○「雁」、○「お願い、静かに」(新作)、△「こんな風景」(新作)、○「チプカ」(新作)、◎「人生劇場 新飛車角」、×××「悪坊主侠客伝」、×「関東流れ者」、○「女渡世人 おたの申します」、◎「博奕打ち 総長賭博」、「博奕打ち 命札」、△「祇園の暗殺者」、△「牢獄」、○「道化師の夜」、△「風の中の子ども」、○「お早う」、○「日本女侠伝 侠客芸者」、○「任侠列伝 男」、○「500年の航海」(制作期間35年のしんさく!!)、○「生まれては見たけれど」、×××「広い天」、○「ふけよ春風」

                          の37本から

 

 

『武士道残酷物語』今井正 昭和38年東映京都(2018/10/22阿佐ケ谷ラピュタ)

 今井正と中村錦之助の黄金コンビが組み、戦国時代から現代サラリーマンまで、七つのエピソードで「忠義」の持つ悲惨さを描き、ベルリン映画祭で金熊賞受賞!という凄い映画を、見たい見たいと55年、やっと見た!‥‥見たいだけにしておきゃ良かった。

 だって、最初にサラリーマン錦之助(格好悪い錦ちゃんは見たくなかったよぉ)の恋人が自殺未遂で病院へ。“私の先祖の被虐の歴史の血が私にも流れてる”なんて言って、ご先祖達の忌まわしい話しへ。しかも出てくる錦ちゃん皆んなが皆んな、“あっこれで虐められるな”って分かるから驚かねえぜ。痛くもねえぜ。悲しくなんてあるもんかい。自慢じゃねえが、こちとらベルリンの人たちよりも武士道の残酷さには麻痺してるんでい!おいベルリン、七変化たってこちとらどれもどっかで見た衣裳なんでい!サラリーマンは別だけど(しっかし似合わないなぁ)‥‥公開の15歳の時、いやせめて10代でお会いするべきでした。

 

 

『続花と龍 洞海湾の血斗』山下耕作 昭和41年 東映京都(2018/10/22阿佐ケ谷ラピュタ)

 同じ日に見たんです。錦ちゃん。カッコいい!この泥臭さい動きと表情は何をするか分からない。分かっているお馴染みのストーリーが分からなさでどんどん膨らんでいく。錦之助の素早い表情の変化は情念に向かっていく。今の役者が頑張っても到達できない「くさい」演技だ。動きも速い。ちょっとした動きが説明を吹き飛ばす。だからどんどんはまっていく。名演技ってこういうことを言うんだなぁと感心する。監督山下もクールだから逆に玉井金五郎とおマン(しかし何でこんな笑えるネーミングなんだ?)の夫婦の「その時」に引き込まれる。ラストの洞海湾なんてちっぽけな何の変哲もない港。その血斗は錦ちゃんボロボロ。斬られまくるだけ。もうやめろ!って叫びたくなるほど。怒って相手の刀奪って斬れ!って泣きたくなる。度胸と根性‥‥いや、ロマンだ。

 

 

『ハナ子さん』マキノ正博 昭和18年 東宝(2018/11/10シネマヴェーラ渋谷)

  冒頭に「撃ちてし止まむ」の大きな文字。戦意高揚を目的とした国策ミュージカル。しかしこの映画を見ている限り、暗さも重さも無関係で、日本の銃後は何の問題もない。お隣同士が助け合って、贅沢をしないで、出征する兵士は明るく送り出して、運動で身体を鍛えて、張り切って生活をするのだ。と明るく楽しく元気づけようとする。主題歌の「お使いは自転車に乗って」はこの5年後に生まれた私も口遊んだことがあるからヒットしたのだろう。

 歴史的には既に大都市では空襲があり、山本五十六元帥は戦士し、アッツ島では玉砕もしている。だから、この映画を見て元気づけられた国民は確かにいたんだと思う。何の問題も訴えてこないだけに、凄い問題を含んだ映画だ。

 ハナ子さん(轟由起子)は屈託なく元気で五郎さん(灰田勝彦)との結婚も問題無く許されて‥‥ドラマにならず幸せそのもの。妊娠して男の子か女の子かと気をもむけど、健康な男児を生んで皆んなにバンザイ、バンザイと祝福されて‥‥女の子だったら周りはどうだったんだろう?女の子を産んだ女性が見たらどう思うんだろうとか‥‥幸せそのもの。バケツ・リレーの訓練も元気で明るく、空襲があっても近所に被害無し。

 で、ついに五郎さんに召集令状が来るのだが、ここからがマキノミュージカルの真骨頂。突然、ホントの突然に公園でバレェが始まる。どこの誰だか知らないけれど若い姉ちゃん達のレビュが真俯瞰の画面を中心に始まる。終わると何事もなかったように五郎さんは“君だと思って戦地に持っていくよ”とおカメのお面を出す。ハナ子さん“私あなたに何かしてあげたいの、何が良い?”五郎さん“何もいらないよ”ハナ子さん“ううん!何かしてあげたい!”笑ってハナ子さんはでんぐり返しを、し‥し‥したんです!ホントなんです!嘘じゃありません!この目で確かに見たんです!信じて下さい!!(まさに刑事映画のセリフそのまんまの感想)

 大島渚監督の「帰って来たヨッパライ」デデングリ返ししながらのセリフがあった。同胞マエダ・シゲル君(生意気坐の命名者)は出張先ででんぐり返し続けて自宅に戻る「でんぐり返る」という作品を作った。私も拙作「ここにもコーモリ」で男に愛想を尽かした女がでんぐり返ってベッドを離れた。今更映画でのでんぐり返しに驚かないはずが、このシチュエーションで???と。しかも映画はこれ以上進展しない。だっておカメの面を後頭に付けたハナ子さんはススキの原を笑って走っていっちゃったんだから。えー!なんなんだ?という謎を残して走っていっちゃったハナ子さん、あなたは一対何人いたの。

 

 

『人生劇場 新飛車角』沢島忠 昭和39年 東映(2018/11/19シネマヴェーラ渋谷)

 東京オリンピックの年、戦後日本の一区切りのこの年に、何でこんな映画が生まれるのか?名作人生劇場とも飛車角ともおとよとも関係ない。戦後間もない日本人の生き様と死に様‥‥チャンバラ映画の名手沢島監督が起死回生で大ヒットさせた「人生劇場」の続編がイマイチで、さらに挑んだ異色作。だいたい「新‥‥」は大したこと無いもの。浅草名画座が廃館する前に、何かの同時上映で期待も何もせずに見て、驚いて喜んで席から立ち上がってしまった映画とやっと再会した。どうしようもない悲劇を書かせたら右に出る者はいない笠原和夫の脚本も光る。

 初見の時はぼーっと見てしまっていた前半部に、戦後間もない社会で生き抜くこととやくざ社会で仁義が廃れていくことの相関が描かれ、悪役佐藤慶も含めた登場人物全員が必死に生きようとする権利を見せていた。

 スピーディな演出で知られた沢島監督ならでは、主要人物の登場の仕方がキャラクターを浮かび上がらせて目を見張らせる。これでテンポが生まれる。しかもエピソードの見せ方と閉じ方が見事で、凡庸な監督なら二時間以上かけないと描けないだろう内容を、まさに畳み掛けるように積み重ねていく。鶴田浩二を心で愛しながらも身体は西村晃を求めてしまう佐久間良子の、過去と今の狭間を生きている表情が何とも愛おしい。それぞれの人物にさまざまな自分を投影できる、愛の物語だ。鶴田を助ける志村喬の存在感も凄い。

 

 

『悪坊主侠客伝』大西秀明 昭和39年 東映(2018/11/19シネマヴェーラ渋谷)

 いやあ、何を見たんだろう?‥‥大西秀明と言う人は先にも後にも、この1本しか知らないが、バランス感覚が壊れているのか、ステレオタイプの話しに自らの主張を強引に盛り込もうと抗ったのか?

 元僧侶で自分の目を斬ったやくざを追いかける近衛十四郎はともかくうるさい。細かいことを気にし過ぎる。話しを良く説明してくれるだけでなく動きも表情もうるさくて、結果映画としての凄みが無い。静と動とか緩急が皆無だから錦ちゃんとはまるで違って、緊迫感が出ない。せっかく目が見えないのに居合い切りが凄いんだから、監督が抑えられ無かったのか。スター第一主義の悪癖か、ともかく退屈。退屈過ぎて眠くもならない。

 ところが!ですよ。中途半端な御都合主義と無理矢理引っ張って時間を稼ごう主義にじらされてやっと!でもあっさりと復讐の相手の目を斬るのだが、やくざは苦しみ、まだ苦しみ、池の中へ入っていき悶え苦しみ‥‥これは業のドロドロした世界の具現化を狙ったのか!という長さ。異様。大西監督ってもしかしたらアングラ?

 そして途中で知り合った子ども(何でこんなに可愛くない子を使ったんかね!)を助けるために宿敵死神(名前が!名前が!東千代之助かわいそう)と対決するクライマックスへ。近衛を止める宿屋の女将(子どもの頃ファンだった千原しのぶだ!)のセリフが意図的に大きい効果音で聞こえない!!宿敵死神(名前が!名前が!)を倒した後、娘(何でそこにいたかは忘れた)と子どもと一緒に江戸へ行こうと言う近衛と娘の引いた画面の、そのカメラ前に突然強引に子どもがフレーム・インしてで何か言うんだけど、聞こえない!アップだから口の動きは見えるけど、それなり長いセリフ。でかい音楽で聞こえなくしている!!おい、大西監督って誰や?

「新飛車角」同様に終わるや否や席を立ってしまった。いま何を見たの?!

 オリンピックは新幹線を生み、高速道路が都内を覆い、古い建物は次々に壊されていく。年末だって色々捨てて、新しい年にはこうしようなどと考えるもの。[戦後の一区切り]は、何かをしなきゃいけないんだと、作り手達に何かを迫っていたのだろうか。高二の私は呑気にオリンピックの重量挙げをただただ惰性で見ていただけの昭和39年に。

 

 

『女渡世人 おたの申します』山下耕作 昭和46年 東映(2018/11/28シネマヴェーラ渋谷)

 「総長賭博」とこの二本が監督山下耕作と脚本笠原和夫のコラボの最高傑作で間違いないです。任侠路線後期最大風速の傑作。そして脂の乗り切った藤純子様の最高峰。シリーズ二本目にしてこれが最終作という、嗚呼‥‥世が世ならば連作されていっただろうと思うんですが、この二年後に笠原和夫は深作欣二と組んで「仁義無き戦い」を送り出すんで、任侠路線の後期最大風速で、まさに滅びの美学の象徴です。

 映画は真っ当に純子様の仕切る賭場から初まり、いざこざから殺された男(林彰太郎が出番は少ないが最も重要な役で生きている‥死んでるけど)の負け分の取り立てに義理から純子様は岡山へ。古い船宿を守る父島田省吾と目の見えない母三益愛子。息子の喧嘩相手の純子様を暖かく迎え入れる島田省吾と、何も知らずに息子の嫁だと信じる三益愛子この三人の人情の絡みに立ちふさがるのが金子信夫だけなら大したことは無い‥‥息子の博奕の負け分の清算に土地家屋を型に借金した島田。これもよくある‥‥船宿の裏で亭主が出稼ぎに行ったおかみさん達が住む長屋を立ち退けとやくざ達が来るが、純子様が一蹴する胸の好くシーン。これも良くある‥‥はずが、女たちは純子様を冷たく睨みつける。それでも純子様は皆んなのために悪に立ち向かう。長屋に火がつけられ、逃げ後れた赤ん坊を必死に助け出しても‥‥女たちは心を開かず冷たい視線。

 いやこれは辛いよ。男文太が“姉さんは日陰に咲く花だ”と慰めたって焼け石に水。味方だと思っていた待田京介はワルだし、島田省吾がなぶり殺されるシーンは辛いの一言。忘れた頃に大阪の親分遠藤辰雄が向こうぶちに回るし。その上、指を詰めさせられて、ついにドスを手に‥‥そのとき、三益母さんはじつは純子様が息子の敵だと知っていて‥‥憎いという自分の心が地獄に向かう[人情]を“この人は嫁だ”と言い聞かせる[義理]で抑えて‥‥嗚呼!しかないシーン。“このまま親子として暮らして欲しい”と!‥‥幼くして親を亡くした上州小政は!それでも女純子は修羅場へ向かう!

 愛する文太も死に、ボロボロになってお縄をちょうだいした女純子に三益母様は目も合わせなければ口もきかず。役人に引き立てられる道行きにおかみさんたちは‥‥冷たく睨むだけ‥‥見守るしか無いその時!後から“政子!政子!”と叫ぶ三益母様の声。思わず振り返って“おっかさん!”こんなところで涙がどっと吹き出すんですよ何回見ても。もう、ズルいの極みです!

 心の中で親子になった。そして役人に引き立てられて行く上州小政。続編は無くて良かったのかも知れない。

 

 

『博奕打ち 総長賭博』山下耕作 昭和43年 東映(2018/12/2シネマヴェーラ渋谷)

 初めて見たのは21歳。噂を聞いて飯塚君と二人で文芸坐の最終回。二人で席を立てなくなった。掃除のおばさんに急き立てられて我に帰ったこと、彼も覚えていた。20回近く見ていて、未だに女房桜町弘子が自分の義理から自殺するシーンは涙が込み上げてくる。それぞれが義理という主体性を貫き通そうとすると条理は不条理となり、どうしようもない悲劇=不条理を呼ぶんだと教えられ、俺はこんな風に生きない、もっといい加減に生きる、と強く思った。 

 今だから白状するけど、私は「そうちょうとばく」を「早朝賭博」だと思って見に行きました。

 

 

『道化師の夜』イングマル・ベルイマン 1953年 スウェーデン(2018/12/9 fiaf) 

 このところ[字幕]に感情移入がしづらくなって、セリフを上回る映像がないとなかなか心が動かない。でもそれは映画なんだから、本来そうなんだと。

 おちぶれたサーカス団の団長の若い愛人アンナの艶かしい魅力が、全てを輝かせる。

 疲れた中年団長も、食べるものに困って一座の熊を殺すのも、家に戻りたい彼を拒む別れた妻と息子も、アンナを誘惑する色男も、弄ばれただけだと分かっても泣くしか無いアンナ自身も、アンナのために色男に殴り掛かって反対にボロボロになる団長も、感情を排したベルイマンの辛辣なカメラに曝されながら、アンナの溢れるようなエロスが際立たせる。やっぱり今まで通り旅をするしか無いサーカス団の遠いシルエットに、よし!生きるぞと繫がった夜だった。

 

 

『お早う』小津安二郎 昭和34年 松竹大船(2018/12/11神保町シネマ)

  主人公とおんなじ11歳の時に母に連れられて見に行った。小津作品などとは知らず(いや、小津安二郎なんて名前は知らず)感激した記憶だけがずっとあり、約60年ぶりに再会。

 夫婦に二人の男の子、父の妹という家族構成は名作「麥秋」と同じ。夫婦が笠智衆と三宅邦子というのも同じということを改めて知った。ついでにサイレント期の名作「生まれては見たけれど」も男の子二人兄弟で弟が兄を真似たり兄の気持ちをアクションで代弁するのも同じ。(弟のリアクションが当時も今も可愛くて好き)

 話しが進むに連れて、同年齢の子どもがテレビを欲しがって、つまらないことをしゃべり過ぎるという父に反抗して何も話さなくなると言う設定に共感した60年前が蘇る。

 “お早う”とか“今日はいい天気ですね”とか、大人だってどうでも良いことばっかりしゃべってるという批判は、しかしどうでも良い言葉が潤滑油になっていると同時に、隣近所の諍いを本音を言わずに何とかしのいでいく際どくて危ういバランス感覚を育んでいる日本的な関係にまで言及していることは知らなかった。お互いに好意を持っている佐田啓司と久我美子が“きれいな雲だ”“ホント、きれいな雲ですね”というどうでも良い言葉の中に秘めている気持ちが、あー日本人ってこうだったよなと、何故か過去形で見えてきた。

 

 

『日本女侠伝 侠客芸者』山下耕作 昭和44年 東映(2018/12/14シネマヴェーラ渋谷)

 確か5本は作られているシリーズだけど、この1本以外はがっかりの連続だった記憶がある。それだけに、この1本が光っている。惚れた健さんが一人斬り込むという外部との闘いと、健さんを慕いながら連獅子を踊る純子の心の中の闘いがカット・バックされていく。困ったときのカット・バックと言ってきたが、その安易さが映画技法の歴史の中で、まさに映画だけのダイナミックを生んで、惹き付ける。[カット・バックは諸刃の剣]を見事に乗り越える勇気にひたすら拍手。

 

 

『任侠列伝 男』山下耕作 昭和46年 東映(2018/12/14シネマヴェーラ渋谷)

 これも山下—笠原コンビの傑作。だけでなく、二人のコラボの最後の作品。なんだけどタイトルが良くない。時々現れるオールスターものの中に埋もれてしまい、“あれ?これみたっけ‥見たよなぁ‥”になっちゃう。中身は濃い。

 弟分の菅原謙次と桜町弘子のためにムショに入った男鶴田。シャバへ出てくると一家は叔父貴に乗っ取られかけている。そこから代紋のため、皆んなのため、苦労を重ねる。やっぱり“どっかで見たよなぁ”のオンパレードだが、もう東映任侠映画は様式の美学。飽きられても続ければ歌舞伎のように伝統様式になるだろうに、哀しい哉[商品]それも[消耗品]。結果では無く、これは二人の最後のと思いながら作った遺書。これまでの歴史を背負って描かれた洋式美。せっかく九州から駆けつけた無口な健さんは死んでしまう。健さんも背負った男鶴田はどこへ‥‥

 因に。山下耕作ホントに最後の任侠映画は「日本任侠道 激突編」。もう「激突」なんてださい文字使うな!だし、「編」ってなんだ「編」って!という会社の力入ってないタイトル。しかし、男山下は仁義の作法にいちいち説明を入れて、我々が映画を通して覚えた言葉と所作を復習させ、初めて見る人に名画座で過去作を見るための手ほどきをさせる。これ、涙。ラストは「任侠」の掛け軸を背に健さんがよろめく‥‥さようなら任侠映画。

 

 

『生まれては見たけれど』小津安二郎 昭和7年 松竹蒲田((2018/12/23神保町シネマ)

 (松竹撮影所は昭和10年に蒲田から大船へ移転しました。因に東京と京都はそれぞれずっと存在してました。)

 学生時代から「サイレント時代の小津の傑作」と聞いてきて、見たい!と恐い!が同居(分かります?)していた作品を遂に見てしまった。しかもピアノ生伴奏付きで。

 すごい!と小躍りはしなかったけど。ナルホドさすがと言う作品。小津サイレントは数本しか見ていないけど、内容も見せ方も色々試みて自分の色を探している感じが興味あった中で、これは人間とその関係(特に親子関係)への目の向け方が戦後小津に繫がっていて、原点と言えるのだろう。子どもたちが妙に可愛くなくて、気取ってなくて、そこらにいるガキ感がいい。で芸名が突貫小僧とは爆弾小僧、この映画には出ていないけどアメリカ小僧なんてのもいて、当時の松竹はこまっしゃくれて無い子役の宝庫だったよう。変顔得意の兄弟が転校して苦難の笑いの中、尊大な父(斎藤達雄)が実は会社で変顔で自分のポジションを作っていたことを知り(これが9ミリ半のホームムービー)、親父像崩壊の危機へ。そこからしみじみとした涙へ。いや小津さんって子どもで笑わせるのが(ワンパターンだけど)上手いんですよね。

 

 やっと見たゾの感動で、次に清水宏の「母のおもかげ」(子役が根上淳!継母が憧れの淡島千景!)を見る体力が無くなり帰途へ‥‥でも見たい!気持ちが続けば、どこかで見られる!と言う名画座巡りで得た教訓が、明日へ私を導いてくれているのです。

 

 

『吹けよ春風』谷口千吉 昭和28年 東宝(2018/12/26阿佐ケ谷ラピュタ)

 戦後8年、私は5歳。こんな平和ボケしたような題名でアクションの谷口千吉と堅物三船敏郎が?

 流しのタクシー運転手三船がバックミラー越しに覗き見る人生の断片のエピソード集。恋人小泉博に腹を立てながらキスされて機嫌を直しホテルに入る岡田茉莉子(若い!)母親と喧嘩して家出した青山京子は行くところが無いのに三船の親切を断って夜の闇へ。よった小林桂樹は車の屋根へよじ上り、いなくなったと青ざめて探すと座席の下で高イビキ。ピストル片手の強盗三國連太郎はちょっと期待した三船アクションの無いままに、いざというところで逃げてしまい。

 そうだ、ここに春風は吹いていないのだ。反語だ。刑務所から出所した父山村聰は子どものために復員軍人を装って軍服に。それでも自分を受け容れてくれるだろうかと心配でイライラ。家の前で降ろした三船は忘れ物に気づいてソッと家を覗くと、父親の抱きつく子どもたちの笑顔。

 そうだ春風が吹けという願望だ。その後、家出青山とその母が偶然三船タクシーを見つけて(なんせ黄色いタクシーなんですぐ分かると言う伏線がありました)笑顔でお礼を。

 やっと春風は吹きました。さすが脚本黒澤明!でした。三船運ちゃんに生活感はゼロだけど、その方が「野良犬」や「酔いどれ天使」と接点があるようで‥‥?良いでしょ。

 という年末最後の春風映画でした。来年も見るぞ!

 

 

 

 

 

 

  

 

2018年12月30日更新

 

 

 

新生意気坐 2018年12月最後の更新は、スナミマコト氏。お初の映画寸評参加となります。お初にお目にかかります。よろしゅうおたのもうします。 

 

 

 

2018年11月17日(土)渋谷シネマヴェーラ スナミマコト

「暴力街」(東映/1963年/白黒)監督:小林恒夫 ◯

 

 渋谷のシネマヴェーラで「滅びの美学」と題された、任侠映画の特集があり、久しぶりに映画館で任侠映画を観た。その中で、観たいと思っていた「暴力街」があった。今年の夏、故郷に帰省していたとき、ちょうど県北の美術館で「高倉健 追悼展」があったので、家族で見に出かけた。そこで展示されていた写真でこの「暴力街」を知ってから、はじめて観る事が出来たのだ。1963年作のこの作品は、何と、のちに東映任侠映画シリーズの先駆けと云われるようになる「人生劇場(沢島忠 監督作)」の公開一週間前の公開だったそうで、実質的には「暴力街」も先駆けの作品なのだ。でも「人生劇場」を観てしまったら、「暴力街」の印象は薄くなるかな。だけど、任侠映画の高倉健像はすでにこの作品にあり、観ないでいるのはもったいない作品だと思う。

 

 映画は冒頭、ある組どうしの「手打式」の模様から始まる。その中で、香取組の代貸の健さん、香取組の先代はおらず、娘の三田佳子が跡を継いでいること、健さんはかつて相手方倉田組の幹部を殺したこと、その息子である千葉真一は健さんを仇に思っている事、香取組の経済状況は苦しいこと、などがわかり物語の情景が見えてくる。寄せ場にいた健さんは、香取組の経緯を知らず、その間、自分なりになんとかやってきた弟分の江原真二郎とは、徐々に対立していく。倉田組も地域の体育館建設の大工事の確約のため政治家と癒着し、香取組を追い込んで行く。跡目についた三田は家業のことなんか嫌だったが、健さんは三田を支えて香取組を再興しようとしていた。それぞれの立場や行動から、ラストの悲劇に向かっていくのだが、割と淡々とした画面と、丁寧に描かれる描写(説明的なとこもあったかな)、そして少し冷たく乾いたリアリズムの感触を覚えた。最後にカタルシスが爆発するのではなく、悲惨に、湿気った花火のように燻って消えていく健さんが、良かった。千葉真一も良かった。江原真二郎は根は良いやつかもしれないが、やっぱヒドい。ただ三田佳子がイマイチだったな。綺麗なんだけど、終始心ここに有らずといった印象だった。それは本当にそうだったのかもしれないし、リアリズムな演出も関係しているのかも。確かに、いわゆるヒロインという人物像ではなく、妙に生々しく、現実的な存在だった。それは同時にこの作品の特色でもあるのだろう。この監督は文芸作品なんかだといいのかもなぁと思ったりした。けれども任侠映画が好きな人で、いろいろ観た人には、ぜひ観てほしいと思う。

 

 作品中、印象に残ったシーンがある。喫茶店で健さんと三田佳子が話をしていた時、店内で音楽がかかり、ダンスが始まる。うるさいから外に出ようと三田を連れ、外を歩いていると、突然「俺が踊ります」と健さんが言い、三田の唄に合わせて舞踊を舞う。槍を振りかざすような踊りだった。ラストの殴り込みの時、香取組の大切なものであろう槍を取り、槍の先をはずし、布でぐるぐるに巻いて、それを「道具」としていた。文章で書くと、何だかわざとらしい対比だなとか、説明的だな、なんて思うかもしれないが、健さんが演じると不思議と収まる。それを言葉にするのは難しいのだけれど、身体が背負い、発するものなのだろう。「花札渡世」で梅宮辰夫が「古い人間」を演じられてない(と、感じたのだが、決して悪い意味ではなく、梅宮辰夫には梅宮の身体が発するものがあるのだ)ように、健さんを観ると「古い人間」が現れるのだ。そうして段々、いったい「古い」とはどういうことなんだろうと、考えるようになった。

 

 新しい言葉が生まれると、それまで使われていた言葉は消える。統合されるといってもいい。言語に詳しいわけではないが、昔の言葉には、感動したり感情の動きを伝える言葉が沢山あったようだ。それらは、その地域・民族の風習や儀式に起因していることが多く、他所の人には通じない、あるいは必要のない言葉かもしれない。だから細かな違いは省略し、「嬉しい」とか「悲しい」が残り、「どんなふうに」の部分は消えていく。その時消えてしまった感情を、再び感じる事はできるのだろうか。「古い」「新しい」というのは、時間的な経過を表す言葉であって、本来、それ自体が「良い」とか「悪い」を表す言葉ではない。にもかかわらず、僕らは無意識に「古い」と「新しい」を対立させてはいないだろうか。100年前の映画に、現代でも感動している人は少なからずいる。では、これから先の100年後はどうだろう。「滅びの美学」がそこにはあるだろうか。それとも人間が滅んでいるのかな。笑

 

 

 

 


  

 

2018年11月05日更新

 

 

 

新生意気坐 7月〜9月

 

 このコーナーを始めたのは、もともと古い映画をたくさん見たい、という思いとハイロのホーム・ページに『生意気坐』という気に入った名称の空き家があったので、ここを使って感想文を何人かで書いていくと面白いかな?という思いつき。あんまり誰も書いてくれないけど‥

 だからもともとは余り知られていない(と思える)発見した映画について生意気だけど書こう!と言うこと。知れ渡っている名作は書かなくても良いということ。だった。

 気がつけば名作も書いている。逆に歴史的に名作と言われている映画でつまらないものは少なくないから、それこそ生意気に書いた方が良いと思い直した。

もうひとつ。やっぱり見た映画の全てを書いた方がすっきりするので、頭に「見たリスト」を載せて、◎、○、△、×、×××の5段階評価を明らかにしてしまおう。生意気だから何でも良いんだ!と。

 

   •  「蟻の巣の子共達」、◎「太陽を盗んだ男」、△「「赤線基地」、×「恋文」、×「夜の鼓」、△「「僕の村は戦場だった」、

×「フルスタリョフ車を」、△「「ジェラシック・ワールド」(新作)、×「ビック・ヒート」、◎「M」、△「「暗黒街の弾痕」、

×××「広島1966」、○「天国と地獄」、△「女の肌」、

△「散歩する霊柩車」、△「最後の切り札」、○「七つの弾丸」、

○「心に花の咲く日まで」、×「望みなきに非ず」、

×「争う美人姉妹」、×××「風雲七化け峠」

21本(少なかったな)で○も少ないし、生意気になるために×××も書くことにしました。

 

 

『太陽を盗んだ男』長谷川和彦 昭和54年 キティ・フィルム

(2018/4神保町シネマ)

 

 これは名作なので書かないことにしたいが、この後の作品が無いままに約40年が経つ長谷川ゴジの伝説の最新作なので。

 完全を求め過ぎるほどの求めるゴジさんとは、もう30年お会いしていない。遂に第3弾が!となったら正直見るのが怖い。このまま伝説になってくれていいと思いつつ‥恐る恐る見に行くんだろうなと心で呟きながら劇場を後にした。

 ハリウッド風の設定ながら日本テイスト充満‥いや、逆か?少なくともハリウッドを真似たみそ汁映画ではない。なんで中学教師の沢田研二は原爆なんか作って政府を脅迫したのか?奇想天外・荒唐無稽で構わないのだし、そこをセンチメンタルに過去のエピソードを使って説明したら最悪の日本映画になる。まるでそんなこと描かないのに、流れに乗ると思いがそこに馳せてしまう。ひとつひとつの画面の奥のその奥に沢田研二の過去を見つめようとする鋭い眼差しに流れが乗り移っているからだろう。予定調和にならないのは、先生の生き方を見つめているだけだから。それを真剣に見つめようとしているだけだから。ざっくり書いてじっくり見る。これがゴジさんの完全主義だ。ここが後に続くどの映画も超せない大きな見えない根拠だ。だから、菅原文太は「県警対組織暴力」のやくざと駆け引きする刑事を超えられたのだ。

 「青春の殺人者」に繫がりながらも、しかし先生は未来に絶望していない。前を向いてもがき続けている姿を、文句なく後押ししてしまう。奇想天外・荒唐無稽がリアルも超えて確かに存在していた。

 だから、‥原爆症に冒された先生が銀座の歩行者天国(懐かしい!)を彷徨うラストに思いが注ぎ込まれる。‥だから原爆の音は不要だった、何の効果音も音楽も不要だった。それだけ(死)が彼の未来じゃないでしょう。死はどうせいづれやって来るんだから。先生は負を跳ね返す生き様を見せてくれたんだから。もっと言えば昭和の武士道をみたんだから。

 

 

『僕の村は戦場だった』アンドレイ・タルコフスキー 1962年 モスフィルム(2018/7/25 fiaf=国立映画アーカイブ→既報の通り、かってのフィルム・センター)

 感激が生まれなかった。いや退屈してしまった。タルコフスキーなんて知らないよの時に初見、その瑞々しい人間デッサンと時代に対する深く哀しい見通し方に感銘を受け、タルコフスキーのその深さにしびれてきた一筋の映画道が、ここでやや崩れた。どこにも居場所が無かった。「ノスタルジア」を「エレニの泉」を見るのが怖い。どこかで落とし前付けねば。

 

 

『M』フリッツ・ラング1931年 ドイツ

(2018/8/14シネマヴェーラ渋谷)

 ラング初のトーキー作品。初期のトーキー作品の音の使い方って目を見張るものが多い。映画史的に言うと音楽に合わせて踊るとか、唄う顔のアップで口から声が出てる驚きとか、そこからの反省が音と画面の対立的な使い方が生まれてきた、ということになるんだが、いやいや作家の精神はそんな線的な流れになってない。音楽映画の走りと言われる「巴里の屋根の下」(ルネ・クレール)にしても、不要な音、現実的で説明だけの音は全て排除され、代わりに画面と音の関係が模索され続けている。

 画面に対して慎重に音を選んでるのだ。というより隙間を音で埋めてはいないのだ。あえて音と音の隙間を作っている。音の無い画面が生きて迫ってくるから、音が際立っている。音が主張した後の無音の画面があるから画面が際立っている。

 音を付けないことは作り手にとって実に恐いこと。退屈させないために音を付けるとか、感情を音楽や効果音で強調するとか、つまりごまかしで音を付けてしまうことって少なくない。かくいう自分もまさにその極み。「困った時の音頼み」。音を消して画面だけ見ると如何に貧弱な画面の多いことか。犯人が鏡に映った自分の背中にMの文字を見つける有名なショットは確かに恐い。口笛の音も不気味だ。でも、中盤で初めて犯人の声を聞いた、その高音で少々とろい声が最高に恐かった。

 もちろんラングと奥さんのテア・フォン・ハルボウの共同脚本もすごいし、静かなる光と影のカメラもすごいが、それらをサイレントの画面が活き活きと見せびらかす、その凄さに酔う。

 

 

『ヒロシマ1966』白井更生 昭和41年 新制作集団

(2018/8/21阿佐ケ谷ラピュタ)

 この人、映画を作りたい!って思いは人一倍あるんだと思うけど、映画作る才能は無いと断言します。今更私が断言しても、こうやって名画座に登場するんだから仕方ないけど、いや悲惨な映画だ。聞けばこの人はアラン・レネの「二十四時間の情事」の助監督をやっていたそうだが、その雰囲気の形だけもらってきたみたいだ。役者を活かせてないし、何よりもかによりも全てが調子づいてない。望月優子と加藤剛と松本典子という名立たる役者陣もカメラマンも魂入ってない。それで深刻ぶってるからたち悪い。

 「学生映画」って良くバカにするけど、学生映画は心込めようとして形がイビツだから込め切れないだけ。役者やスタッフの良いとこ引き出そうとしないで、ただ言いなりになってるだけってのとは違うんだぞオイ。ある意味、見て良かった。

 

 

『天国と地獄』黒澤明 昭和38年 黒澤プロ&東宝(2018/8/23fiaf)

 11歳のとき『隠し砦の三悪人』を見て、もうびっくりして、かっこ良くて、しびれて、“隠し砦の三悪人ごっこ”を考えて、映画は監督って人が作るんだと初めて思って、自分の生まれた時に『野良犬』なんてスゲエ映画作ってる人で、ともかく他の映画と後味が全然違う映画作る人だって神様だって思って、初めてロードショーで見た黒澤映画が、これです。『赤ひげ』で凄いんだけど‥ウム?って思うまで、黒澤信仰は続きました。ありがとうございました。

 

 

『七つの弾丸』村山新治 昭和34年 東映(2018/9/4新文芸坐)

 三國連太郎の銀行襲撃の計画から実行そして逃亡。若き銀行員今井俊二と銀行の横の交番で実直に働く警官高原駿雄、そして妻子を捨てて田舎から上京し若い女と同棲中のタクシー運転手伊藤雄之助(これが信じられないくらい、はまってる)たちの三國によって狂わされていく人生が、ドキュメンタリータッチで交互に描かれていく。こういう構成はいかにも映画的で安易なんだけれど、はまると文句なくサスペンスを生む。村山監督はドキュメンタリータッチの得意人だが、橋本忍の脚本が描き出す群像設定の出来映えが細部を文句ないものにしていて抜きん出ている。カット・バックは映画の醍醐味だ。そう言えば同じ橋本忍脚本の「砂の器」も原作には無いカット・バックの人間ドラマだった

 もちろん現場での直しはあるだろうが、それを成り立たせる土台に、地方と都会の格差、学歴重視の社会、核家族化という社会問題が毅然としてあることの説得力が脚本にあるからこその現場事情に負けない映画が出来るのだというお手本か。

 何よりも伊藤が田舎に残してきた妻の菅井きんが秀逸。改心した伊藤が子どもたちと妻きんを東京へ呼び寄せ、さあこれから‥‥って言う時に!銀行襲撃の後の三國をたまたま乗せてしまい!殺される(ここでやっと伊藤と三國が接点を持つというのも半ば分かっていることなのに、あぁ!と思うのは妻きんの存在感が大きいのだ。そしてラスト。東京に出てきて夫を失って仕事の無い母きんさん。デパートで万引きを働いて捕まってしまう。泣いてしがみつく子どもたち‥‥容赦のない群衆‥‥あぁ絶望のエンド・マーク!(良い意味で)みそ汁テイストの「自転車泥棒」‥

 

 

『心に花の咲く日まで』佐分利信 昭和30年 文学座

(2018/9/5ラピュタ阿佐ケ谷)

 タイトルも監督も配給もきっと真面目な映画なんだろうなと思いつつ、淡島千景に惚れた弱みで見に行きました。いや。良かったですよ。真面目で。失業中の夫芥川比呂志のひょうひょうとした感じも、ミシン踏みで家計を支える若き淡島千景の健気さも、素直に受け容れられますよ。奇をてらうこと無く淡々と貧しい若さを描けるのは大したもんなんです。確かに心に花の咲く日を夢見る戦後日本です。心の話しだから、「七つの弾丸」の日本はありません。

 驚いたのは夫婦と赤ん坊の関係なんですよ。二人は我が子を名前で呼ばない。“赤ちゃん”なんです。確かに1歳にもならない乳飲み子なんですけどね。しかも“赤ちゃん”を一人置いて夫婦で散歩に行ってしまったり、夕方家へ帰ってきて電気を付けると“赤ちゃん”がおとなしく寝てるとか。今の子育て世代とそれをうるさく見つめる社会常識から考えたら、あり得なくネ?なんです。その頃の日本の常識がこうなのか、それともこれは心の話しだから、常識に問題提起をした表現なのか、当時7歳の私には知る由もないことなんですがね。

 そう言えば私ら子どもの頃は夕方暗くなるまで外で遊んでました。遊びたかったのもあるだろうけど、親が“外で遊んでろ”って我々を追い出していたもんでした。きっと家が狭いし、家の中で遊んでいると邪魔だというのもあったんでしょう。大人と子どもの関係って、そのくらい距離があった方が、お互いに楽だろう。“赤ちゃん”さえ良ければ、この距離を撮ろうとすることが、心に花を咲かせる第一歩だと、そんなメッセージかも知れない。

 時代は違うけど「シェーン」で、夫婦喧嘩を始めると子どもに“外で遊んでなさい!”と言うシーンがあって、えっ!夜だよ?と思ったもんです。「禁じられた遊び」もそうだし。実は世界の中心は大人だって考え、見習うべきところあるんじゃないですかね。

 あっ、原作と脚本は田中澄江さんと言う女性だと‥やっぱり問題提起がたくさん隠れている映画かも。もう一度見なければ。

 

 

『風雲七化け峠』並木鏡太郎 昭和27年 新東宝ドイツ

(2018/9/12シネマヴェーラ渋谷)

 あと6年くらい遅く公開されていたら(小学生の私なら)当時きっと見ていたはず。だって新東宝の時代劇と言ったら並木鏡太郎。七化けの峠が風雲なんだぜ!しかも鞍馬天狗のニヒルな嵐寛寿郎主演、新人三原葉子が短パン見たいナの履いて悪人に立ち向かうんだもん。

 三木のり平でやったら抱腹絶倒になったはずだけど、アラカンだから真面目に見てしまった‥‥あーぁ

 入り込むと帰って来られないと言い伝えられる七化け峠。山深い場所じゃなくて峠‥みんなズンズン入っていくけど危険な場所‥そこで浪人アラカンは簡単に謎の洞穴を見つけて中に入っていくと‥けっこう広くて楽に歩ける‥上に出口を見つけて出てみると‥立派な屋敷の古井戸‥峠からみんなが住むとこって近そう‥でもそこは良い人を装った悪い奴の屋敷‥狐の面を着けて洞窟で踊る悪い奴ら‥死んだ父の山を守る姉弟、武器は吹き矢‥すぐ使えなくなる‥その謎を解くのは父の江戸土産の“海苔“‥”海苔“?

 もう作りたいように作ってて、どうでも良いほどディープ。見る人が見たら“凄い!!!”という映画でしょう。カルトってこういうことなんでしょう。やっぱり三木のり平じゃなくて嵐寛寿郎は正解なんでしょうな。

 

 

 

 

 

 2018年08月19日更新

 

 

新生意気坐

(4月から6月まで)

因に、この3ヶ月で見た映画に目を通してみます。

「リボーン」「武曲」「モランスコボリ」「新幹線大爆破」「狂った脱獄」

「かげろう」「名も無く貧しく美しく」「浮き雲」「ゲット・アウト」「スイス・アーミー・マン」「完全な遊戯」「8時間の恐怖」「マダム・サタン」「雨」

「東京の女」「風の中の牝雛」「エノケンの近藤勇」「血と砂」「オズの魔法使い」

「ご冗談でショ」「征服されざる人々」「アフリカ珍道中」「ゴッホ最期の手紙」「ネルーダ」「スリー・ビルボード」(=対象外作品○)「ファーゴ」「MIFUNE」「四畳半襖の裏張り」「四畳半襖の裏張り〜しびれ肌」「はたらく一家」「マル秘メス猫市場」「家族ゲーム」「嵐」「ホーリー・マウンテン」「エル・トポ」「逆噴射家族」「喜劇女は度胸」「肉弾」「デトロイト」「ロープ」(=対象外作品○)

「人間機械」「第三の男」「背後の人」「氷雪の門」(=1974年制作だが2010年公開の幻の対象外作品×××)「アフリカの光」「青春の殺人者」 の計46本‥選択にポリシーが無いのが分かります。手当たり次第。で、え?お前これが良いの?とか、何でこれがダメなんだよ!とか‥ですので。

 

 

『かげろう』新藤兼人 昭和44年 近代映画協会(2018/4/13シネマヴェーラ渋谷)

 新藤・音羽は最強コンビ!!映画のしょっぱなから死体で出てくる音羽信子!それも舟に括り付けられて海の中をほぼ裸体で!長回し‥‥自分の原風景に拘る監督の真剣味もそうだけど、いやぁ、惚れた監督のために、やり切る女優ってすごいなぁ。

 「裸の島」でも、水が一杯に入った桶を天秤で担いで山道を歩くって、ホントにやってるでしょ。腰しっかり入れてるんだけど、なんせ細い身体だから、あぁ危ない!なんて思ってそれだけで力が入ってしまう。セリフの無い映画で最も雄弁に語ってるのが身体。誰も言わないけれど、音羽信子は肉体派女優です!!バスター・キートンと音羽信子は身体で魂を語れる役者です。

 その事件を追っていけば、案の定、彼女の悲惨な過去が浮かび上がってくるというサスペンスだけど、彼女の過去には虐げられた部分としたたかに生き抜こうとする部分と、歪んだ陰と陽が見えてくる。虐げ信子は切なさ二倍で、したたか信子がまた艶っぽい。白黒で切り取られた瀬戸内の風景の光と影の妙もさることながら、精神的な光と影のノブコ・ノワールに、拍手。

(新藤・音羽の最強コンビ‥この間「どぶ」と「縮図」を見損なった‥‥又があるか無いか!が名画座の宿命なのに、だ。)

 

「完全な遊戯」舛田利雄 昭和33年 日活(2018/4/20シネマヴェーラ渋谷)

 若き小林旭は渋さが無い分瑞々しさが良い。坊ちゃん大学生が思いついた競輪賭博の犯罪が巻き起こす悲劇という、いかにも若い日活の若い映画。ノミ屋を仕切る葉山良二が真面目過ぎてワルに見えないのは純情な妹芦川いづみが絡む悲劇が待っているからしょうが無いところ。

 大学生達がノミ屋を騙す手口を練習するくだらなさが、テンポ良く処理されていて見入ってしまう。大胆なカメラワークでスピーディな展開は舛田節の面白さ。音楽もかっこ良く、こういうスタイリッシュな語り方はちょっと間違えると恥ずかしくってしょうが無いもの。その綱渡りが上手い。 

 ノミ屋騙しの成功の後、ぼっちゃん旭の思ってもみないところで、純情いずみが巻き込まれていく哀れで悲し過ぎる展開は予想を裏切り、題名をも裏切る。良かった!単なる悲劇、単なる青春ではなく、生きる切なさが身にしみる一本。

 

 

「風の中の牝雛(めんどり)」小津安二郎 昭和23年 松竹(2018/5/3神保町シアター)

 なんで〈若い牝のひな〉と書いて〈メンドリ〉と読ませて、田中絹代を牝雛に例えたのか?オズ世界って深いんだよなぁ。

 ストーリーの説明になってしまうけど、夫が復員してくるのを幼子とともに慎ましく待つ田中絹代がいてさぁ。夫が帰ってくることを信じて健気に生きる女は楽ではない。あるとき子どもが急に熱を出す。(だいたい映画の中の子どもって急に熱出すんだよなぁ。実はその前から少しずつ熱は出ているんだから、そこを上手く描く映画、ないのかなぁ。)

 で、がらんとした畳の部屋に寝ている子どもと母絹代、そこってどこ?何の説明も無いんで分からない‥しばらくすると、物干し台から下を通る田中絹代のことをしゃべる二人のお姉さんが‥あっ看護婦だ!ここ病院か!じゃ、あれは病室なんだ!俺が生まれた頃の病院って、二階家の日本家屋の、畳敷きだったんだぁ、とびっくり。

 (と、いつまでも初めて知った感激には浸ってはいられない。)どうやら治療費が高い(らしい)、簡単に払えない金額(らしい)、借りても返せない(らしい)のだが‥で、そう!身体を売って生活している友人もいる訳さぁ。あーっ!ダメだよ絹代母さん、あんたは奥さんなんだよ、子どもを無事に育てて、いつか帰ってくる夫を待つ、母さんで‥奥さんなんだから‥でもなぁ‥‥じゃあどうしろって言うんだ?

 ついに佐野周二が復員してきます。喜びあう二人。でもどこか不自然な妻絹代‥‥ついにたった一度の売春は分かってしまい、母絹代は告白します。するな!黙ってろ!佐野周二許してやれ!なんて言う私の声は全て届きません。知らないままの方が良いことってある。だけど共通の過去の無い夫は、知りたがるよなぁ‥許したいけど許せない。それを時代のせいにしたところで、何も解決なんかしない。

 解決しないことで言い争う二人‥いや許したいけど許せないと叫ぶ男周二と、許してくれとも言えず、他に方法が無かったと言い訳も出来ず、泣くしかできない妻絹代が揉み合う。突き飛ばされた表紙に、妻絹代は足を滑らせて階段から落ちて!

 ここが凄いんです。奥さんで母の絹代が階段落ちです。ワン・ショットです。ゴロゴロ転がるんでなく、一気に頭から落ちるんです。しかも、しかも二階の夫周二のもとへ這い上がっていくまでワン・ショットなです。女絹代です。この力、溜めに溜めて爆発する力。吹き替えでは出ない力、小津映画で唯一のアクション・シーン、唯一のバイオレンス・シーンだ!

 こうなったら、もう一度やり直そうと抱き合う男周二と女絹代しかないでしょう。めでたしめでたしの解決策なんてあるはず無いんだから、背負って生きてくしかないでしょう。これで文句あるか?という力技のエンド。文句ありません。

 

 

「東京の女」小津安二郎 昭和8年 松竹(2018/5/3神保町シアター)

 サイレント映画。無くても良いけど、あるとつい拍手してしまうピアノ伴奏付き。弁士付きなら当時を再現してってことで分かるけど、無くても良いんじゃないかな。客席で出す音が聞こえなくなるからあった方が良いのかな。申し訳ないがその程度。

 さてここにはローアングルと独特の間で見せる小津調は無いです。だから小津さんがリズムで映画を奏でているという私の持論が間違いではないというのがよく分かるんです。理詰めじゃないリズム。感情のリズム。見えていることから感情の流れを摑み取るリズム。

 しゃべっている画面があれば、続けてその内容を字幕で見せる、それがサイレント映画の基本。だけど小津調無声映画は不親切で、話している途中で字幕に変わってしまう。カットする根拠は話しの区切りでは無くて、話している内容の速度、感情の速度にあるようだ。字幕の長さも充分読んで理解できる長さじゃあ無い。あくまで流れの緊張感を保つ長さ。そんな流れは伊藤大輔作品にも感じた。

 親切株式会社でもなければ分かってもらいたがり病でもない。だから“ン?”が残る。それが作品の拘りとして残る。〈流れの説明はする。説明は面白くする。〉それが作家。観客に媚びたりしない。だいたい観客って誰だか分からないから自分に挑戦する者。“さあ、かかって来なさい”映画がそう叫んでる。

 (話しは別なんだけど「フルスタリョフ、車を!」(1996、セルゲイ・ゲルマン、ロシア)という〈世界映画最重用作の一つ〉を見たけど、さっぱり面白くなかった。作り方は確かに“さあ、かかって来なさい”なんだけど、かかっていけない。整理券が出てNFAJ(かってのフィルム・センター)は満席なれど、ここかしこで鼾の音。スターリン体制が崩壊する直前に起きた医師団陰謀事件を題材に‥この事件を知らないで見ても鼾になるのは当然。私を含めて多くの観客が負けてる。ちゃんと調べて見に来い!それは客が映画に“さあ、かかって来なさい”と叫ぶための必要条件なんだろう。)

 小津サイレントを他にも見ていればこれが○になったかどうか?でもピアノ伴奏が気にならなかったのは確かだ。

 

 

「血と砂」岡本喜八 昭和40年 東宝/三船プロダクション(2018/5/13ラピュタ阿佐ケ谷)

 昭和20年あと少しで終戦となる頃、若者で構成された軍楽隊が最前線に送り込まれて全滅するというあり得ない話。彼らの軍服はきれいで、少ないながら食料もある。慰安婦団令子の美しさはあり得るが存在があり得ない。その最たるものは、彼らの演奏するのが敵国アメリカの有名なジャズ〈聖者の行進〉。

 あり得ない話しを、あり得るかの様に語る喜八リアリズムは楽しくておかしくてかっこ良くて、哀しい。馬鹿馬鹿しく登場する〈聖者の行進〉がラストで余りにも勇ましく激しく響く。見終わった時には全て受け容れてしまう喜八マジック。画面の奥をじっと覗き込もうとしている眼が揺るぎないんだろう。

 三船敏郎も仲代達矢も佐藤允も伊藤雄之助もみんな〈いつもの〉キャラクターなのに、その集合は喜八ワールドって希な監督だ。

(「日本の一番長い日」に出演して、つまらないミスでNGを出したのは私です。すみませんでした)

 

 

「アフリカ珍道中」1941年 アメリカ(2018/5/17シネマヴェーラ渋谷)

 これは監督じゃなくて主役の二人の映画ですよね。役者の映画ってありますよね。ビング・クロスビーとボブ・ホープ。監督は二人の掛け合いとギャグが上手くいっているかの確認係と断言します。

 舞台がドコであろうと、どんなお話であろうと、ほとんどどうでも良いんです。ビング・クロスビーが唄って、二人が冗談を言い合って、ボブ・ホープがおバカな表情をすれば、それで良いんです。たっぷり笑えるし、あれ?このギャグ他で誰かがパクってるなって感心するんだから。だから飽きられて終わったんでしょう。でも今でも新鮮なのは、彼らが他に無い笑いを生み出したからだと断言します。ありがとう。

 

 

「四畳半襖の裏張り」神代辰巳 昭和48年 日活(2018/5/25新文芸坐)

 宮下順子と江角英明(私の先輩)の蚊帳の中での濡れ場がながーい。しかも長回し!それをこれでもかと見せ続ける姫田真左九さんのカメラがこの上なく凄い。性交シーンによく使われる蚊帳が、こんなに活かされた映画は他に無い。そのシーンの間にいくつかのエピソードが挟まれるという〈良くある〉構成なんだけど、他に真似が出来ないようなきめ細かい画面の流れに唸ってしまう。

 ロマンポルノが大正ロマンを焼き付けた。

 

 

「家族ゲーム」森田芳光 昭和58年 にっかつ/ATG(2018/5/30神保町シアター)

 個人映画時代のライバルで朋友の劇場二作目で最大の傑作だと思っていた作品を、この際!と恐る恐る見に行ったら‥全然色なんか褪せちゃいない傑作だった。嬉しい。

 ついこないだTVで見て“えっ!こんなおどろおどろしい話しだっけ?”と呆れたことがきっかけだったんだけど、いやいや、日常の裏にありそうな(あくまでありそうな)思いを浮き彫りにしていくシュールな笑いの積み重なりが、どこにでもありそうな家族の関係を冷めた関係!と切って捨てるやり方は、個人映画時代から続く森田節ですよ。これが怖いということなんだよなぁ。

 当時古い(あるいは中堅の)映画人達が、森田は映画を知らない、文法がでたらめと酷評していたクライマックスの食事のシーンは記憶の中の画面とだいぶ違っていて、普通だよと思えた。この見せ方に刺激を受けた若い(あるいは心のある)映画人達が踏ん張った証かもしれない。ヘリコプターの音がのどかな部屋の中に響くラストの怖さは、やっぱりやられた!森田君安らかに。

 

 

「喜劇 女は度胸」森崎東 昭和44年 松竹(2018/6/5神保町シアター)

 無数にきらめく映画の中から“何を見るか”を決める根拠は大したことは無い。監督、役者、宣伝文句、空いている日(映画と別の用事を諮りにかけて決めるだけだけど)etc.あとは題名。だいたい題名に「喜劇」と付くのは面白くない、とこういう偏見は人によって違うけど、けっこうある。

 でも題名は会社が客受けするように変えることもしばしばある。こういう企画でこういう題名で作れと言われて、そこに自分の拘りをぶち込む職人作家も少なくないから、あまり当てにはならない。「女は度胸」は新人森崎監督の生に対する拘りが漂っていて好感。

 女子工員倍賞美津子と、彼女を好きなくせに売春しているンじゃないかと信じ切れない頼りない次男川原崎健三。寅さん以上に無神経だけど寅さんとは別の人生観が時に説得力ある兄渥美清や、こいつが情けないから兄弟がこうなるんだと納得の父花澤徳衛が絡んで大騒ぎするという、山田洋次(脚本)の匂い満載映画なんだけど、人間のデッサンがどこか哀しく、どこかクールできっと自分を見てるんだろうなと思えてくる。

 森崎監督は“へその緒”と良く言っていた。自分の目の前の映画に“へその緒を見つけろ”と言っていた。自分のことを見つけろという、その姿勢が自分らしさが余り表面には見えない、このデビュー作には最も感じられる。

 話しは収まるとこに収まるように見えて、最期に清川虹子母の爆弾が待っていて映画は壊れる。冒頭から愚かな亭主と息子達にじっと耐えている哀れな虹子母だと思っていたら!この貫禄芝居は圧巻です!と脱帽。

 

 

「青春の殺人者」長谷川和彦 昭和51年 今村プロ/ATG(2018/6/29神保町シアター)

 うん、分かっていてもやっぱり衝撃。だってそんなに突然父内田良平と母市原悦子が息子水谷豊に殺されるのかぁ!なんだから。あの台所の真っ赤な血はやっぱり衝撃。

 冒頭のシーンで、そこへ辿り着くまでの時間が全て語られているし、ちょっとあとの時間が浮き彫りになるってみんな考えて作るけど、細部の積み重ねに手抜きが無いんだろうなぁ。でも、展開は予測できるものかどうかだけが大事なんじゃない。設定されたシーンの背後にあるものを見つめてしまう。黙ってしまう。つまされてしまう。長谷川、いやゴジさんがシーンの奥を見つめる手を休めてないんだろう。だから何があっても、起こっても、疑問が生まれない。弱点が見えなくなってる。だって、よく分からないエンディングのクセに、これしかない、これで良いと思ってしまうんだから。

 弱点があるととすれば、許されざる恋人原田美枝子がやたらうるさいこと。もともとヘタクソ演技だと言う先入観もあるから、出て来て叫ぶたびに、うるさいとしか感じないんだけれど、あっ!逆手に取ってるんだ。この声が息子水谷にとっての邪魔でしつこくてやり切れない周りとの関係の象徴なんだと思えてくる。完璧主義者で強気のゴジさんだからの勝負なんだと。しかも原田美枝子にだけは客観的に向き合ってしまえる。つまりイントロからずっと入り込めずに見守るだけのこの世界に、入り込める‥やっぱり、負けたかもしれない。

 

 

 

 

 

 2018年05月30日更新

 

 

新生意気坐

(やっとやっと今年の作品になりました。)

 

 

『救命艇』アルフレッド・ヒッチコック 1944年 アメリカ

(2018/1/5シネマヴェーラ渋谷)

 暮れからヒッチコック特集でした。サイレント時代の傑作で二階を歩く男を透明ガラスを床に見立てて階下から撮った「下宿人」、名作「バルカン超特急」とか準主役の少年が時限爆弾を持ってバスに乗りハラハラの挙げ句に殺してしまい後に反省したと言う「サボタージュ」などイギリス時代の映画も多数あり、今時珍しい立ち見が出た日もありました。

 これはアメリカへトレードされてから3本目の作品。イギリス時代に比べるとプロデューサーからの規制が多くなったと言うことだけど、規制は諸刃の件。その規制の力を跳ね返そうとして、ソウくるか‥ソレならこうするぜ!というアイディアが、作品の力となることがある、それを作家と言うんでしょう。

 作家ヒッチコックについて昔ある単行本でハラハラドキドキの「ジェットコースター映画」と書いたことがあるけれど、いやいや彼の映画技術を超える映画は未だに無いですね。

 何が凄いって見せない技術!何かを見せないで(何かを見せながら)「愛」をずーっと繋げていく‥‥これがサスペンスなんですよね!残念ながら今のサスペンスはヒッチコックが作った技術を使っているだけ。

 これは、ドイツのUボートの魚雷に撃沈された豪華客船の乗客7人が乗る救命艇に、同じく沈没したUボートの乗組員1人が泳ぎついて始まるサスペンス。

つまり密室劇ですね。このドイツ兵が7人のために力を貸しているのか欺いているのか、最後の最後まで(ホントに)分からない。しかも7人のキャラクターが後の幾多の作品の「典型」になっているけれど、一筋縄ではいかないキャラクターには真似でない面白さがあるんですよ。これも傑作ヒッチコックのひとつでしょう。

 

(一月は10本見たけど、○がついたのはこれだけでした・・・)

 

 

『下郎の首』伊藤大輔 昭和30年 新東宝

(2018/2/2フィルム・センター)

 題名は聞いたことあるぐらいだけど、まあ名匠伊藤大輔だから、という程度で見たんですけどね。いやぁこれが凄いのなんのって。かっての映画屋さんの美意識を直球で受けとって、映画作りに尊敬の念を抱いてしまいます。

 将棋のいざこざから殺された父の仇討ちの旅に出た若侍(片山明彦)と槍持ち(田崎潤)。が愛と忠義で結ばれて‥‥いたのに!‥いたのに!‥旅先で病に伏した主人を気遣う田崎槍持ちがひょんなことから仇を見つけ、ひょんなことから討ち取ってしまう。これは本懐を遂げたとは言えないわけで、片山若旦那は怒ってしまう‥怒ったってしょうが無いだろという空気。で、その仇というのが剣術道場の先生だったから弟子たちが黙っちゃいない早速若侍に果たし状を‥アレ!ストーリーを話してる‥若侍は返事をしたため相手に持っていくように槍持ちに‥あーストーリー話しちゃいけないのに‥返事の内容は分からないけど槍持ちを果たし合いの河原に行かせて、自分は急いで旅支度!これが返事の内容か‥ワァまだ話してる‥手紙を読んだ敵は笑いながら槍持ちに真相を明かして、槍持ちを許すかと思いきや、よってたかっていたぶり始めるのだ!身を守るための暴れる槍持ち。見物がぞろぞろ集まってくる。その流れに逆らってヨロヨロ急ぐ(病気だからね)その全てが彼は「下郎」だと叫んでいる。

 これが片岡千恵蔵なら殺されはしないと思えるんだけど、なんせ田崎潤だから、どうなるかなんて分からない。グチャグチャの決闘とヨレヨレの逃亡のカットバック!画面のつながりはテンポ抜群(つなぎはリズムが最優先の言えば伊藤大輔と小津安二郎が双璧!)これが片岡千恵蔵や中村錦之助なら御大の見栄やアップは少々長くなってテンポを崩すけど、なんせ田崎潤だから(笠智衆もそこは同じ)そんなの関係ねぇ!リズムこそ映画だ!しかも別名「イドウダイスキ」だから乗りの乗ってる圧巻のクライマックス。

 この際だからクライマックスもっと話しちゃうけど‥やっと渡し場にさしかかった若侍、振り向く!(映画で振り向く、は需要な記号!)そうだ、戻れ、ここで戻ればお前はヒーローだ!必死の下郎、ヨロヨロ戻る若侍(アー、クソリアリズム!)‥‥ここからは口が裂けても話さない!絶対話さない。

 自然光が活かされたモノクロームの諧調がロングショットを優しくもの悲しく包んで、ときに下郎にときに若旦那様に思い入れしながら、人の世で変わらないものなんて何も無い、儚いよなぁと。で、それを当時から河原にいたお地蔵さんが語っていると言うラスト。ありっこ無い設定なんだけど、それでアッ若旦那様は俺のことだって思い知らされると言う‥‥言葉少なく豊穣な生と死が語られるんですねぇ。映画だ!でした。

 

 

(そう言えば、フィルム・センター[NFC]は4月から「国立映画アーカイブ[NFAJ]」になったんです。表面的にはこれまでとはロゴが変わってセンスが良くなった位の違いなんですが、美術館になったということです。つまり、これまでは国立近代美術館の付属機関に過ぎなかったのが、日本国が映画を美術・芸術としてやっと認めて、独立した国立美術館になったということなんです。そうなって当たり前だろうと言うか、やっとなったか!と言うか、記念すべきことではあります。念のため。)

 

 

『爛(ただれ)』増村保造 昭和37年 大映

『赤い天使』増村保造 昭和41年 大映(2018/2/4新文芸坐)

(二本立てで、日本とも○がつくと、得したぜ!感が半端無く。)

 若尾文子の演技って強烈ですね。名監督って役者を追い込むのに長けた人だけれど、それだけじゃなく、役者自身が自分を追い込むのが名優なんですね。そう言う意味では若尾文子は名優です(きっぱり)。

 『爛』の嫉妬に狂い若い姪(水谷良重)と格闘をする妻(前妻から奪い取った座)のすさまじさは本気だよと思ってしまうし、『赤い天使』で尊敬する軍医(芦田紳介)に愛を告白する表情のひたむきさに文句が言えない力がある。

 もちろん『爛』のリアルな描写の流れで積み重ねたものが語るものの力や、『赤い天使』の腕や脚を切り落とされ(音が凄いよ!)、もだえ苦しむ兵士たちに身を投げ出す従軍看護婦の生活の積み重ねが生み出す力が、若尾文子に乗り移っているのは確かで、順撮り(ファースト・シーンから順番に撮っていく理想的な形)のような気持ちのつなげ方が、見えてくるのです。

 

 

『夫婦』成瀬巳喜男 昭和28年 東宝(2018/2/17神保町シアター)

 東京へ転勤してきた上原謙と杉葉子(初めて可愛いと思った)夫婦に独身三國連太郎が同居するから、こんな(どうでも良い)騒動が始まるんだよ、と言うどうでも良い話=これを小市民ドラマというんでしょう=をよくもまぁきちんと見せるもので、こういうのを[鮮やかな手腕]というんでしょう。胸がすっとします。上原亭主がウオウサオウするのが当時の男の象徴なのか、そんなんで良いの?と突っ込めるけど、よく考えると自分にも思い当たる節を見つけたりして、そうすると憎めない奴だなんて思ってしまうのが面白いです。

 

 

『レベッカ』 アルフレッド・ヒッチコック 1940年

(日本公開昭和26年)アメリカ(2018/2/25つるまい名画座)

 注:つるまい名画座は二ヶ月に1回私が解説している地域の映画鑑賞会です。

 またまたヒッチコックです。アメリカ初進出の傑作として余りにも有名なんで、どうかなぁ‥‥

 改めて見ると前半が少々長いけど、ヒッチコックはやっぱり神様。プロデューサーが館の全景を撮れる場所がないと言うのでミニチュア撮影をしたことで不気味さが増し、カメラがスリリングに。登場することの無いレベッカ夫人がどんどん現れてくるサスペンス。気がつくと現れる家政婦長は後のスリラー映画の手本。燃える館の炎がレベッカの“R”になるというプロデューサーのアイディアをけって、燃える館の中でレベッカの枕に炎で“R”の文字が!という他が真似できないラスト。

 後半のサスペンスのための前半のラヴロマンスが少々長いよ、凡人ならこれだけで1本作っちゃうよとか、名前の無い主人公ジョーン・フォンティンがもう少し存在感があれば‥という文句も、ヒッチコックだから言える文句、かな。

 

 

『女の暦』久松精児 国際放映 昭和29年(2018/3/26新文芸坐)

 私が中学3年生。映画鑑賞ノートを真面目に書いていた頃。その年最高に気に入った『早乙女家の娘たち』(壷井栄作、久松精児監督、香川京子主演)を再度見ようと意を決して見に行った併映で見た同じメンバーの古い(私6歳)映画で、『早乙女家の娘たち』は再見しないで思い出の中に美しくしまっておけば良かった(よくある、よくある)けれど、これに出会えたのはやっぱり青春のお陰だということ。

 壷井栄らしく舞台は小豆島。姉3人が嫁いで、妹二人(好調杉葉子と憧れの香川京子)が家を守ってる。その二人が父母の法事をしようと姉たちを呼び寄せるという話。私なんか生後間もなく死んだ父の五十回忌まで、当たり前にやっていたけど、庶民の生活ってもっと別のところで成立していたことを再発見させられたんです。愛する夫と死別して慎ましく生きる三女轟由起子、どうしようもない亭主に悪態ついて生きる次女花井蘭子、そして5人の子どもと何もしない姑に囲まれてニコニコしながら指図、ニコニコしながら愚痴、ニコニコしながら文句が生活の長女田中絹代。

 田中絹代って、会うたんびにその良さが伝わってくる。なんてことの無い顔立ちが、作品の中で必ず一度はパっと輝くいてハッとさせられる。言葉や立ち居振る舞いが流れの中で見事に実を結ぶからだろうと思うと、大女優なんだなぁと心から敬ってしまう。

 ふるさとに帰ってみたいけどそんな余裕は無い生活に妹たちからの交通費を出すからという誘いは嬉しい限りだろう。久しぶりに集まった5人は今の環境に愚痴を言い(三女は笑顔で聞いているだけ)、昔を懐かしみ、それぞれをいたわり、家族の時が流れていく。無駄が無い快い流れで。

 だから、ここで言う「女」は恋に身を焦がしたり、世の中に抵抗したりする「女」じゃない。流れに逆らわずに身を任せ、その中で何とか生きていく庶民の女。女の庶民史なんだ。大きな「時」の中で、半信半疑で生きているのが「女」の「暦」(原題は『暦』)なんだ。

 五女が結婚を切り出したいが切り出せない五女(四女はまだなんで)の未来の恋。相手の好青年(船橋元)の腹がポッコリ。あんたねぇ、豚を飼育している村の好青年役で、しかもたった一人の若い男なんだから、もっとダイエットしてこいよぉ!と思っていたら、香川京子との森の中での甘いシーンの最後は、彼女が去った後に豚と一緒に昼寝してる好青年の俯瞰シーンだった‥これで良いンだなと納得してしまう。?名監督は役者を活かす。

 三人はもっと居たいと言いながらも、それぞれの生活のために急いで帰っていく。もちろん長女は畑で採れたものを新聞紙に包んで粗方持っていく。ニコニコと。妻であり母であり、ね、女だ。小学校の教師の四女は子どもたちに向き合う。彼らは未来の庶民たちだ。去っていく船を丘の上から見送る四女。あれ?これは尾道で見たことがある!前年公開された『東京物語』(小津安二郎)と付き合わせたい一編だ。(3月までに26本見た。○は6本。少々物足りないけど、まぁこんなもんやろ)

 

 

 

 

 

 

 2018年03月20日更新

 

 

☆無駄話(その2)

 今東京は昭和の日本映画がたくさん見られます。以前から新文芸坐(池袋)は月の半分位を古い日本映画の特集に当てていますが、シネマヴェーラ渋谷、神保町シネマ、阿佐ケ谷ラピュタが競って特集を組んでいます。例えば『玉石混合!?秘宝発掘!新東宝のもっとディープな世界』(シネマヴェーラ渋谷)なんて、そそられるタイトルでしょ。大映女優祭りと謳い、それぞれが違う女優の違う作品を特集したり(シネマヴェーラと文芸坐)と。かってはフィルムセンターの特集をヒントに恥ずかしそうに組んでいたのが、今や百花繚乱の態です。見る方は楽しいけど大変でしょうね。ありがたい、ありがたい。

 もちろんマイペースで独自にごった煮路線を突っ走る早稲田松竹とか、ユジク阿佐ケ谷、川を超えるけど横浜最後の名画座ジャック(ジャック&ベティとして知られてるけど、ベティは新作上映でベティが旧作や見知らぬ映画たち)や見づらいけどいい感じのシネ・マリンなどは洋画が多いです。そういえばドキュメンタリーと若い作家の売れない映画を押し出し続ける東中野ポレポレ座、しばらく行ってないなぁ。

 話が逸れてます。昭和の日本映画です。そりゃ○も×もあるけれど、そんなの当たり前で、そんなことより「量の中に質がある」って実感します。日本映画の魂というか心意気というか、粒子の間からこぼれてくるんですよね。文芸大作とか、キネ旬ベスト10(いつ頃まで権威だったんだろう?)とか、文部省特選(あったなぁ‥)とか、芸術祭参加作品(あった!あった!)とか、そういうんじゃなくて、俺たちの映画は他と違うんだっていう息づかいだなぁ。面白く作ったるぜっていう鼻息が流れてくるんですねェ。しかも底に日本人の血が見える。他の国のことは知らぬ。日本の生活に何かが伝われば良い。そんな感じ。グローバルでもインターナショナルでも何でも無い。日本人が生きているから映画なんだって言う。小学生の章ちゃんには分からなかったことがひしひしと迫ってきて、新鮮なんです。この年で新鮮に映画と向き合えるなんて、思ってもいなかったことで、この気持ちをどう言葉にしたり行動にしたりできるか(できないか)という、まさに“さあ、これからだ!”って言う9ヶ月でした。

 

 

 

 

 

 

 2018年03月05日更新

 

 

(『白痴』はやっぱりつまらなかった。)

 

『下町(ダウンタウン)』千葉泰樹 昭和32年東宝

(8/28神保町シネマ)

 これ、これ、良い!まったく知らなかったけど、山田五十鈴と三船敏郎さん(親族なので)の代表作です。「蜘蛛の巣城」と丸で違うキャラクターでこんなところにいたんだ!という驚きです。1時間弱の中編なんです。この時代、結構中編が作られて劇場にかかってました。今になってみると、なかなか贅沢なスタッフ・キャストでしたね。で、ほとんど手抜きがない。長編の添え物なので気を抜いて楽に作ってるからでしょうか、味のあるものが多かったようです。下町(ダウンタウン)って聞くと民家が密集してたりゴチャゴチャ雑然とした通りをイメージするでしょうが、違います。例えば「野良犬」(黒澤明)のあれは、繁華街です。だって渋谷新宿池袋、駅前に露天がまだ並ぶ一角があったんだから。荒川土手を子どもの手を引いて大きな荷物の山田五十鈴が歩いてくるロング(これが映画を象徴してる)、辺りに家はほとんど見えません。行商に来たんですけど、やっと見えた家に入っても断られる五十鈴お母さんです。昼時になってバラックで弁当を使おうと思ったら男がひとりで住んでました。復員してきたけど、身内は誰もいなかった、トラック1台で仕事を請け負う三船さんは顔や声に似合わず優しいんです。この出会いが映画の全てです。少ないセリフの奥に二人の生き様が浮いてきて、三人で食堂で貧しいご馳走を食べて‥‥ハッピーエンドなんて起こらないと予感しながら、愛と哀しみが詰まってる見守れる人生がありました。やっぱり!というラストが泣けるのは、映画は信じられるかどうかなんです。ね。(☆)

 

☆あれ?9月は○が1本も無いや!

 

『キートンのセブン・チャンス』バスター・キートン 1925年

(10/6シネマヴェーラ渋谷)

 キートンのニヒルな様とアイロニーと超絶アクションは尊敬の一語です。しかも映画の画面の在り方に挑戦する実験精神はもっと理解されるべきです。ほとんどのキートン解説者はそこを見落としています。映画の画面なんてさ‥‥という大胆でいい加減なアイディアを映画はもっと利用すべきです。私はそれなりに意志を継いでいるつもりで映画してます。今日はキートンとハラルド・ロイド(『要心無用』は彼の最高傑作)の四本立てで(二人の短編2本)胸わくわく来たんですが‥‥ロイドの2本は残念!キートンの短編も、もっと凄いのいっぱい見たぜで、まぁキートンを見たこと書いておきたくて、誰でも凄いと思うだろう「セブン・チャンス」に落ち着いてしまったという‥‥でもキートンの良さはストーリーに縛られないで映画してるところ。多分アイディアが先にあって、それをどう縛るかでストーリーが出来ているから、けっこういい加減。しかし美術と自らのアクションは絶対手を抜かない。映画は映画を成立させている要素の何かが突出していることが「その映画」なんだって、思い知らされるキートンでした。(☆)

 

『安城家の饗宴』鈴木英夫 昭和26年 大映

(11/19シネマヴェーラ渋谷)

 脚本新藤兼人に外れ無し。美術木村威夫にセンスあり。監督鈴木英夫は拘りをしっかり描く。その上主演級の男優陣が菅井一郎(父)、千秋実(息子)、小林桂樹(次女の恋人)、殿山泰治(父の上司)と名傍役ばっかり!と期待度大。

次女(役者の卵)の若山セツ子って名前が冴えないし、女優は期待してなかったけど、この人が可愛いんです。きっと三歳(当時の私の年齢)の章ちゃんが見ていたら‥‥恋い焦がれてましたね。しかもこの子が悪徳芸能ブローカーに騙されちゃうんだから、それまでの庶民的家庭劇が突然サスペンスに!この展開は“えっ”でした。そしたらそしたらとんでもない展開でめでたしめでたしに。これにも“えっ”しかも?マーク入りです。この強引ないい加減さは、まさしく映画です。映画館を出た人はみんな笑顔だったと思えます。(☆)

 

次は12月だけど‥‥一本だけ‥‥お金がかかるから月に10本と限定。しかも新作も含めるから名画座は少なくなるけど、それにしてもなぁ‥‥みんなが知ってる名作ならば×や△でも書いた方が良いのかなぁ‥‥清順の問題作『殺しの烙印』も△だったし‥‥来年からは考えよう。

 

『鳩』フランチシェク・ヴラーチル 1960年 バランドフ撮影所

(12/12フィルム・センター)

 うーん。久しぶりでポエムを見た。象徴的なイメージがおおきなラストに向かってきちんと構築されていく。頭が良いというかコンテがしっかりしているというか、デビュー作だそうで次の作品を見たいと思わせる美しさ。時代からして、きっとチェコのヌーベル・ヴァーグでしょうな。バルト海の島で帰ってこない自分のレース鳩を待つ少女という冒頭からカッコいい画面に引きずり込まれちゃう。ほとんど説明はぎりぎり。だいたい映画作るのに5W1Hナンて言った奴は映像の深みを分からんで、説明を待ってる病にかかってるのは間違いない。しかもそれを受けて分かってもらいたい病にかかってる映画人が多すぎる。画面を短くすりゃ良いってもンじゃないぞハリウッドと日本!時間と空間の省略は想像力を客に挑むためのものなんだから。なって再度確認させてくれます。それにしても大胆な構図の画面は美しい!ラストの360度パンなんて、まさに職人の成せる技ですよ。彼女の鳩はプラハで車いすの少年に撃たれて負傷していて、その鳩を拾った芸術家と少年が小声尾を通わせるという展開に、これは一筋縄ではいかないぞ覚悟が決まる。そしてラストは島の彼女とも心が通うという‥‥あっ、でもこれ説明じゃないから、説明なんか出来ないから。胸打たれる映像美の流れです。ヌーヴェル・バーグとかシネ・ポエムなんていう言葉でくくっちゃ作品がかわいそうなほど、帰路の気持ち良かったこと(☆)

 

 

 

 

 


 

 

2018年02月01日更新

 

 

無駄話

 なかなか平成三十年に辿り着きませぬ。

 昨年の4月に退職しました。退職したらやりたかったこと第一位は午後七時頃に夕食を食べて十二時までには寝て、朝七時には起きる。実行してるけど体調は良いですよ。かなり。第二位は映画をたっぷり見ること。それも名画座で。名画座ってご存知!の映画もへぇーの映画もあって、でも一日だけとかやっても2〜3回で終わってしまうので、仕事してる時は見たい!とチラシに○はつけても、ほとんど行かれず、でした。

 今の映画って私にとってはどこか軽くて浅いものが多いんです。昭和(まで)の映画は話が軽くても重いものが多いんです。隅々までよく見えない(写せない)こととか、作るプライドとか、作りたい!けどまたこんな内容か、よし!とか、あるんでしょうね。勝新の座頭市の刀って重そうで切れそうだって思いませんか?そういうことが未だに不思議なんですよね。

 4月から12月までに124本見ました。そのうち明治から昭和までの映画は78本。見た直後に○◎△×をつけていて、○と◎についてここで書こうと思ってるんです。もう私なんぞが書かなくても「うん、名作だ」って多くの人が認めてるものは書いてません。(書けなかったものもあります。石井輝男の「怪談昇り龍」は口を空いてる間に勝手に終わっちゃいました。)

ときどき×みっつ!なんてのも書いた方が良いかな?でもなぁ‥‥って思ったりもしてます。

 それと反省として、お金がかかる。国立フィルムセンターは310円と安いけど、名画座もシルバーは900円から1100円。1100円って昔は嬉しかったけど、シルバーはロードショーも同じ金額なので‥‥年金生活者には月13、8本はきつい。今年からは月に10本以内にすると決めました(悲しいけど)。

 ということで、早く平成30年を書きたいです。(一月10本。古い映画9本)

 

 

 


 

 

2018年01月15日更新

 

 

『無法無頼の徒 さぶ』野村孝 昭和39年日活(7/25ラピュタ阿佐ケ谷)

あんまり期待してなかった。小林旭はバタ臭い顔が好きでなかったし、相手が長門裕之で浅丘ルリ子もバタ臭い・・・これで明治時代?・・・だけど終わったら泣いていたんです。この年齢になって涙もろくなったことよりも、素敵な映画の匂いをまだ分からないでいる自分が情けなくて、嬉しかったです。まだまだ未知な昭和に会えるでしょう。小林旭と長門裕之に演技に火花が散ってました。そこまで意固地にならなくってもと思いつつ本音が見えるようで見えないようで、人の心の綾に食い入ってしまいました。撮影(高村倉太郎さん)がその襞を見つめ続けるので、ストーリーの安易さなど吹き飛んでしまいます。で、昔の映画って何でこんなにラストシーンが素晴らしいんでしょうね。設定・・・よりはカメラとカット割の心得でしょう。哀しく人を突き放す。いや、日活の文芸映画って、アンチ松竹・アンチ大映に燃えてるんです。今回見損なった『しろばんば』をぜひどこかで!☆

 

『赤い殺意』今村昌平 昭和39年日活(7/31ラピュタ阿佐ケ谷)

誰でも名画!という作品をココで書いても意味は無いと思ってるんですが、実は見ていない。見る以前に多くの人の口にされるものは自分が見なくても良いよな、ってへそが曲がるんです。でも東北のひなびた町で封建思想に縛られた主夫が強姦されたことを切っ掛けに自分の存在を打ち立てていくというモチーフは日本的でずっと見たい気持ちは続いていたので、ココは日活文芸映画を知るために、よし!と意を決して見たのです。結果、その通り名画。喘息持ちの冴えない亭主(西村晃)が「家」を守ることで自分を保とうとする哀れさ。それに従うのが女だと自分に言い聞かせてきたことから解放されていく主婦(春川ますみ)の体当たり演技。今村節がこれでもかと迫ってきて、何も文句はございません。私が新たに言うことも、ありません。ただ、この冷たさと突き放した目の温かさは(姫田真佐久のカメラとのコラボ)、見といて良かった。☆

 

『結婚相談』 中平康 昭和40年日活(8/4ラピュタ阿佐ケ谷)

以前見たいと思いつつ、三度目にしてやっと見られた。◎でした!清純派で直視するのも照れてしまう芦川いづみが結婚相談所で騙されてコールガールに堕ちていくという、えッ!そんなの良いの?というドキドキ感がそのまんま映画になっている。騙す沢村貞子もそのまんまって感じ。相談所のある裏通りのうらぶれ加減は、ひっきりなしに聞こえてくる宣伝カーの安っぽい明るさが不安を漂わす。鬼才と言われる中平ワールドは無くて、あるのは東京オリンピックなんかで変わるのはほんの一部さっていう中平リアリズム。芦川いづみはただ不幸せではなく、そこを受け止めて生きようとするから応援したくなる。ラストはよくあるハッピーエンドなんだけど、それがアー良かった!って思えるんだから。幸せな出会いでした。☆

 

『陸軍残虐物語』佐藤純彌 昭和38年東映(8/9池袋新文芸坐)

それにしても東京オリンピック前後の日本映画って深刻に人間を見つめる映画が多かったんだね。映画好きを自覚したての高校生は「禁じられた遊び」の再映とか大作「アラビアのロレンス」の鑑賞とか、明るくて何の問題も無い「若大将シリーズ」を見て、映画を語っていただけで、幅が無かった・・・でかい三國連太郎をチビの西村晃がいびり尽くす、そのビジュアルでこの世界を語ってしまうセンスは凄い。二人の間で揺れ動く中村賀津夫も西村の後ろのお坊ちゃん江原真二郎もビジュアルでキャラクターを語ってしまう。三國と賀津夫が糞尿の中で撃針を探すシーンの迫力があるから、二人の反撃に深い共感とその後に絶対訪れる悲劇を生む。いや佐藤純彌って「新幹線大爆破」でつまらんと偏見を持っていたけど、このデビュー作は見なきゃダメだろう!(この日は同時上映の「軍旗はためく下に」の左幸子を再度見ようと行ったんだけど、拾い物でした。)☆

 

『安城家の舞踏会』吉村公三郎 昭和22年松竹(8/17神保町シアター)

脚本新藤兼人+監督吉村公三郎って外れが無いし当たり前じゃない。そこが不満と言えば不満だけど、他に無い世界に連れて行ってくれるから仕方ない。それにしても森雅之っていつも好きになれない。それだけ名優ってことなんだけど、そのイメージを作り上げたのが多分この映画だろう。落ちぶれ貴族の屋敷だけで繰り広げられるもんだから原節子も滝沢修もどこか芝居っぽいので救われる。しかも力ない扇風機の首振りの画面など、ちょっとした小道具のアップがさりげなく映画になっていて嬉しい。セットってリアルで無くて好きになれない時期があったけど、スタッフもキャストもじっくり取り組んでいる、その映画的な集中力が一言で語れない世界を生み出していたんだと、思い知る。☆

 

 


 

 

2018年01月06日更新

 

 

『唐獅子警察』中島貞夫昭和49年東映(5/21新文芸坐)

渡瀬恒彦の追悼特集。初めて記憶に残ったのは『仁義無き闘い』で母親に連れられてやくざに就職するチンピラ役。いつでも行き場の無いエネルギーがまっすぐ前にだけ投げられる、直球男渡瀬はいつでも破滅していく美学を抱えている。この映画はまさに渡瀬映画。貧しい家族を捨てて暴力団幹部になった腹違いの兄小林旭を憎悪しながらチンピラからライバルにのし上がり、なんと生まれ故郷の路地裏で二人は対決する!これはかわぐちかいじの原作から離れ過ぎでしょ、とかそんな客観的なことはどうでもよく、ともかくかって知ったる路地から路地と、二人を良く知る住民達の冷ややかな視線と、宿命に追いつめられた二人の姿は悲しくて痛ましい。死んだ弟を乗せて重傷の兄は車を運転する。そんなところには一刻もいられない。ラスト、ハンドルを口にくわえて運転する小林旭!(数秒感だけど本気!)は凄くて哀しい。☆

 

『甦る映画魂』 石井輝男

小学生時代『スーパージャイアンツ』という今考えるといかがわしいシリーズがあって、その2作目『怪星人の魔城』という怖い(当時ね)で魔性のダンスシーンが延々と続き、純粋な僕は退屈しながらも見てはいけない物を見ているようなワクワク感につつまれていた。それが誰あろう石井輝監督だったと、この特集で初めて知った。知って納得した。

『いれずみ突撃隊』石井輝男昭和39年東映(5/31シネマヴェーラ)

単なる健さん映画の追っかけとして見て度肝を抜かれた初見から二度目。ふんどし一丁で日本刀を振りかざして八路軍の砲弾の中へ突っ込んでいくラストが凄い。しかも煙に包まれて見えなくなっての終わり方がたまらない。じゃあ、そこへ辿り着くまでの話が上手く運んでいるかと言えば別にそんなことは無い。

新兵いじめをめる健さんはカッコいいし、前線の兵士の相手をする女達がそれぞれの哀しさを隠して懸命に生きている姿は哀しいし、それらとラストは同一線上にある。こうだからこうなったというわけではない。これも生き方、あれも生き方、これを渾然一体って言うのだろう。どこにも石井輝男の世界観があるだけなんだろう。一筋縄ではいかない娯楽映画。だってだって、これ東京オリンピックの年に公開されたんだよ!☆

 

『異常性愛記録ハレンチ』石井輝男 昭和44年東映(6/14シネマヴェーラ)

私が小学生の時代、『隠密変化』で主役の柳生十兵衛を演じたりしていた新東宝の時代劇スター若杉英二が、ぶよぶよの身体で橘ますみにのしかかるんだからショック。ふられても嫌われても意に介さず迫るんだからもう幼心を傷つけられた私はどうして良いのか。橘ますみも橘ますみで、何でそこまで受け容れるンダ?ってほど泣き叫びながらも結局はされるがママ。女心の訳分からない闇に付き合わされてもうウンザリ。彼女を救うダンディがやっぱり新東宝で菅原文太たちと「ハンサムタワーズ」で売り出した吉田輝雄!こちらはかっての吉田と同じでカッコいいんだけど、まるでタイミングが悪くてラチがあかないと来て、これは石井監督の旧知の友をもう一花咲かせる映画ならずいじめ?‥‥

気がつけばやりたい放題のぶよぶよ若杉は新宿のゲイボーイズと踊り狂ってる。そのゲイボーイズの絶妙な自己紹介を見ていて、力が湧いてくる。自分の辛さを隠して自分を笑い者にする彼ら(?でいい?)に哀しさと力を見る。そうだぶよぶよ若杉は自分を生きているんだ。橘ますみは(ホントにきれいだけど)自分に正直なんだ。ダンディ吉田は自分を貫こうとすると映画ほど上手くはいかないという俺たちなんだ。三人はどんどん人間的に見えてくる。どうしようもないほどに。モラルとか常識とかの外にある自分たちの人間性は、モラルや常識からすれば悪なんだけど、自分に忠実に生きようとして、居場所が無いことに気がついて、もがいている‥‥『禁じられた遊び』のポーレットとミシェールとどこが違うんだ。ラストで三人は雷と雨の中でもみ合い、若杉は死ぬ‥いや、死ぬべきは3人だったんじゃないか。それが居場所の無い人間の映画的な昇華だったんじゃないか。死なないのなら、三人でボーッとして居場所の無いままほっておけば良かったんじゃないか‥‥しかし、傑作だ!☆

 

『踏みはずした春』鈴木清順 昭和33年日活(6/16神保町シネマ)

石井輝男もそうだけど、鈴木清順という人も一筋縄ではいかないプログラム・ピクチャーを作ってきた。自分の美学と心中したい覚悟がある映画屋さんは羨ましい。それは闘いであり抗いであるのは明らかなんだから。これは本名から清順に改名した年の映画だから、その覚悟のスタートの年と言えるんだろう。左幸子は子どもの頃から好きな女優さんだ。明るく垢抜けず、どこか淋しげな表情をふと見せる。非行少年(若き小林旭が味が無理無くて良い)を更生させようとする女性の話で、もちろんハッピー・エンドなんだけど左幸子が歩いて行くラストの長回しは、これが映画。映像でなければ語れないドラマ。見るっきゃ無いんです。こう言う時、俺は見たぞと得意になれるのが嬉しい。☆

 

『女中ッ子』田坂具隆 昭和30年日活(6/28ラピュタ阿佐ケ谷)

ねえ、どうして昔の日本映画のラストって明るい内に切なさとか虚しさが滲むんだ?8歳の頃に母親に連れられて見に行った当時ずっと心に残った映画。で、新人らしく初々しくて生き生きとした左幸子。お姉ちゃんが欲しくて仕方の無かった僕は、東北の寒村から東京のお屋敷へ女中として住み込んだハツの言葉と行動に主人公同様に恋をして、涙なみだで見た。一度故郷に帰ったハツに会いに一人で雪の中を歩く少年の“ハーツ、ハーツ”の独り言に胸がかきむしられたものだ。定年後の今はさすがに同じところで泣けなかったが、画面の隅々に記憶が蘇り、あの涙は本物だったと確信した。しかし改めて60年ぶりに見たラストは!理不尽だが自分の義理を通したハツの明るいかどうかなんて分からない未来に初めて気がつき、‥‥泣いていた。多分原作の文字以上に、映像の手柄なんだと思う。必見『女中ッ子』☆

 

『沓掛時次郎 遊侠一匹』加藤泰 昭和41年東映(7/7早稲田松竹)

何度も見て、何度も泣いてしまう映画が私には五本あります。これはその一本。知っているのに分かっているのに泣いてしまう。そればかりか泣くポイントが増え、深いところで泣いてることに気づきもします。自分の過去とドンドン結びついていくんでしょう。初めは加藤泰の独特の構図やカッティングのすごさに魅了されていたんです。ローアングルと長廻しだけじゃない。画面の分割と素早いカッティングは次がどんな画面か予測させないから、その画面に出会って新鮮な気持ちが湧いて来る。加藤泰の流れは、これぞ職人芸でしょう。その積み重なりから中村錦之助が好きになった、池内淳子を初めて良いと思った、渥美清を切ないと思った。錦ちゃんは厚塗りメイクで演技もセリフもオーバーで分かりやすいんだけど、それがわざとらしく見えていたんです。でもそれは与えられたキャラクターがワンパターンで、血が通ってなかったからで、きっと本人も(こそ)嫌気がさしていたんでしょうね。だから厚塗りメイクが能面のように見ている自分を映し出して、オーバーな演技が心の中に深く突き刺さったんでしょう。映画は役者とスタッフと監督のコラボレーション!まさにそれです。雪の坂道での錦ちゃんと淳子の再会のシーン。日本映画です!☆

 

 


 

 

2017年12月29日更新

 

 

『ウンベルトD』ヴィットリオ・デ・シーカ1952

(恵比寿ガーデンシネマ4/25) 

名前だけは昔から知っていたんだけど、見たいって興味はそれほど湧かないままだったんです。Dが監督の父親のイニシャル(もちろんデ・シーカのD)だと知って、やっと興味が湧きました。年金もままならない一人暮らし。身につまされて、彼に冷たい周りもでも懸命に生きているから。だから懸命に周囲に抗い続ける老人が辛い。犬の名演技が話題だったんだけど、確かに!悪いけどどこかの電話のコマーシャルのお父さんはまだまだ。映画はモンタージュだから犬だってなんだって演技できる。でもこの犬には感情が見えた。家を追い出され、買えなくなった犬を誰かに渡そうとする老人に、でも犬は抗って逃げる。追う老人に振り向きながら一人離れていく時に汽車が‥よくある設定なのにハラハラする積み重ねが、アー監督は本気だなと。結果的にはもちろん間一髪で老人のもとへ!なんだけど、そうなるかどうか分からない流れなんだから。どこかへ歩いていくラストのその涙の中で、人に必要なのは心しか無い、そう言うつぶやきが聞こえて、救いになった。 ☆

 

『暗くなるまで待って』テレンス・ヤング1967

(池袋新文芸坐4/29

巷で噂の‥にはすぐ飛びつかないという癖があるんです。19歳の時のこれがオードリー・ヘップバーンを初体験した映画。そのドキドキ感が蘇るけど、それ以上にヘップバーンの演技って枠にはまらない、それが魅力なんだって確認したことが嬉しい。ワクワクしたストーリーはそれほどのことは無いってあれから50年の、すれた頭で受けとっても魅入ってしまう力は何を置いてもヘップバーンですよ。もう一度ヘップバーンを見直そうかと思う。(でもどれも有名だから‥やっぱりすぐには飛びつきそうも無い) ☆

 

『日本の悲劇』木下恵介昭和28年松竹

(神保町シネマ5/16

タイトルがつまらなそうで、母物はわざと涙させようとしてると偏見を持って敬遠してきたんです。望月優子って上手いけど主演作を余り知らなかったのと自分が5歳の頃の日本を知りたいという気持ちで見に行ったんです。5歳の頃の私の世界は五十銭もらって紙芝居を見るくらいの世界だったからでしょう。女手一つで子どもを育てる(家と同じ)。そのために男から男へと渡り歩く。でも息子も娘もそんな母親を疎んじて‥仕事と生き方が恥ずかしい‥(自分が20歳くらいだったら同じなのかなぁ)そのセリフがリアルで、この頃から家族のデス・コミュニケーションとか核家族化する理由とかが表現されていることを認識させられる。今だって変わらないけど、女性が生きていくのは大変なんだよなぁと、どこか冷静に見ていたつもりが、絶望した彼女がホームでじっと動かない。そのシーンの静かなこと、長いこと。音も無い引いたショットに身じろげなくなって、突然入ってくる列車に向かって走っていく姿に“えーっ!”ってなる。ギリギリまでカットしない!ってことはギリギリまで走ってる望月優子さん。「迫真の演技」って言葉が色あせるくらいすごい。このラストシーンだけで傑作になった。(それにしても望月優子の顔は私の母に似てるな) ☆